かみむらさんの独り言

面白いことを探して生きる三十路越え不良看護師。主に読書感想や批評を書いています。たまに映画やゲームも扱っています。SFが好き。

劉慈欣過激派による「栄光と夢」解説(劉慈欣短編集「円」より)

何かを過度に貶めることと、過度に信奉することは、本質的にあんまり変わりはしないのではないか、と思う。

あんまりこういう単語を使うことはしないのだが、表現としてわかりやすいため、あえて使うとすると、それはいわゆる「クソデカ感情」というものである。

愛と憎しみは表裏一体。容易に反転しうるし、感情の重さが変わることがない。だからタナッセにも愛してもらえる(このネタ誰がわかるんだろう/気になった人はフリゲの「冠を持つ神の手」をやろう)

というわけで今回は、「円」に収録されている「栄光と夢」があまりに良かったオタクでスポーツ嫌いな私が、過激な妄想をぶちまけて、このおはなしの解釈を広げていきたいと思う。

ほんとうは戦争が……とも思っていたんだけれども。

SF読書会関連のフォロワーさんが、”政治体制に引っ張られずにbotのようにSFを描いた劉慈欣でもあろうと思うと、歯を食いしばって自由に語るぞ”(抜粋)という話をしていて、それはそうだな、その通りだなと思って、私も歯を食いしばって語ろうと思ったのです。

だいたい、このおはなしは、カオスの蝶と違って戦争のおはなしではないのだ、というのが私の見方。

今はちょっとショッキングな写真や映像があまりに溢れすぎていて、みんなしんどすぎてしまって、このおはなしに連動してしまうのはとてもよくわかるし、私もそうでなかったと言えば嘘になる。

でも、私が「栄光と夢」を初めて読み終わった際、涙ながらに思い出したのは、小学校の体育の授業だった。

体育のカリキュラムのことはよく知らないが、多くの人が経験あるんじゃないだろうか、跳び箱である。

私の小学校では、一人一人並べられて技を披露させられたんだよね。

と、いっても、少なくとも私は何か教えられたという記憶は一切ない。あの時、できる子たちは教師から熱心に指導されていたけれども、私みたいな運動音痴はほぼ放置で、ただ時間だけが与えられているありさまだった。

というわけで、私はいちばん低い段もまともに飛べないわけだったんだけど、まあ跳び箱の上で逆立ちするような変な技をして拍手と歓声を受ける子の後とかにやれって言われるわけだよ、技を。技ってなんだよ。

ただでさえいじめられっ子なので、三段が跳べるかどうかがもう、命の瀬戸際ですよ。

ま、そして拍手されるわけですよ。もちろん失笑と共に。

私はあれ以来スポーツを人生かけて憎んでいるし、そもそも体育の授業にまともに参加しなくなった(体育倉庫とかで暇をつぶしていた/体育以外の成績が良かったので許されました/それもどうなの)

スポーツが憎いのか、スポーツが好きなひとたちが憎いのか、それともただ学校教育の体育が憎いのか、それは三十路を過ぎた今でもよくわからないんだ。

 

「栄光と夢」の話に戻ろう。

このおはなしは、戦争の代わりにオリンピックで決着着けちゃおうぜ、というところから始まる。

二か国だけのオリンピックである。そんなばかなオリンピックがあるか、と言いたいところだけれども、劉慈欣は人間果てしなく愚か説の提唱者なので、そういうことを平気でやってしまう。

しかも、戦時中で国全体が貧困のシーア共和国VS有望なスポーツ選手にはなんでも提供できるアメリカなのである。シーア共和国の選手は栄養状態も悪く、練習もまともにできない。そもそも、有望な選手が多数死んでしまっている。

当然、シーア共和国は惨敗を繰り返す。体操選手のライリーという選手は、既に負けるとわかった状況で狂気の演技を披露し、平行棒から落ちて死ぬ。

これは戦争でも、オリンピックでもない。これはただの虐殺なのである。スポーツ選手の人生と心を殺す、あまりに非道な虐殺。

一勝でも挙げられたら国に恩恵があるというところから、選手は逃げられない。唯一、サリという選手だけが拒否するが、この男は例外で、勝利する可能性があるから逃げられたのである。強いから逃げられただけだ。

何度でも言おう。このおはなしは、弱いスポーツ選手の逃げ場を奪い、その人生と心を破壊しつくす、虐殺のおはなしなのである。

しかしそれは生命を奪わないという点において肯定され、エンタテインメントとして待ち望む観客は会場に押し寄せている。そして悲惨すぎて勝手に目を覆ったり、英雄視したりする。

これは、痛烈なアメリカ批判やオリンピック批判(私はオリンピック見ないのでよくわかんないけど……)と読むこともできるけれども、私は先の跳び箱の思い出があるので、どちらかというと、スポーツ全体に対する皮肉のように思える。

他の国では教育の質が違うかもしれない。でもやっぱり、スポーツができるかどうかというのは、人生の質を変えてしまうと思う。学校教育という逃げられない場において、お前はできそこない、と突きつけられたような気持ちのまま、生きていかなければいけないひともいる。

根拠はない。私の感覚だ。

あの跳び箱で、人生と心を殺された私の感覚でしかない。

でも……たとえば、ミスコンで明らかに不美人が選出されるのはいじめだと思う人が多いだろう。何よりミスコンというもの自体が批判されがちな世の中である。

それなのに、学校教育のマラソンで、明らかに完走できない子や、他の子より数十分時間がかかる子を参加させることは、普通だと思う人が多い。

そういえば中学の頃、どう考えても私には登頂できない山を登らされた挙句、途中で引き返して転んで怪我をしただけ(しかもちゃんと処置してくれなくて化膿した)のクソみたいな行事があったことを思い出した。

もしかしたら、私が子供の頃に比べて、日本の体育教育はもう少しマシなのかもしれない。子どもを生まない私には知る術はないが、もう少し世の中は私のような人間に優しいのかもしれない。

そもそも、この人生と心を殺される感覚は、スポーツに限らないかもしれない。勉強や、それこそルッキズムも、あまり変わらないのかもしれない。

私が極端に競争というものを嫌っているから、必要以上に競争を肯定するスポーツ文化がいやなのかもしれない。

それでも、私は、勝った負けたで大騒ぎして、上位の人しかメディアで取り上げないスポーツ競技の大会を見るたび、吐き気がします。

ここに関して、別にどうなってほしいとかは思わないし、スポーツ好きの人を責めたい気持ちはないけれども、私のような意見があっても、許される世の中だと良いと思う。

 

さて、中国の体育教育って、どんなんだろ?と調べたら、案の定、中国らしく、才能がある人間は早めにスカウトして、英才教育を施すらしい。

実際のところを知らないので、私の口から中国批判はしない。

でも劉慈欣は、そういう教育に対して、おそらくかなり危ぶんでいる。

主人公のシニは、口がきけないマラソン選手である。

このおはなしは中盤から、このシニの物語となる。

当然マラソンのおはなしになるのだが、思い出してほしい、このおはなしは虐殺のおはなしだ。マラソン競技特有のかけひきや、ライバルとのやりとり、そんなものは一切ない。

エマという世界最高のマラソン選手に、シニは完膚なきまでに殺される。書いてあるのはそれだけなのだ。

シニは実際に死んでしまう。全力でオリンピックで完走したことを誇りに思い、笑顔を浮かべて。栄光と夢を胸に抱いて。

クソッタレが。

口が悪くなった。ラスト付近についての話はあとでしよう。

シニがマラソンを完走するまで、シニの人生が語られる。

母を空爆の被ばくによって亡くし、ある男にマラソンの才能を認められて、男の売血と彼の親族の犠牲を受けてマラソンだけに人生を懸けてきた。

この描写は、正直上手いとはいえない演出で語られる。シニの中で現在と過去が混ざっていく、やや狂気的な世界の表現ということはわかるのだが、あまりにぐちゃぐちゃしている。とにかく読みづらい。

たぶん翻訳は悪くない。悪いのはたぶん、劉慈欣の熱量である。

そう、熱がある。どうしても惹かれる。上手くないが、下手な書き手には絶対に書けない、心に訴えかける熱がある文章なのだ。

そして、これだけの熱をかけて人生を語られたシニは、しかし人格がほとんどない。あるのは走ることだけだ。それ以外ない。

読書会で、シニの葛藤があるべきでは?という意見を聞いた。最もである。

しかし、劉慈欣が書きたかったのは、おそらく、小さなころから栄光と夢を押し付けられ、それだけになってしまった、美しさと悲しみを湛えた少女なのである。

かなり意図的に人格を削られており、それはやはり、前述した中国の体育教育への危惧があるからなのではないか、と感じる。

小さい頃から一つのことをやらされて、それ以外何もなくなってしまう。マラソンの才能を持っていたばっかりに、マラソンロボットにさせられてしまった。

シニには、走らないという選択ができない。棄権して生命を繋ぐ選択肢などないのである。シニは走るしかなかったし、走らなければ死ぬしかない。そこには葛藤など生まれようがない。

「栄光と夢」は悲劇だ。このおはなしに栄光も夢もない。愚かな人々と、虐殺されるオリンピック選手と、マラソンに人生を蝕まれた少女がいるだけである。そして世界に常にある飢えと苦しみと誇りが、これでもかと描かれているだけである。

劉慈欣は、シニの死も、戦争も、決して肯定してはいない。愚かだと心の底から思っているに違いない。このおはなしだけでは判別がつかないかもしれないが、「円」の短編集全体を見ればわかる。

しかしなぜこんなクソッタレなものを書いたのか。

私にはわかる。

そのクソッタレなものは、あんまりにもうつくしすぎて、もはや信奉するに値するからである。

 

私はスポーツが嫌いなただのオタクだ。スポーツができない人間は大概オタクになる。

オタクなので、二次創作をする。

数年前、とあるスポーツ漫画にハマって、二次創作小説を書いていた。

あまりにも恥ずかしいのだけど、歯を食いしばって語ることに決めたので、少しだけ話そう。

才能はあるがトラウマからそのスポーツの鬼と化してしまった子供(これは公式設定)を病気の大人にして、世界最高の戦いで優勝させて、その途端に殺してしまったのだ。まあBLなので、彼を愛している男が、スポーツを諦めて普通に生きながら、ただ彼を救えなかった話だ。

私はスポーツを憎んでいるから、これはこの上ない悲劇として書いた。今思うと、このおはなしは、私なりのスポーツへの復讐だったのかもしれない。絶望の話を書くことで、溜飲を下げていたのかもしれない。

ただ、私の中に、それ以外何もないこと、そこに殉ずること、生命も心も人生も投げうつことへの強烈な憧れがあることは無視できない。それはたぶん、ほとんど信仰と呼べるものだったと思う。

当然だが、現実のスポーツ選手に耽溺したことはない。ほとんど名前も知らない。

たぶん私が信仰しているのは、あの日跳び箱でハンドスプリングを決めた、もはや名も覚えていない子どもなのだ。

私だってああなりたかった。

私だって、今だって、シニみたいになりたい。どれだけそれが、悲しいことであったとしても。

劉慈欣のような偉大な作家に自分を重ねることがどれだけ愚かなことかはわかっている。

それでも、「栄光と夢」を書いたときの劉慈欣のことを、わかると言わせてくれ。

絶対に、無批判にシニを描いてはいけない。シニのことも、戦争も、クソッタレオリンピックのことも。

しかし、それでも、強烈に鮮烈に蘇る信仰を捨てられない。苛烈な悲しみも、唾棄すべき悲劇も、うつくしさの一点のみで肯定したい時が、誰にだってあるはずだ。

劉慈欣は世界に通用する形で、それを書いている。素晴らしい作家である。

まじでみんな買って応援するしかないよ。

 

ここまで書いて、実は劉慈欣がバリバリのスポーツマンだったらどうしようと思っている。もしそうだったら恥ずかしさで憤死するかもしれないので、どうか、私が動揺しないように、べろべろに酔っ払った時とかにそっと耳打ちしてください。

えーでも絶対劉慈欣はスポーツできないオタクのひとだって!新海誠好きなやつがスポーツマンなわけないよ(偏見)

ほんとうは、自分の人生と小説の内容や、作家と自分を重ね合わせるのは好きじゃなくて、感想や批評としては相応しくないのではくらいに思っているんだけれども、「栄光と夢」も劉慈欣氏も大好きすぎて、愛が爆発して耐えられなくなってしまったので、たまにはこういうのもいいだろうと思って書きました。

そんなわけで、ここに書いてあることのほとんどは妄想なんだけど、誰かにとって面白い妄想であってくれたらいいな。

さて、「円」のレビューは残すところあと5作品になった。私が死ぬほど好きな2作(「郷村教師」と「栄光と夢」)が終わったので、後はのんびり書いていきたいと思う。案外レビュー書くと好きになるというのもあるし。

初期イーガンはちょっとごちゃごちゃしてるけど、とっても魅力的だよね!(イーガン読書会②「順列都市」報告)

昔読んだ時、たぶん後半部分がよくわからなくて、ほぼ記憶がない「順列都市」である。

ただ、よくわからないながらも、スゲー!と思ったことだけ覚えている。私は自分には理解や想像が及ばないものがいちばん面白いと思う。そう考えると、この世には面白いもんいっぱいあるな。

というわけで、イーガン読書会2回目でした。今回は私含めた6名の参加。未読は1名のみ(でも大体読んでた)。相変わらず、知り合いのみの会なのでわちゃわちゃ意見が飛び交って楽しい。

初期イーガンの作品なので、「白熱光」に比べると粗い描写が多く、内容も色々なアイディアをポンポン出していくスタイルで、それぞれのつながりが希薄でまとまりがない。

特に下巻に入ると主題が急に変わってしまうので、ついていけない人も出てくるのではないか、と私なんかは思ってしまった。実際数年前に読んだ私はついていけてなかったし。

その分、ストレートに面白いアイディアがいくつも提示されて飽きさせず、おはなしも比較的エンタメ寄り。他のイーガン作品と比べると理解しやすいところや、近未来が舞台なこともあって、現代に生きる我々でも共感できる葛藤が描かれるところは評判が良かった。

特に、主人公のマリアは、かなり現在の一般人に近い人間だったので、違和感を感じず読みやすかったと思う。

最近の作品(「ゼンデギ」は違うけど)は、もうずいぶん未来が過ぎちゃって、人類と言えど、ちょっと現世の人類には理解しがたい感覚や価値観になってしまっているからなあ。人類じゃないのばっかり出て来るし。それはそれで面白いけど少し疲れちゃうよね。

そういえば、イーガン、ちゃんと人間書けるんだ!という声に思わず笑っちゃった。

短編は結構人間ドラマもあるし、特に医療機関絡みのシーンにおいては、看護師の私から見ても、よく現場を観察しているんだなあと感心することも多いんだけど……そもそものところが、人間に対する執着というか、愛というか、少ないひとだなあとは思います。

この間劉慈欣の読書会でも、似通ったテーマとして「ユージーン」(TAP収録の短編)を引き合いに出して語ったら、「それはイーガンがストレートに人の心がない」と言われてキャッキャと笑っちゃった。私はどっちも違う意味で大好きだけどね!

まあ、だからこそ、イーガン先生は宇宙に人類に謎の異星人などを等価で考え、同じレベルでシミュレーションできる作品が考えられるのだし、それが面白さの一つになっているのだろうと思う。

と言ったらみんなに(ほんとか?)深い頷きをもらった。うれしい。

 

イーガン作品はアイデンティティについて描く作品が多いが、順列都市はとにかくその描き方がしつこい(もちろん、いい意味で)。

そんなわけで、共感できる人物が人それぞれじゃないかという話が上がった。一般に広く受け入れられそうなのは、先も述べたけど、やっぱりマリア。

個人的にはケイトやマリアの母なんかも、一般的に理解しやすいのでは、と思う。

さて我が読書会では、ピー派が2人。トマス派が2人。

私はピーが一番よくわかんなかったのでびっくりした。そのひとは逆にトマスに共感とかマジ!?という感じだったので、ひとには多様な価値観があるのだ……!と思いました。読書会とかやると感覚の違いが浮き彫りになって面白いですね。

ピーに感情移入した二人は、10年前の自分は自分じゃない感じがあることや、選択的に人格を選ぶことへのわかりみを語っていた。

そんな中、トマス派の私「トマスはアンナを壁にガンガン打ちつけるところにしか自分がないんだよ~その感覚、めっちゃわかる」

もう一人のトマス派「トマスがやり続けてるようなこと、めっちゃ夢に見る」

大丈夫かな、この読書会……(たのしい読書会です)

いや、トマスめっちゃ好きなんですよ、私。永遠の地獄を選んだくせに、最後の最後で地獄から逃れようと精神崩壊しちゃうのも、こいつのせいでマリアとダラムが間に合わないのも、ぜんぶ好き。ヒエ~人間!って感じで(深刻な語彙力の低下)

もう一人の主人公ポール・ダラムについても色々話が挙がった。塵理論を提唱し、全部の自分が自分であり続けるという狂気の妄想みたいな感覚を持ち続ける男。

TVC宇宙を発進させたら、もうこの自分はいらないから、という理由で自殺するというのが面白いという意見や、最初のシーンは感情移入で来たのに、マリア視点で見たポールはめちゃ気持ち悪いのなんで??という意見が面白かった。

私はあまり気にしてなかったのだけれど、ダラムの家にあった絵画(ボッシュ、ダリ、エルンスト、ギーガー)はそれぞれ不気味なもので、好む音楽(ツァン・チャオ、フィリップ・グラス、マイクル・ナイマン)もちょっと奇妙で不思議という話も上がった。

まあ、つまり、もともとどこか、おかしいひとだったのでは……という。

短編の貸金庫とか見るだに、イーガン先生精神科に行ったことあったでしょ?と思う私は、意図して彼を精神疾患ぽく書いたのかな~という気がする。実際、作中で治療も受けているしね。

単に経験的な感覚だけども(精神科看護歴が長いので)、精神疾患の方、なんとも精神に来る不気味だったり不思議だったりするものを好む方が多いんだよな~。

この辺、変、不思議と切り捨てず、深く考えて解釈することができる方が多いというのはあるかと思う。大体考えすぎて具合が悪くなるんだよな……。考えない人は心が具合悪くならないもの。

また、芸術家も精神を病むひとが多いので、惹かれ合うものもあるのでしょう。

まあ、私も、ボッシュもダリもエルンストも好きなんですけど……。

ちなみにフィリップ・グラス、マイクル・ナイマンについては、好きだという参加者の方が、読書会後のグループDMでYOUTUBEの動画をたくさん貼ってくれました。ミニマル・ミュージックというらしいです。

とりあえずこのブログを書きながら聞いているんだけれども、ちょっとゲーム音楽っぽくて集中できていい感じ。

 

作中舞台である仮想空間やコピーについてや、トンデモ面白理論である塵理論、手作り宇宙で進化したランバート人についても、面白かったという意見が多かった。

仮想空間に関しては、割とシビアな格差社会が描かれ、金がないと低速になるというのが面白かったという意見。速度が速くなるおはなしはあっても、遅くなるのは珍しいとのこと。

また、スピードが遅くなっても本人は認識できないため、唯我論者国家という貧乏(失礼だけど)コミュニティができているというのも面白いと話があった。

私なんかは、もうコレは金がないと通信制限をかけられて低速になるやつだと思って、今読むとなお面白いなと思っていた。格差社会はいつの時代も深刻なものだ。

塵理論は、面白いけど難解、という声が多数。多世界解釈の一つでは?という意見もあった。

私は端的に、なんらかの形で整合性のあるパターンがある限り、無限に自分が存在できる、くらいのふんわりした感じで読んでいた。多分ざっくり言えば合ってるんだろうけど……。

塵理論に関しては調べれば調べるほど難解な説明が出てくるものの、だいたい「この解釈が正しいかわからないが」と書いていて、ちゃんと理解してるやつ人類の数パーセントもいないんじゃないか?と思う。

でも、よくわからん理論があって、そのロジックの中で進んでいくロマンを描くのがハードSFの面白い所だよねえ~という話にもなった。やっぱりよくわかんないものは面白いんですよ。

ランバート人は、人間と全く違う生態を持っていること、とりわけ、群体として考え論理構築のダンスをするというのが面白ポイントだと話が挙がった。

人類もダンスを用いてランバート人とのコミュニケーションをとるが、これも単に人間同士の会話とは違うものとして描かれているのも面白いし、そのうえで無限はあり得ないと断言されてしまい、ランバート宇宙の論理 VS TVC宇宙の論理という展開には、「論理の強さってなんだよ」と思いながらも、強い魅力を感じた人が多かった。

論理の強さというのは、イーガン的に言えば数学的な美しさなんですかね。美しさってなんだよ(無限ループ/やっぱり無限はあるんだ!)

しかしこの、順列都市にたどり着いてからランバート人の論理に敗北して崩壊していくという部分が、あまりにもあっさりとしていて物足りないという意見も多かった。

このトンデモ宇宙論理バトルが下巻の半分ちょっとしか割合がないのは、確かに納得いかない。この流れだけで1冊書けてしまうのでは……?と話す方さえいた。

そこから派生して、7000年経ってるから仕方ないと言えどあまりに前半部分と繋がってないよね、物語の構成としては上手くない、という意見も。オートヴァースが作られた理由としても、TVC宇宙のために予測不能な乱数を入れるということで一応説明はついているけれども、噛みあっていないように感じるとのこと。

私は乱数を入れるためというのも読み飛ばしていたので、なんかそういうのやりたかったんだな、と思ってました(おばか)

イーガン先生、特に初期作品は、これがやりたい!これおもろいやろ!みたいなのがドーン、ドーンと降ってくる感じがあって、最近になるにつれてまとまり感が出てきた感じもあります。そこら辺を読書会で追っていくのも楽しそうです。

 

イーガン名物である、登場人物に知性があるひとしかいない問題も話題に出た。これ、文藝の「イーガン祭り」の対談を見る限り、よくあるイーガン批判の一つみたいですね。

私は勝手に、人類が何万年も経って不死も実現して、結果高い知性を持つのがベースになっていると考えていたのだけれども、順列都市は近未来なのにみんなめちゃめちゃ知性的だったので、違ったみたい。

ちょっとバカっぽく書かれているはずの音楽系彼氏アデンが、マリアと真っ当な議論をしていたり、反社会的な組織や薬物との関わりがあるアンナが、頭の回転が早く言語化が上手だったりする。

アンナに関しては「もっとひどい運命を思いついた。中年の銀行屋と、しあわせな家族ごっこをやってるのさ」というセリフがあまりに傑作という話も上がった。こんな傷つくこと言われたらトマスも殴っちゃうよな……。

マリアの母がコピーを拒否する理由もただなんとなくではなく、理路整然と自分の立場を語る。自身の考えの裏付けとなった神や宗教団体についても、詳細に語ることができる。

ついでに塵理論に金を払う資産家たちも、ポールの説明を理解していてすごくない?という話も出た。

改めて並べるとみんな知性高いなー。現実はもっとみんななんとなく○○みたいな話をすることがほとんどだよ。みたいな話をした。

アンナみたいな子は現実にもいるけど、もっと感覚的に話すよ、という生々しい意見も。まあそらそうだよな。

ただもちろん、知性ある人物を効率的に出すことで、それぞれの思想がわかりやすくなるし、おはなしとしてもスムーズに進むので、一概に悪いともいえない。というか、読む分には、大変読みやすい。

非常に個人的なことを言えば、まあこんなこと言っちゃ失礼なのかもしれないけれど、知性的でないとされるひとびとの、単に愚かだったり意味不明だったりする行動や思想も、人間的な魅力に満ち満ちているとは思います。

でもたぶん、それはイーガンが描かなくてもいいのよねえ。

 

順列都市に関連する作品としては、アーサー・C・クラーク作品、飛浩隆作品(「グランヴァカンス」、「零號琴」)、「ホモ・デウス」、「エターナル・サンシャイン」(映画)が挙がる。また、仮想空間内の生命という点で、後のイーガン作品である「ディアスポラ」(の中の「ワンの絨毯」部分)の元ネタという話も上がった。

アーサー・C・クラークに関しては、人物たちの因果ではなく、宇宙全体の話を描いているところが似ていると。最近幼年期の終わりを読んだばかりだったので、あー確かに、とわかりみ。人間を中心にしたドラマに心惹かれるか、人間を超えた大きなものの変化に酔うのか、人によって好みが分かれそうです。どっちも別のベクトルで面白いよね。

飛浩隆作品に関しては、今回スピーディーに駆け抜けた世界崩壊の部分を詳細に描いた作品がまさに「グランヴァカンス」。面白いです。「零號琴」に関しては少しもネタバレしてくれなかったので、似ているよ!いいよ!という力強い言葉しか聞けなかったんだけど、どのみち読もうと思っていたので今度読みます。

「ホモ・デウス」は、最近の作品なのに書いていることが全部順列都市と同じ、とのこと。気になって調べてみたところ、ここに描かれている未来像が、マジで同じことを書いていた。まだちゃんとは読んでいないけど、2015年にハラリが考え、世界を沸かせた未来像が、1994年の「順列都市」に描かれていたとは衝撃でしかない。イーガン、すげー!

エターナル・サンシャイン」は、順列都市をエンタメ・ラブストーリーにするとこうなると教えてもらった。その人曰く、辛いから二度と見たくないけど、とてもいい映画とのことで、なかなかに素敵な評価。残念ながらアマプラにはないけど、まあ299円でレンタルできるし、そのうち見てみようと思う。

 

さて、こんな感じでだいぶ話し合った内容を整理して書けたかな……。

そもそもが多彩なアイディアとテーマがバンバン繰り広げられるおはなしなもんで、話していることもあっちに飛んだりこっちに飛んだりしていて、まとめるのがとても大変だった。

なにより私のメモが全く何書いてあるかわからん(これは完全に私が悪い)作品名とか印象に残った台詞とか以外は、割と記憶で補完しているので、勝手に話を盛っていたら申し訳ないです。

会の後も、結局仮想空間へのダイブはいつできるんだろうとか、コロナとワクチンと陰謀論の話とか、色々雑談して楽しかった。

次回は7月ごろ、課題本は「万物理論」です。予備情報を全く持っていないんですが、性別に関して踏み込んだ描写があるということで、面白そうです。

結局今回もオンライン開催だったので、次回は対面でやりたいよ~。夏だし少しは落ち着いてくれませんかね。

葉文潔大好きマンが劉慈欣短篇集「円」を全作レビューしたい(繊維、メッセンジャー、詩雲、月の光)

ちょっと大っぴらに「カオスの蝶」と「栄光と夢」の話はできないな……と思うわけである。

二つとも大好きな作品で、ここでも取り上げたいと思うのだけれども、流石にそれはある程度戦局が落ち着いて、Twitterで目を覆いたくなるような写真や動画が流れて来なくなった後にしたい。

この手のニュースは結構落ち込む。某疫病も何ともなっていないし、なんなら職場も酷い有様で、うつくしいのは今日日、菜の花と桜くらいである。

だから今日は楽しい話をする。

劉慈欣短編集「円」に、ちゃんと楽しいおはなしもあってよかった。

 

さて、ナンセンスギャグ・ショートショート「繊維」から行こう。

いわゆるパラレルワールドもので、繊維というのは、各ワールドを表す言葉らしい。

主人公は誤って自分の地球を離れ、繊維を間違える。そのまま施設で保護され、そこには主人公同様繊維を間違えた人々が……という内容だ。

隣り合った繊維は似たようでちょっと違い、主人公一行は地球がピンク色だとか、月がないとか、5進法とか20進法とか、周の文王とコンピュータとかで口論になる。

ぶっちゃけそれだけの話で、その口論をわははと眺めていると終わる、肩の力を抜いて楽しめる短編だ。劉慈欣の描く人間なので、みんな愚かだけれども、特に世界の命運もかかっておらず、ただコミカルで面白い。

一応おはなしのオチとしては、自分は元の地球に帰りはしたものの、その時一緒になった可愛い女の子と仲良くなったバージョンの自分がいくつか出現し、施設でもらったひみつ道具でそれを見ているというもの。

私は何回読んでも「いちばん教養がないのはこの娘だが、彼女がいちばんかわいい」という文面で笑ってしまうし、その娘が主人公を気に入ったきり、壊れたロボットみたいに「あなたは剣闘士」しか言わなくなってしまうのが酷過ぎて好きだ。

しかし、さてこの時代にこんな文章で、怒られないか心配だ。

三体Ⅱでも、ぼくの考えた最強に可愛い女の子とデート、子供も作っていざ新生活!というシーンがあまりに長くて辟易した人もいただろうと思う。

私の周囲でもあそこは頗る評判が悪かった。私もなんだこりゃと思って調べたら、新海誠好きと書いてあってけらけら笑った。新海オマージュなら、まあ、うん……。

まあ、見方によってはミソジニーの大家みたいにも見えるけれども、そんな風に見てもつまんないので、最後に少し面白くなる別の解釈を提示してみる。ミソジニー許せん!って思うひとに響くかは、わかんないけど。

このおはなしのオチは先に述べた通り、自分が分裂する部分である。

主人公はその女の子のことを、馬鹿だけど可愛いな、と思いつつ、作中では冷淡にあしらっているのである。しかし、最終的に自分が分裂してしまう、ということは、結局のところ、その子と一緒になるという欲望が捨てきれなかったということを示している。

そして、その欲望は、パラレルワールドとして見える形になって表れてしまったというわけだ。

ついでに、主人公がそれらの自分を生涯観察し続けるところで、おはなしは終わる。これはどういうことか。まあ書いていないので推察だけれども、これは単純に未練がましく後悔していると見るのがしっくりくるのではないか。

だって、主人公の今の人生は書かれないまま、パラレルワールドを一心に見ている、女の子を魅力的に感じるということは、つまり、パラレルワールドのほうの比重が、現実よりも大きいって、ことでしょう。

私が何を言いたいのかというと、このおはなしにメッセージがあるとしたら、人間だれしも、理性では〇〇するべきでないだとか思っていても、その裏でぼくも〇〇した~い!という欲望を抱えているよね、で、その欲望に従った方が理想的な人生だったかもね??という皮肉なんじゃないかな、ということ。

まあ、でも、劉慈欣的価値観では、どっちに転んでも人間は愚かですというおはなしになってしまいそうですけど。パラレルワールドのほうの主人公は、それはそれで後悔してるかもしれないしねえ。

色々考えると、結構面白い短編だったなと思います。

 

次、「メッセンジャー

これもわかりやすい短編で、ある老人の元に未来人が現れ、老人の心を慰め去っていく、さてその老人の正体はアインシュタインだった、というおはなし。

未来人はアインシュタインに未来の技術を見せつけ、「人類に未来はある」「神はサイコロを振る」と伝え、スーパー時間航行術で去っていく。アインシュタインはかねてから不安に思っていた人類の未来がちゃんとあるとわかり、良かった~バイオリン弾こ、となるわけである。

生涯平和運動に尽力したアインシュタインを称賛し慰める、心温まる良いおはなしである。作中に出てくる演奏のエネルギーで弦が太くなる未来型バイオリンとか、コレ何の得があるんだ?とか最終的に楽器として成立しなくなるのでは??とかいろいろ考えられて面白い。

ただ、多少物理学に理解がある読者であれば、この老人がアインシュタインだということはすぐにわかってしまい、あんまりミステリとしては成立してなくない?とも思える。

物理学を知らなくても、「神はサイコロを振らない」というカッチョイイ台詞でわかる人も多いんじゃないか。

未来人についても、早々にアインシュタインの未来の予定を把握していることから、小説を読み慣れていない人でも、あっこいつ未来から来たなとわかるようになっている。

ミステリというよりは、何か聞いたことがある感じの老人だと思ったら、アインシュタインだったか~というおはなし、となってしまっていて、その部分は若干惜しいと思う。

あと、これは私の個人的な偏見だけれども、、こんな人間は等しく愚かみたいな価値観の人間嫌い劉慈欣が、「アインシュタイン君、人類の未来は明るく素晴らしい!安心してくれ!」というメッセージだけを考えるだろうかという気持ちになった。

未来人の語らない200年の間、マジで戦争とか起こらなかったのかね。エネルギーを質量に変換できるレベルの技術なら、核兵器とはまた違うスーパー兵器ができそうだけど……。

三体Ⅱでも、平和になるまでの大峡谷時代という暗黒時代が存在したので、劉慈欣的未来が明るいとはあんまり思えないんだよな……。

こうやって考えると、ラスト、未来人の「神はサイコロを振りますよ」というセリフはなんか不思議と怖い言葉にも感じられる。今のところ未来はいい時代だけど、結局いつどうなるかわからないんですよ、みたいな。

アインシュタインが最後、寂しくバイオリンを弾くのも、ひと時の安心は得られたものの、結局、絶対の安寧、恒久の平和が得られないという諦観もあるのかなあなんて思ったり。

現実でも、そこそこいい時代だと思っていたら、コロナとか、全く予想だにしない事態が発生したわけで、未来は必ずしもうつくしいとは限らない、んだよなあ。

 

さて、ここで少し飛んで「月の光」の話をしよう。

何故かというと、「メッセンジャー」とかなり似た題材なのに、読み口が180度違うからである。

どのルートを辿ってもハッピーエンドが用意されていないゲームを、マルチバッドエンディング、どうあがいても絶望、などと呼ぶことがあるけれども、この短編はまさにそれである。

メッセンジャー」で読者を安心させておきながら、割と終盤のこの短編で、「いや~アインシュタイン君、やっぱり人類に未来とかなかったわメンゴメンゴ」とか言ってくるわけである。劉慈欣も趣味が悪いけど、こっちのほうを最後付近に持ってくる日本の編集者、かなり趣味が悪い(めっちゃ褒めてます)

未来の自分から、未来ヤバいからなんとかしてくれ!と電話が来る。そして主人公は未来の問題を解決する方法を考える。すると未来の自分からまた電話が来て、その方法だとヤバいから別のに変えてくれと頼まれ、さらに別の解決法を考えるとまた電話が来て、結局何をやっても無駄だし、むしろどんどん悪くなっていくので諦めた、というおはなし。

特に解釈の幅もなく、マジで絶望しかなく、いやあ、劉慈欣的未来の最高峰だと思います。絶望の未来がそれぞれ妙な美しさがあるのも良いし、それを解決するためのエネルギー技術が、たぶん大ぼらなんだろうけど、夢があって面白い。

でもそんな中、さらに炸裂する劉慈欣節が、主人公の人物造詣であある。

主人公、世界のヤバさとかより自分の恋とか家族とか出世のほうが気になっていて、ひたすら質問し続けるのである。それは明かせないって言ってるだろ。

最終的に、もう二度と恋とかしないとか絶望的なことを、他でもない未来の自分に言われてショックを受ける。もう、愚かすぎて可愛いまである。

未来の自分はとにかく世界を救おうと必死で、絶望と希望の中で頑張っているのに、主人公はとりあえず今困っていないので、どこか他人事で危機感に乏しいというのは、まあ劉慈欣氏が今の人類に感じていること、そのままなんだろうと思います。

タイトルの「月の光」は、冒頭で語られていて、イルミネーションのない、廃墟のような暗い街並みを照らす光。主人公は、片思いの女の子が結婚してしまった夜、そこに終末の安らぎを感じている。

これも酷い皮肉で、結局主人公は随分先の未来で、安らぎどころではない終末の地球で苦しむことになるわけだ。ついでにやっぱり恋人もいない。

「月の光」は非常に完成度の高い短編で、色々な面で面白いのと、この短編集の中ではかなりオススメです。ちょっと地味だけど。

 

最後に「詩雲」だけれども、これがまた、レベルの高い短編である。

「郷村教師」や「繊維」のような、妙ちきりん宇宙空間のおはなしで、人間は過去からパワーアップしてやってきた恐竜たちに家畜化されている。今や太陽系は恐竜たちの帝国、吞食帝国となった。そんな中、より高次の存在たる神がやってきて……というおはなし。

いやあ、もうこの時点で割と最高、と思っていたら、恐竜に家畜化されるまでは別に「吞食者」という短編があるらしい。この作品は、その後日談というわけだ。

「呑食者」は日本で今後発売される短編集に載るらしいので、それもそれで楽しみですね。

さて、まず最初の面白ポイントは、恐竜が神に人間を捧げに行ったときの神の反応。とにかく悪し様に言われるのである。

「我が好むのは完璧な小さい生き物だ。そんなみっともない虫けらを連れてきてどうする」

からはじまり、

「その小さな生きものの猥雑な思想、下劣な行動、そして混乱と汚辱にまみれた歴史は、すべてが嫌悪に値する。(中略)ただちに捨ててしまうがいい」

と続く。言いたい放題なのである。

そのうえ、この意見は神だけのものではなく、人類が知的生命体とコンタクトできなかった理由として書かれている。恐竜が現れて支配されるまで、どうやら人類は宇宙人たちから嫌悪されていたらしい。

宇宙規模で嫌われる人類、どんだけヤバいんだよと笑ってしまう。

しかし、捧げられる人間は詩人であり、漢詩の書かれた紙をたくさん持っていた。神はそれをうっかり拾って、うっかり感銘を受けて、李白になる。

なんでだよ。

神はテクノロジーの力で何でもなれるし、何でもできる、李白を超える芸術を作り出すことも可能と告げるが、詩人はそんなのは無理、李白は超えられない、人間の芸術はすごいと喧嘩。こうして始まる、テクノロジーVS芸術。

ここから第二の面白ポイントに入る。

李白になった神は、とりあえず人間のまねごとをして、酒飲んでゲロ吐いたり、旅をしてボロボロになったり、尿を蒸発させた後の白いやつで肉を煮たり(伝統的な製法らしいですね)、なんかめちゃめちゃがんばっている。

結果、素晴らしい詩は書けるけど李白は超えられない……とか言う。

なんてストイックなんだ神。努力の化身すぎるぞ神。

しかしそんな神に、詩人は、やっぱりテクノロジーは芸術に勝てないじゃないかと説教して煽る。こいつ、人間の中ではちょっと特別扱いされていて、食料化されず悠々自適にお一人様牧場物語してるくせに、なんか偉そうなのだ。

そんな煽ったら神様怒っちゃうだろ、と読者は思うのだが、ここでついに神が神たる真髄を露わにすることになる。

最後にして最大の面白ポイントである。

詩、全部書いて、保存する。あらゆる漢字の組み合わせパターンをすべて試みれば、そこに李白の最高傑作も含まれている。

詩歌、終了のお知らせ。神ちょっといくらなんでもキレすぎでは?

そしてその膨大な詩を記録するにはどうするのかというと、「いまあるものを使う」ということで、太陽系に保存することとなる。

つまり、世界は滅亡する!ヤッター!

ここ、恐竜のほうがマジギレしているのに、詩人のほうは、恐竜の支配から逃れられるということで、めっちゃニコニコして楽しんでるのが最高に面白い。

そしてオチだが、この素晴らしい詩歌プロジェクトは完遂され、あらゆる詩が保存された詩雲として姿を変えた太陽系を、何故か生きている詩人と恐竜が見つめている中、神が登場する。

泣きながら。

「わしには芸術におけるテクノロジーの限界が見えてきた。わしは……」彼はすすり泣きながら言った。「わしは敗残者だ……ああ」

結局、あらゆる詩は書いたものの、傑作を識別するテクノロジーが作れませんでした、ちゃんちゃん。

神、ストイックすぎるぞ。そういうところだぞ。っていうか太陽系滅ぼす前に気付けよ。おっちょこちょいか。

話の大筋はこんなところなのだが、ここに書ききれなかったツッコミどころも要所要所にあって、それもとても面白い。家畜化された人間が詩を学ぶと美味しくなるとか意味わからん設定過ぎて好き。

もしまだ読んでいないという方は、ちゃんと本編もお楽しみいただきたい。たぶん、想像以上に滅茶苦茶で面白いですよ。

 

また長くなった。

今回は、エンタメ感が強く、いつもの(?)劉慈欣的人間は愚か節も多大に含まれている4作を選んでレビュー(解説?)してみた。

個人的にはやはり「詩雲」が全編ぼけ倒しのツッコミ待ちで、笑えるし面白いし好きです。あんまり絶望感がないけど、よく考えるとうすら寒いおはなし「月の光」も、劉慈欣らしくて好き。

「詩雲」は色々感想を漁っている中でもかなり人気なので、いちばん最初に読むのにいいかもしれない。

次は、これまた人気な「円円のシャボン玉」周辺をレビューしてみたい。

でも、ほんとうは一番語りたいの「栄光と夢」なんだよなあ……。

しかし流石に今読み直すと自分にもダメージ来そうだし、今の状況でレビューを読んでもらって、読者に誤解されても嫌だし、しばらくはやめておきます。

そういえば、今月の後半はイーガン読書会(身内でやってるやつ)があるので、終わったらそのまとめも書きたいと思います。良かったらそちらもよろしく。

葉文潔大好きマンが劉慈欣短篇集「円」について語る(鯨歌、地火、郷村教師まで)

三体3が発売された時、そこに葉文潔がいないのが悲しかったのを覚えている。

三体シリーズはエンタテイメントSFとして傑作である。多くの人が時間や寝食を忘れて物語を貪り読んだはずであり、もちろん私もその一人だ。

それでも、滅茶苦茶面白かったけども、シリーズの中で私が期待したものは結局は書かれなかったなという思いがあった。

作者である劉慈欣氏が、完結後のインタビューで、こんなことを言っていたのも引っかかっていた。

もし、わたしが知っているような科学者を作品に登場させたらウケないと思います。作中の人物たちは、読者が感情移入したり理解できるように特徴を出して描いていますが、現実の人たちはもっと複雑ですからね。

私が思うに、三体シリーズの中で、葉文潔だけはほんとうに人間だった。そして、それは、たぶん、理解されなかった。ウケなかったわけだ。

……いや、私には滅茶苦茶ウケたけどね!!

まあ、ウケたのはそれこそ、象徴的・記号的な人物の極みである、史強や艾AAなどであろう。

正直私だって好きですよ。普通にこの二人最高じゃん。あと、章北海やトマス・ウェイドもいいよね。

でも、それでも私は葉文潔を愛していたし、彼女の物語のようなおはなしをずっと待ちわびていた。

ちなみに葉文潔については、ブログの一番最初の記事で書いているので、良ければぜひお読みいただきたい。

ぶっちゃけ渾身の記事である。葉文潔に言及した記事としては、いちばん説得力があると思う。

……葉文潔への言及記事とか他に見たことないけど。

当時はぜんぜんブログとかやる気もなく、そもそも才能のない文章をこれ以上書くのは無駄だと思っていたんだけど、世間の葉文潔への無理解さが許せなさ過ぎて頑張ったのだった。

まあ、こんなライターでもなければブロガーでもない人の戯言なので、反響などほとんどなかったわけだけれども、それでも世界のどこかに葉文潔についての記事があることは、何か価値があるんじゃないかと思っている。

さてはて、そんなわけで、待ちに待った、劉慈欣短編集「円」である。

遅ればせながら、先日、やっと読みました。

間違ってなかった。それが一番初めの感想。

この短編集の中には、劉慈欣の絶望と戦いが存分に詰まっている。そして、私が葉文潔に見た、複雑で深遠な人間の在り方がうつくしく描かれている。

エンタテイメント性は薄い……というわけでもないけれども(鯨歌や繊維、メッセンジャー、円はかなりエンタメ性が強い作品だろう)ただ、三体並みに面白いかと問われるとちょっと黙ってしまう。

そんなわけで、エンタメ性に特化した面白いものが読みたい人には、たぶん向かないと思う。代わりに、三体シリーズでも微かに伺える劉慈欣の信念や思想に触れたいという人には、これ以上ないほど満足していただけると思う。

自分を顧みるいい機会にもなる。私はなった。

葉文潔のために始めたこのブログで、「円」に言及しないわけにはいかない。

実はしばらくメガテンあたりを書いていこうと思っていたのだけれども、ちょっと中断して、「円」について書いていきたいと思います。

 

まず、最初の「鯨歌」だが、エンタメ性が強い作品にも関わらず、あまりにも人間への絶望感と自然への畏怖が強くて驚いた。

確認したらデビュー作だった。まじかよ。

出てくる人物は、探知機が進化したために麻薬を運べなくなったマフィアの親分と、生体機械化した鯨ならば麻薬を運べると請け負う科学者の二人。

この時点でSF的に面白すぎて、エンタメ作品への天才的な才能を感じるのだけれども、やはり劉慈欣特有の要素として、鯨の雄大な姿と歌、そして科学者の生き方が挙げられると思う。

鯨の体内に船を載せ、麻薬を運ぶというのがこの作品の面白さだが、なにより鯨のうつくしさに描写がかなり割かれている。

もはや生体機械化され、人間の傀儡となっているはずの鯨だが、それを物ともせず歯を鳴らして食事をし、歌を歌う。その歌は”意味が深淵すぎて、人間には理解できない”と語られる。そして、”遥かな過去の記憶を持ち、生命の歌を歌っている”

その歌は、捕鯨船に撃たれ、死に至る瞬間まで続く。人間たちに好き勝手改造され、最終的に殺されてしまうにも関わらず、鯨は決して抵抗することがないが、傷つき苦痛に悶えることも、また、ないのである。

対して、人間は随分と自分勝手に描かれる。

麻薬取引を試むマフィアは、人の命や身体を弄び、益があるとわかればすぐに意見を覆す、自分勝手の極みみたいな人物として描かれている。科学者は鯨を改造して操り、自分の好きなように動かしている。

そしてこの二人の目論見は、同じ人間、それも彼らと同じような自分勝手さMAXで法律違反の捕鯨に手を染める人間たちによって挫かれるのである。

さて、自分勝手な人間が自業自得で死ぬ話は数多くある。自然と人間を対比するのも珍しくない。話の筋やオチに関しては、この話より面白く書いてあるおはなしも多いだろう。

劉慈欣が凄いのは、筋でもオチでもない。このおはなしは、さらに輪をかけて人間を語る。

科学者の人格はあまり描かれないものの、わずかな会話で、国家に貢献するために非道な研究に手を染めたはいいが、予算がなくなり、お払い箱になって放浪していたとわかる。

短編にしては、ぶっちゃけ情報量が多い。だからこのおはなしの構造が、意図したとおりの成果が上がっているかと言えば疑問だと思う。

ただ、ここから劉慈欣が狙ったのは、たぶん、反道徳・反体制たるマフィアやマッド科学者だけが自分勝手なのではなく、国家も自分勝手、ひいては人間全部が自分勝手で道徳がないという構造なんじゃないかなあと思うのだ。

ここまで徹底した人間嫌いっぷりが、劉慈欣なのである。と、私は勝手に思っている。

ぶっちゃけ、かなりごちゃついた作品だと思うし、短編にしては情報を詰め込み過ぎと言わざるを得ないんだけど、エンタメSF短編の中に、自身の人間観、自然観を入れ込んでしまうメッセージ性の強さが私は結構好きです。無印の三体と通ずるところがあるよね。

 

「地火」もやっぱり「鯨歌」と同じで、人間の愚かさ、どうしようもなさに焦点が当たっている。

この二つを短編集の最初に持ってくる編集者、上手い。劉慈欣の自己紹介として、この二作品はあまりに的確過ぎる。

「地火」はエンタメ性が薄くなり、SF設定にも薄く(石炭地下ガス化って実際に行われている事業だよね?)どちらかというとドキュメンタリーのようなタッチで語られる。

ので、読んでいて結構辛い。主人公たる劉欣が、炭鉱で働く人たちを救うための技術を生み出し、数々の失敗フラグを立て、そして失敗してたくさんの人が死ぬ災害を作り出し、ろくに責任も取れずに死ぬ話だ。

「鯨歌」と異なり、ここには正しいことを為そうとする人間たちが数多く出てくる。自分勝手に生命や自然を弄ぼうとする人間は一人も出てこない。国や未来のために尽力する人間たちばかりだ。

しかし人間は愚かなのである。

「鯨歌」と同様に、この作品のドキュメンタリー的な部分を、もっとうまく書ける作家は多くいるだろう。しかし、これほどまでに徹底した人間への絶望は、劉慈欣ならではである。

このおはなしは事業が失敗してたくさん人が死んだというおはなしが肝ではない。

正しいことを為そうとした結果ドツボにハマっていく人間たちの葛藤や戦いはもちろん面白い。

もう駄目だとわかっていてなお坑道の人間を救いに行かざるを得なかった李民生の笑顔があまりにうつくしくて涙ぐんでしまったし、何もかも失った劉欣が皮肉な形で父との再会を果たすラストシーンは救いがなさ過ぎて唸ってしまった。

しかし劉慈欣はこの胸に突き刺さる棘を、あまりに意外な形で抜いてしまう。

昔の人はほんとにバカで、昔の人はほんとに苦労した

百二十年後がこのおはなしのエピローグだ。

中学生が授業で炭鉱を見学し、歴史を聞いて退屈だと日記に記す。それまで描かれていたことは歴史には残っておらず、一顧だにしない。

炭鉱の体験をしようと防塵マスクを外した少年は、称賛されることなく、規範から外れたことを責められ、入院させられる。

名実ともに、”ぼくらは”古きよき時代”を懐かしむ必要はない”のである。

もう一度言う。このおはなしには、自分勝手な悪人はいない。しかし、人間は愚かなのである。

「鯨歌」「地火」二つ合わせて読むと、こんなにも人間への絶望で満ち溢れた作家はいないのではないかとすら思える。

こうして見ると、葉文潔は劉慈欣そのひとを投影した人物で、だからこそエンタメ作品の三体シリーズの中で、ただ一人人間であったのかなあ、などと、思う。

 

では人間には絶望しかないのか。

もちろん、そんなことはない。そんな浅はかな思想しかない作家が、あれほどの傑作を書けるはずがない。

劉慈欣は絶望し、嫌いながらも、人間という存在の魅力について、飽くなき探求を続けているはずだ。

それが分かるのが3つ目の短編「郷村教師」である。

エンタメ色は強い……ものの、結局エンタメにする気がない。読み終えてエンタメだったという人はいないだろう。三体シリーズでの三体人や歌い手などに見られた、トンデモ滅茶苦茶SFの宇宙人が絡んでくるので、エンタメっぽく見えるだけだ。

このおはなし、大変人気が高い。実際、SF部分の滅茶苦茶ささえ受け入れられれば(まあ三体読者なら大丈夫かと思うけど)この短編集の中では屈指の傑作、人によっては一番の傑作だろうと思う。

私も、通勤のバスの中で思わず涙してしまい、読むのを一旦中止せざるを得なかったほど心を動かされた。

そして、前2作品を読了したからこそ、これはより響くのである。

例によって愚かな人間の話だ。

貧すれば鈍するを体現したかのような田舎の人間たち。飲酒や祭りなどその場限りの快楽を貪るしか楽しみがなく、金を浪費し、学もなく、求めず、生活を良くしようとも、良き人間となろうともしない。

何度も読みたくないから詳しく書かないけど、出産絡みのシーンはリアルに吐き気がした。

そして、そんなクソ田舎で学問を教え続けるのが主人公の李先生だ。感謝されるどころかバッシングされ、電気すら通してもらえない学校で、死の病に侵されながら、ただ彼は死ぬまで一心に、子どもたちに学問を教え続ける。それが役に立つのか、そもそも理解できるのかもわからぬまま……。

ここまでは、前2作品と変わらない。違うのはその先が書いてあることである。

彼と彼が教える学問、そして教え子たちは、奇跡を起こす。

前述した無茶苦茶星人たちの宇宙戦争の余波で、地球を滅ぼさんとするまさにそのとき、彼の教え子たちが戦艦に召喚され、文明レベルテストを受けることになる。文明レベルが高ければその星は守られるのだ。

当然、高度な学問を彼らが習得できているはずがない。しかし、李先生が死の間際に教え、わけもわからずに暗記させられた基礎物理学の問題が、そこにあったのだ。

そして地球は保護されるというわけである。

なんとも滅茶苦茶なおはなしである。それでも、李先生に報いようと、子どもたちが力の限りに暗唱した「ある物体は……」という一説が流れたとき、バーッと吹き出るように涙が出た。

無茶苦茶だし、そのうえ筋も読める。どうなるかなんて、半分くらいで大体わかってしまう。それでもやっぱり、どうしても泣いてしまう。これはそういうおはなしなのだ。

子どもたちは、自分が地球を救ったことはわからない。大好きな李先生が死んでしまって、悲しくて辛いだけだ。李先生は世界に名を残すどころか、棺桶代も出してもらえず、子どもたちの作った小さくはかないお墓で眠る。

しかし、おはなしはこう締めくくられる。

彼らはこうして生きつづけ、この古くて痩せた土地にもわずかながらたしかに存在する希望を収穫するだろう。

人間に絶望してなお、一縷の望みを教育と学問に預ける。祈りのような、わずかな希望。それが無意味でないと信じること。いつか何か、途方もなくおおきな力になるかもしれないと、願うこと。

この「郷村教師」は、劉慈欣の思想そのものを体現した作品だと思う。だからこそ、大勢の人の胸に響くのだろう。

劉慈欣というひとは、とても情熱的で、そしてただただ、誠実なひとだ。

葉文潔が好きなのと同じに、私はその思想が好きです。

 

長くなったし疲れてきたので、一旦これで切りたいと思う。

全作品やりたいので、しばらく頑張って感想を書き残していきたい。無理なら「栄光と夢」だけでも書く……。「栄光と夢」も最高なので……。

けど、円はこの3編を読むだけでも2千円の価値はあると思うので、まだ読んでいない方は是非読んでください。できれば、最初3編は順番を変えずに読むのをおすすめします。

ディープストレンジジャーニーはカオスルートこそ至高という話(ネタバレあり感想)

真・女神転生 ディープストレンジジャーニー(以下DSJ)1週目クリアしました!

無茶無茶面白かった。最終的にプレイ時間約50時間、レベル92。カオスルートで進み、旧エンディング、追加エンディングとも見ました。

流石にメガテン慣れしているので、難易度スタンダードではトラウマものの何かに出会うこともなく、噂のマッカビームも1回しか食らわなかった。

最強はアスラローガ。もはや何もできなくなり、死を待つのみのパーティーが見るに堪えず、仕方なくアシェラト様のおしりを眺めるという悲しい思いをした。あとラスボスも強かったー…。勝てなさ過ぎてレベル上げまくってた。

アナライズされていない敵が表示されないのは面倒だったけど、めちゃくちゃヒールスポットとセーブポイントがあるのと、いつ敵が襲ってくるか大体わかる仕様になっているのと、サブアプリが優秀なのとで、ふつうに楽しくマッピング&レベル上げできてよかった。馬鹿みたいに強い敵が急に出ることもないし、思ったよりは易しい仕様。魔人も割と弱くてよかった。

まあ、エンドコンテンツまでやり込むわけではない私のようなヌルゲーマーには、たいへんちょうどよい難易度でした。大好きな脳筋主人公でごり押しできたし。

BGMもよかった。私は真1のギンザみたいな曲が好きなので、初見の時は、わッ雄々しいおっさんの声が壮大!(失礼)と思っていたけど、聞いているとだんだん楽しくなってきた。エリダヌスとシェキナー戦の曲がお気に入り。

悪魔がたくさん出てくるのも良きかな…。カオスルートで行ったので、自然カオスの仲魔たちばかりになったわけなんだけれども、それにしても全然悪魔全書が埋まらん。まあ、なけなしのマッカでシヴァとヴィシュヌを作れたので割と満足ではある。

そして、何より、びっくりするほどシナリオが良かった。っていうか、カオスルートがよかった。プラス、カオスヒーローたる、ヒメネスが良かった。

とにかくカッコイイ!ビジュアルが最高だし、声優櫻井孝宏という点もポイントが高い。上手いのなんの。基本RPGでボイスは全然再生しないんだけど(せっかち)、ヒメネスだけはちょっと聞き入ってしまった。

ヒメネスは、私が知っているカオスヒーローとちょい違う。悪魔に情けをかけるし、力を求めて悪魔と合体しない。RPG界の不良にありがちな、フツーに割といいやつなのだ。

このフツーに割といいやつは、悪魔にいじめられている、弱々しく言葉も喋れない悪魔を助け、仲魔にする。つまはじき者同士仲よくしようというのである。つまり、不良にありがちな捨て猫を抱き上げて「お前も一人ぼっちなのか」ムーブである。ベタだが、私は大層こういうのに弱いし、大抵のひとも弱いと思う。

ここで救われる悪魔バガブーがなんかキモカワイイ。身を挺してヒメネスをかばったり、守ったり、案外役に立ってもいる。覚えたての言葉を使いながらヒメネスと話しているのを見ると、仲の良い親子、兄弟のようでもある。

しかしこのバガブーが単独行動したために、この善良な不良ヒメネスは、(ドクズ畜生)人間集団に捕まり、人間と悪魔の合体の実験で拷問され続けた挙句、このままだと死んでしまう大切なバガブーを助けるため、主人公に合体させてくれと懇願することになるわけである。

ひどい。

あんまりにも、ひどい。

話には聞いていたが、実際やるとヒメネスへの愛着が相まって大変つらかった。

ジャック部隊とかいうド畜生集団はこの実験以外にも、力と利益を得るためだけの悪魔への拷問と虐待を繰り返しており、悪魔たちが「こうまでして力が欲しいのか…」と呪いの言葉を吐いていたり、スライム化してしまって「モウモドラナイ…」とか言ってるのを見たりするのはとても切なかった。

いやぶっちゃけさあ、ちょっとあんまりこういうこと言いたくないんだけどさあ、

ジャック部隊はみんな死ぬべきって思わなかった???

というわけで、私は当然ジャックを殺しに行くヒメネスを止めなかったし、神の僕に洗脳されたジャック部隊だろうが、みんな殺しに行きましたよ。

そしたらルート分岐に選択肢も出ないドカオスになってて、なんか隊長にメッチャ怒られました。

なんでだよ!!!

まあ、ジャック以外のクソは、洗脳でトロンとしちゃってるから別に殺す必要ないにしてもだ。

ジャックは、友達の体を拷問した挙句変化させといて何の罪の意識もなく、改造してより強力に従順にした悪魔をこちらにけしかけて、自分も銃持って殺しに来てるわけだからね??

 

真・女神転生シリーズは、たぶんなんとなくロウ側に寄るひとが多いと思うし、私も割とJRPGのお約束で育ってきたひとだから、いつも、ついついロウに寄ってしまうんだけれども、DSJに関しては、完全にカオスに寄るように製作者側が意図しているようにしか思えなかった。

いやだってジャック殺害は止められないだろ…(何度でも言う)

まあこのジャック部隊の流れ以外にも、カオス方向にプレイヤーを誘導するしかけは他にもある。

まず、サブキャラの人格の希薄さ。逐一物語が進むたびに、サブキャラには話しかけてたけど、ぜんぜん愛着が沸かなかった。

キャラ立ちしてないわけではないんだが、彼らと話す時間の5倍は仲魔と過ごしているし、別に着いてきて戦ってくれるわけでもない。だから同じクルーとか言われても、なんかあんまり仲間って感じがしない。そんな中でいちいち仲違いとかしているのを見ると、はー人間ってろくでもねえなとしか思わなかった。

まあ、メガテンシリーズ特有のあっさりした人物描写が裏目に出たっていうところなのかもしれないんだけど、やっぱり描き方に悪意があるというか、人間ってこんなもんだよね、感は否めない。

加えて、ロウヒーローと中心になる天使の描き方も、他作品にはない悪意がある。天使が、マジモンのぺ天使なのだ。

メガテンの天使は基本的にクソなんだけれども、それは神の繁栄を第一とするからのクソであり、一貫した信念と思想がある。クソだが誇り高い、素晴らしい敵なのである。

しかし今回のペ天使マンセマット君は神の繁栄とかではなく、自分が出世するためにロウヒーローを騙し、世界を再興したいという何ともケツの穴の小さい奴なのだ。

まあ、こいつのその目的がわかるのはカオスルートなんだけれども、なんか怪しい、信用できない、裏がありそうなオーラがずっと描かれている。声優も森川さんだし…(偏見)

そしてロウヒーローたるゼレーニンは、序盤から悪魔はイヤイヤ人間もイヤイヤしてるばかりで、こちらも特に信念とかは見えず、コロッとペ天使に騙されて人間を辞めてしまう。ロウルートをまだやっていないからかもしれないけれども、なんつーか、目的が全く見えず、自分のない奴だな…としか思えなかった。

そして最後に、合同計画本部の政治家たちのクソっぷりが、冒頭からみっちりと描かれているところ。紛争も環境破壊も他人事で、自分たちのマウント取りに必死で嫌になる。からの、調査隊が脱出してから核爆弾撃つとかほざきながら、普通にぶっ放してくる。

そりゃ地球も怒って悪魔を送り込んでくるわ、としか思わない。やっぱり描き方に悪意があるよね。

さて、こうなると、相対するヒメネスは、あまりにも優しく、いいやつに見えてしまう。ずっと(合体しながら)苦楽を共にしてきた仲魔たちへの愛着も相まって、いやー悪魔のほうがましでない?となる。

ジャック部隊の実験が明かされる随分前に、悪魔も人間を使って実験をしているシーンもあるのだが、それは純粋な人間に対する興味からの、殺すつもりも拷問するつもりもないけど結果あらら死んじゃった、という価値観の違いとして描かれているんだよね。

それはそれで怖いし残酷だけれども、人間たちの所業を見ていると霞んでしまう。少なくともこいつらは、笑いながら「呪え呪え」とかは言わなかったし、苦痛を材料に新兵器を作らない。

まあこんな風に見ていくと、ふつうにプレイしていて、人間守りたくなる、あるいは天使に加担したくなることって、よほど綺麗な子安武人ことアーサーが好きか、ニュートラルこそトゥルーエンドと腹を決めているひとしかいないんではないだろうか、と私は思う。

 

だいぶん長くなった。

まとめると、DSJのメインシナリオは、実はニュートラルルートではなく、カオスルートなんじゃないか?と思うわけだ。

ニュートラルもロウも、派生サブルートの一つでしかないのではないか、と。

しかし、そんな感じに誘導されてきたカオスルートだが、リメイク前のエンディングは、微妙に希望を抱かせながらも、それなりに絶望、という少々物足りないものだった。

じゃあやっぱりメインルートはニュートラルじゃないか、と思うだろう。

しかし、これがリメイク後で大幅に改善されている。そのうえ、ニュートラルの追加エンディングは、絶望に次ぐ絶望!そして地獄!みたいなことになっていた。

…実はけっこうネタバレを見ています。自分でもやるけどね!

追加シナリオのアレックスやデメテル、三賢人周りの動きの自然さは、カオスルートが一番しっくりくるように作られている。

特に、未来から過去改変に来たアレックスの動機の部分は、比較的有名な人の実況プレイで反応を見てしまったのだけれども、やはり私と同様に、ニュートラルよりしっくりくる!という感じだった。

ぶっちゃけ、カオスルートのためにリメイクしたのでは??

カオスルートの追加イベントでは、力こそ全てを謳うヒメネスに対し、アレックスが問うのは、「弱かったバガブーは死ぬべきだったか?」という問いである。

この問い、マジで完璧なんだよね。ここでヒメネスっていう不良(いいやつ)は、優しさを取り戻すわけである。悪魔になってるのに。もう悪魔になってるのに!(大切なことなので二回言いました)

この辺、やっぱり他作品のカオスヒーローとは全然違うというか、ヒメネスが一番人間って感じがしたよね。反省して考え直せる、やり直せるのは完全に人間の強みなんじゃないかなあ。

母たる、一時は心酔もしたメムアレフに異を唱え、結局は倒すことになってしまう(倒すのは主人公だけども)というのは、いかにも人間らしい。

今までカオスといえば力こそ全て!という世界観だと思ってきたけれども、力というのも一つのルールであり、ほんとうのカオスではない、というのは、比較的長年メガテンやってきた私にとって、なんだか目からウロコだった。

そして、至高の追加エンディングですよ。すべては無に帰し、何物にも縛られない、悪魔と人間の自由の世界が始まる。うつくしい大地に、ヒメネスの表情の穏やかなこと。お前ほんとうに悪魔なのか??これはつられて主人公もニコニコしちゃうな…。

いやこれもう、悪魔と人間が手を取り合い、理想の世界を作っていくってやつじゃん…。

実際問題、この後の世界が理想的なものかは全然わからん…というか、ヤベエ感じになる可能性がとても高いとは思うけれども、少なくとも選択肢は、何一つ余すことなく提示された感じ。あまりにも清々しい。

やっぱりこれがベストエンドですよ…。

 

いやあ、実はこの先に、私の幼少期の夢が叶ったって話をしたかったのだけれども、(多分読む側も)ちょっと疲れてきたので本記事は一旦終了。

この話は次回したいと思います。

とりあえず、未プレイでこの記事を読んでしまった人は、内容大体わかっちゃったと思うけれども、実機でプレイすることを強くお勧めします。無茶苦茶面白いです。ネタバレ知ってても面白いです。ちゃんとカオスルートやってください。

既プレイの方は、少しでも共感していただけたら幸い。

メガテニストの方は、次回ifと真3の話をしたいと思うので、ご期待ください。

さて、天地人ヒメネス(ロウルートラスボス)と覚醒人ヒメネスニュートラルルート中ボス)を倒しに行くかね…

真・女神転生と恩師の話

世間が真・女神転生5の発売で沸いている中、様子を見ていたら買うタイミングを逃してしまった。

気が狂ってる(誉め言葉)百合の制服がダサダサとイカスの間を行き来しているので、動くところが見たい感がとてもあるし、なんか主人公の美少女系男子が謎の男と合体して、髪が伸びて青くなって神様然とし始めるのもイカス。

そんなわけで、いい加減買おうかなと思って、YOUTUBEでゲーム映像とかを見ていた結果、おすすめ動画がメガテンだらけになった。

その結果、何故か放置されて腐っていくスイッチライトではなく、さらに放置を重ねてすでに廃品のようになった3DSの埃を払い、真・女神転生DEEP STRANGE JOURNEY(以下DSJ)を買っていた。

どうしてこうなった。

メガテン系の解説動画に付き物なのが「トラウマ」である。メガテンシリーズは総じて、みんなのトラウマで満ちている。

私の経験したメガテンのトラウマをいくつか紹介すると、

・ギリメカラにオートバトルを選択したら物理反射で主人公、ヒロイン、つよつよ仲魔たちがみんな死んだ

・1時間みっちりレベル上げして、セーブをしようとしたらセーブ部屋の真ん前でバックアタック→ドルミナー→永眠への誘いのコンボでみんな死んだ

・終盤適当にフィールド探索中、主人公よりレベルが50くらい低いエンジェルからバックアタック→ハマで死んだ

・調子乗ってハードで始めて見たらチュートリアル戦闘で死んだ(以来ハードモードはやってない)

・その時点で最強なうえに最高に可愛いおれのリリムたんを友達に取られて合体された

と、最後のは完全にプレイングミスの私怨な気がするけれども、ざっとこんなもんである。

メガテニストの方にはわかっていただけるに違いない。っていうか、物理反射にオートバトルはみんなやるし死ぬでしょ。普通のRPGで通常攻撃を反射してくるやつとかいなくない?

私はゲームをそれほどやり込む方でもないし、裏ボスやDLCに挑戦することは永遠にないと思うんだけれども、このそこそこハードな難易度設定はとても楽しい。ダンジョンをぐるぐる回ってマッピングするのも大好きである。

しかし、最近は仕事が忙しくて、腰を据えてRPGをプレイする気にあまりなれなかった。特に、3Dのゲームは目が疲れるし、行くところが果てしなくあって脳も疲れてしまう。最近のゲーム死ぬほどボリュームあるねん。

そんな中、DSJは、リメイクとはいえ2018年のゲームで昔懐かし3Dダンジョンを採用していて、無性にやりたくなってしまったというのがある。シナリオがめっちゃいいと評判だったDS版は、なんとなく食指が動かずプレイしていなかったのだが、3DS版になって遊びやすく改良したうえ、遊べる要素も悪魔も増えて楽しそう…

なにより、前述したトラウマ要素が、ノーマルモードでももりだくさん!らしいのである。

ということで、急遽購入。プレイ。とりあえず20時間ほどやりましたが、まだ全然序盤です。

しかし、なんか知らんバッドステータスで仲魔同士が殺し合ったり、相変わらずマハンマでパーティー壊滅したり、突然魔人とエンカウントしてみんな死んだりしてて、流石メガテンや…と嬉しくなっている所です(頭おかしい)

昔は頑張ってニュートラルルートをクリアしようと躍起になっていたけれども、最近は大人になって、カオスな世界も悪くないんじゃないか??ということで欲望に忠実に悪魔と仲良く暮らすようにしてます。ロウの天使は〇ね。

 

こんなマゾっぽいゲームをゲームしていると、思い出すことがある。私にメガテンシリーズを教えてくれた、塾の先生であり、恩師であり、第二の母についてである。

当時はネットが今のように普及しておらず、ゲームの情報と言えば友だちか雑誌だった。まあ私は友だちがいなかったので、ほぼ雑誌だったんですけど…。

なんか面白いゲームない?という質問に、恩師が貸してくれたのは真・女神転生if…である。

メガテンのことを知らなかった私は、ネットにて真1の予習してたのに、if…で全然違うやんけ!ってなった思い出がある。でもif…も面白かったです。

ドラクエ大貝獣物語天外魔境桃太郎伝説に慣らされていた私はその新しさとマゾさに感動して、見事メガテニストと化したというわけである。

この恩師はそれからも、サモンナイトシリーズを教えてくれたり、シャガール展に連れて行ってくれたり、ライドウ本を一緒に作って同人誌即売会に行ったり、京極堂シリーズを指南してくれたが好きなキャラが全くかみ合わなかったり、ほんとうにいろいろお世話になった。

正直うちの母親が毒親だった(というか、ずっとメンタルな病気持ちだったと思う)ので、そして父親がいなかったので、そのうえ友達もいなかったので、この恩師が私の唯一のよりどころであった。色々込み入った話をしたし、初めてカラオケに行ったのも恩師とだ。

中~高校生の、親から逃げられない時分、恩師の存在は何よりもありがたく、ぶっちゃけ家族の誰より大切な存在だった。

血のつながりなんてクソである。大切なひとなど他所で作ればいいのだ。恩師に出会ってから、そんな風に考えるようになったし、今もそれは変わらない。

実際、故郷を離れても恩師のような現地母を作って守ってもらったりして、楽しく過ごしている。母になってくれる人なんて、何処にでもいるんだワ。

クソ環境で育った私がグレもせず、病気にもならず今元気に生きているのは、恩師のおかげである。

恩師は私の世界を広げてくれた。夫もまず最初に恩師に顔合わせしました!

恩師、元気かなあ。一時期うちのクソ母に付き合ってると思われてしまい、たいへんなご迷惑をかけましたが、ドン引きすることなく付き合いを続けていただいてありがとうございました。

流石にもう高齢(70代だと思う)だし、コロナ禍だし、今後もう会えないかもしれないけれども、元気でいてくれるといいなあ。

まあ最後に会った時、メガテン4の天使とかが金子一馬デザインでなくてぷりぷりしていた私に、気持ちはわかるが、メガテン4 FINALはなかなかよかったぞ、特に皆殺しルートがいい、と言ってくれるファンキーな60代だったので、たぶん元気じゃないかと思います。

実はメガテン4 FINALが新しいシナリオだと知らずに今まで見逃していたので(リメイクだと思ってた/例によってYOUTUBEの解説動画で知った)今度買って皆殺しルートを進もう。

メガテン5いつ買うんだろう…まあ、のんびりやっていこうかと思ってます。

愛しかないけどイーガン読書会主催してみた(イーガン読書会①「白熱光」報告)

二十数年ほど、ほとんどSFを読まずに生きてきた。

ハードSFで語られるような物理学や宇宙工学の素養も何もない。高校物理でなんか矢印が引っ張られているあたりで終わった記憶があるだけだ。(まあ、一応看護師なので脳科学だけはちょっとだけ知識がある。ちょっとだけね)

そんな私が、何の因果か勧められた「宇宙消失」を読んで、衝撃を受けたのが、もう十年近く前のことだったと思う。

たぶん、ほとんど内容は理解できていないのだが、未だに、連続で「上」が流れる時のなんともいえぬゾクゾク感、その後の病院での「絶対に成功する」ミッションのはらはらドキドキ感が思い出せる。

SFって、すげー!

と思って、それからだんだん、ほかのSFに手を出すようになり、SFの読書会に遊びに行ったりもするようになった。

イーガンはだから、私にとって、とても大切な作家なんだよな。

もはや友達に近い(と勝手に思っている)読書会のメンツと、最近意気投合してイーガン読書会をしようという話になり、あれ?これって私が主催なの?愛しかないけど大丈夫?と思いながらも、あれよあれよと集まったのが私含め7人。とりま「白熱光」で、という軽いノリで開催。

当日になったら何人か欠けるだろうなと思っていたらまさかの全員参加。未読は二人のみ。イーガンってやっぱ、すげー!ということで、無事に終わりました。

ほんとうは対面でおしゃべりしたかったんだけど、疫病くそ野郎が広がっているので泣く泣くオンライン。

オンラインだとメモ取りにくいのがつらいんだよな~(机の周りを綺麗にしなさい)

今日はその報告ということで、一切何もわからない手帳の汚いメモを見ながらまとめてみたいと思います。なんか間違ってたら、ごめんね。

 

まず、割とちゃんと図を書いたりメモをとったりして読んでいる人がいて感動。私はもう諦めて巻末解説と解説サイトを見てわかった気になって進めたよ。

スプリンターで異星生物たちがわちゃわちゃ実験して、物理法則を解明していくあたりは、面白いけど難解でしんどくもある、という感じ。中盤まではちょっとしんどく、時間もかかるが、それを過ぎたら一気に引き込まれて読めた、という意見が多かった。

私は「重力とは何か?」という初心者向け物理新書を読んでいたので、内容はわからないけどどうやら一般相対性理論について話しているようだ、というようなことがわかってよかったというような話をしました。

余談だけど、イーガンのおはなしより、よっぽど現実のほうが意味わかんねー!なのがわかって大変面白かったので、この本とってもおすすめです。

内容はわかんなくても、ロイやザックが様々な発見をしていく様や、そこに仲間が集まっていく様子などは共感できる部分が大きく、地味ながらめちゃめちゃ面白ポイントだな~って話も。

私はその辺、「チ。ー地球の運動についてー」という漫画とも重なる部分があるなと思って紹介。これも面白いよ。

また、他の生命体の生態を描いた作品として、「竜の卵」と似ているよという話も教えてもらった。読んだことないので読んでみたいけど、キンドルになかったのでまだ買ってない。そのうち読むのでここに書いておく。

未来の異星人が地球であったような物理法則発見を再現する、というところから、未来の火星でトロイア戦争をやるらしい「イリアム」「オデュッセイア」を思い出すという話も。うおーダン・シモンズ

読めば面白いのはわかっているんだけど(ハイペリオンは読んでる)、とにかく長いので、遠い未来で読みたい本のコーナーに置いてあった本でした。読みたくはある…遠い未来が近づいてくるか…

最近話題の映画「ドント・ルック・アップ」の話も上がる。まさに逆白熱光で、危機が訪れるものの、世界が馬鹿すぎて滅亡するおはなしとのこと。ある意味こっちのほうがリアルでは?なんて話をしながら、イーガン先生は知性への信頼が強いな~という話で盛り上がった。

ロイやゼンの種族は危機があると知性が覚醒する脳デザインということだけど、人間も同じなのでは?我々の社会のメタファーにも読めるのでは?という話も。

たしかに現実でも、戦争が繰り返される時代では優秀な人間が多く輩出されたり、戦争で使用される兵器から様々な科学技術が発展したりと、我々の社会も危機を乗り越えるために技術を進歩させたという経緯がある。

実際世界的な危機に瀕したら人類はどうするんですかね。私としてはとりあえずみんな平等に死のうみたいな世界も優しくて好ましくあるんですけど…。

 

あとは、ほぼ全員が解説に書かれている四つの勘違いに引っかかっていて面白かった。

というか、イーガンが意図的に勘違いさせてるよねっていう。そして中性子星ブラックホールの違いなんかわかんねーよっていう。よく読むと確かにわかるように書いてあるんだけど、別の読書会では専門の人もわかってなかったよという話を聞く。

この辺は色々話が出たけど、実際イーガン先生のミステリ的手法がちょっとへ…た…(小声)

実際、宇宙工学に精通してて、読解力の高いひとじゃないと、ほぼほぼ引っかかると思いました。

私は途中で解説を読んでしまったので(ネタバレ全く気にしないマンなので)、内容から理解したわけじゃないんだけど、そうしないとおはなしが成立しないよな~~と思った。

んだけど、勘違いするとどんなおはなしになるの?て聞いたら、ラケシュたちの話がロイたちの話の以前と考えたとのこと。そうなると、完全におはなしの筋が通らないわけでもなくなるので、うーんイーガン先生ちょっと失敗してるよ~という気になりました。

ロイ達の未来が孤高世界っていうのが、もっと明確に書いてあれば勘違いもなくなっただろうに…。これなんで濁してるんだろう。壮大なロマンだと思うんだけど…濁す意味ないと思うんだけど…。

私は解説読んでから読了したので確信していたんだけど、やっぱりそうだよね?と声が上がったので、勘違いにハマったまま読むと、この辺も流れてしまいそうでもったいないな~という気がしました。

もちろん、二度読むと、色々なところでわかるようになっている仕掛けがあるけど、いやーなかなか二度読むのはきついよね。

ちなみに日本での最新刊「ビット・プレイヤー」では、孤高世界と初めてコンタクトをとったリーラとジャシムの夫婦SFが読めるのですが、「白熱光」でハフが言った通り、近付く者は子どもにするように、ちゃんとハブから追い返していてちょっとにっこりしました。

孤高世界、やはり魅力的過ぎる…アイディアとしては最高以外の何物でもない…

 

ゼイについても話題に上ることが多かった。

最終的に個人の幸せの話に帰結するところが面白かったという意見や、ゼイに自分を重ねて感じ入ってしまうという意見が上がった。

ただ一人知性を発現させてしまったがゆえに、孤独に生きていたゼイにとって、ラケシュの存在は救世主のように見えたかもしれない。

「許していただきたいのですが、あなたの体のいろいろな違いが気になってしまうのです」ラケシュを警戒しながらも、どうしてもそう口に出さずにおれなかったゼイを思うと私もせつなくなってしまう。

「あなたがそうしようと思えば、わたしたちを眠りからさますことができるはずです」

読み返すとこのセリフも痛いほどせつないですね。

でも、高度な知性というのが幸せなものなのか、私にはよくわからない。

ロイパートの中でも、協同作業の快感だけを目的に生きるような世界を良しとするかどうか?が問われている。

でもそれって幸せじゃないのかなあ、と私は思ってしまうのである。みんな平等に死ぬ優しい世界と先に書いた通り、私は作中で夢中歩行状態、協同作業を繰り返す安楽な世界はめっちゃ幸せじゃないのかな~と思ったりする。

なんていうか、私はいつだって、ほんとうはみんなと一緒にサイリウム振りたいのにって思ってる人間なんだよね。でもいつも私のサイリウムだけ用意されてないの。辺鄙なところに席だけはあるのね。ステージにも立てないので、いつだって私は、そこにぽつんと座ってるんだわ。

話がそれました。

読書会でも、あれは幸せそうに見えるという意見はやっぱりあった。

ロイたちが物理法則を発見したときの快感は理解できるけれども、結局のところ、ロイのもとに集まった仲間たちの大半は失明したり、死んだりする。自分の子どもに執着を向けるようになり、今までなんとも思わなかった生殖行為に躊躇が生じる。

ロイは知性を発現させたことで、不幸になったともいえるんじゃなかろうか。

イーガン先生は、こういう疑問に対して、いつも答えを出さないので好きだ。逃げるわけではなく、中立であり続けるために、多様性を提示し続け、問い続ける。イーガン作品全体を通して、最も面白いポイントの一つだと思う。

 

そういえば孤高世界がなぜ直接箱舟を救えないのか?という点も謎として話に上がった。

私は先の幸せ問題を上げて、孤高世界でさえも、知性を発現させるのが正しいかどうかわからないからと挙げた。

他には、孤高世界は何らかの制約があって動けないのでは?とか、進化の果てにもはや考え方などが変わってしまい、ラケシュたちのほうがゼイたちに近い存在になってしまったからなどが挙がった。

実際、DNA生まれのラケシュとそうでないパランザムにはかなり考え方の違いがあることを考えると(この辺もイーガン先生の面白ポイントなんだよね)孤高世界がもはや種族として何か超越した存在になってしまい、価値観やら何やら変わってしまったというのは説得力がある。

この辺は書いていないことが多すぎてわからないが、色々な解釈を膨らませると面白い部分だと思う。

ラケシュは孤高世界について、また夢中歩行状態に戻っていると考えているけど、それもどうなのか怪しい。

本当に数世代で知性が落ち着くなら、孤高世界というものが作られることもなかったのでは?と思ってしまう。それとも孤高世界ができるまで延々と危機が途絶えなかったのだろうか…。しかしそれ、めちゃめちゃ、しんどいね。

今のところ孤高世界をちゃんと描いた作品はないみたいなので、イーガン先生の新作を待ちたいと思います。

 

だいぶ長くなってしまった。

他にも色々と話していたのだけれど、独断と偏見でまとめた結果、こんな感じになりました。ご参加いただいた方々、ありがとうございました。なんか間違ってたら教えてください。

読書会があったので読み切れてよかった、面白かった、イーガンが好きになったという感想を聞けて、主催としてはとても嬉しかったです。

次回もやりたいという声も上がり、次は4月に順列都市の読書会をする予定になった。

順列都市は、人間が生物としての人間を捨て、電脳世界に飛び込んでいくおはなし。イーガンの世界観のベースとも言えるおはなしなので、みんなで話し合えるのがめちゃ楽しみ。私は既読なんだけども、かなり忘れているので再読するのも楽しみ。

今度はくそ疫病がなんとかなって、顔を見ながらおしゃべりできたらいいなあ。できれば二次会もやりたいし酒が飲みたいねえ。