かみむらさんの独り言

面白いことを探して生きる三十路越え不良看護師。主に読書感想や批評を書いています。たまに映画やゲームも扱っています。SFが好き。

劉慈欣過激派による「栄光と夢」解説(劉慈欣短編集「円」より)

何かを過度に貶めることと、過度に信奉することは、本質的にあんまり変わりはしないのではないか、と思う。

あんまりこういう単語を使うことはしないのだが、表現としてわかりやすいため、あえて使うとすると、それはいわゆる「クソデカ感情」というものである。

愛と憎しみは表裏一体。容易に反転しうるし、感情の重さが変わることがない。だからタナッセにも愛してもらえる(このネタ誰がわかるんだろう/気になった人はフリゲの「冠を持つ神の手」をやろう)

というわけで今回は、「円」に収録されている「栄光と夢」があまりに良かったオタクでスポーツ嫌いな私が、過激な妄想をぶちまけて、このおはなしの解釈を広げていきたいと思う。

ほんとうは戦争が……とも思っていたんだけれども。

SF読書会関連のフォロワーさんが、”政治体制に引っ張られずにbotのようにSFを描いた劉慈欣でもあろうと思うと、歯を食いしばって自由に語るぞ”(抜粋)という話をしていて、それはそうだな、その通りだなと思って、私も歯を食いしばって語ろうと思ったのです。

だいたい、このおはなしは、カオスの蝶と違って戦争のおはなしではないのだ、というのが私の見方。

今はちょっとショッキングな写真や映像があまりに溢れすぎていて、みんなしんどすぎてしまって、このおはなしに連動してしまうのはとてもよくわかるし、私もそうでなかったと言えば嘘になる。

でも、私が「栄光と夢」を初めて読み終わった際、涙ながらに思い出したのは、小学校の体育の授業だった。

体育のカリキュラムのことはよく知らないが、多くの人が経験あるんじゃないだろうか、跳び箱である。

私の小学校では、一人一人並べられて技を披露させられたんだよね。

と、いっても、少なくとも私は何か教えられたという記憶は一切ない。あの時、できる子たちは教師から熱心に指導されていたけれども、私みたいな運動音痴はほぼ放置で、ただ時間だけが与えられているありさまだった。

というわけで、私はいちばん低い段もまともに飛べないわけだったんだけど、まあ跳び箱の上で逆立ちするような変な技をして拍手と歓声を受ける子の後とかにやれって言われるわけだよ、技を。技ってなんだよ。

ただでさえいじめられっ子なので、三段が跳べるかどうかがもう、命の瀬戸際ですよ。

ま、そして拍手されるわけですよ。もちろん失笑と共に。

私はあれ以来スポーツを人生かけて憎んでいるし、そもそも体育の授業にまともに参加しなくなった(体育倉庫とかで暇をつぶしていた/体育以外の成績が良かったので許されました/それもどうなの)

スポーツが憎いのか、スポーツが好きなひとたちが憎いのか、それともただ学校教育の体育が憎いのか、それは三十路を過ぎた今でもよくわからないんだ。

 

「栄光と夢」の話に戻ろう。

このおはなしは、戦争の代わりにオリンピックで決着着けちゃおうぜ、というところから始まる。

二か国だけのオリンピックである。そんなばかなオリンピックがあるか、と言いたいところだけれども、劉慈欣は人間果てしなく愚か説の提唱者なので、そういうことを平気でやってしまう。

しかも、戦時中で国全体が貧困のシーア共和国VS有望なスポーツ選手にはなんでも提供できるアメリカなのである。シーア共和国の選手は栄養状態も悪く、練習もまともにできない。そもそも、有望な選手が多数死んでしまっている。

当然、シーア共和国は惨敗を繰り返す。体操選手のライリーという選手は、既に負けるとわかった状況で狂気の演技を披露し、平行棒から落ちて死ぬ。

これは戦争でも、オリンピックでもない。これはただの虐殺なのである。スポーツ選手の人生と心を殺す、あまりに非道な虐殺。

一勝でも挙げられたら国に恩恵があるというところから、選手は逃げられない。唯一、サリという選手だけが拒否するが、この男は例外で、勝利する可能性があるから逃げられたのである。強いから逃げられただけだ。

何度でも言おう。このおはなしは、弱いスポーツ選手の逃げ場を奪い、その人生と心を破壊しつくす、虐殺のおはなしなのである。

しかしそれは生命を奪わないという点において肯定され、エンタテインメントとして待ち望む観客は会場に押し寄せている。そして悲惨すぎて勝手に目を覆ったり、英雄視したりする。

これは、痛烈なアメリカ批判やオリンピック批判(私はオリンピック見ないのでよくわかんないけど……)と読むこともできるけれども、私は先の跳び箱の思い出があるので、どちらかというと、スポーツ全体に対する皮肉のように思える。

他の国では教育の質が違うかもしれない。でもやっぱり、スポーツができるかどうかというのは、人生の質を変えてしまうと思う。学校教育という逃げられない場において、お前はできそこない、と突きつけられたような気持ちのまま、生きていかなければいけないひともいる。

根拠はない。私の感覚だ。

あの跳び箱で、人生と心を殺された私の感覚でしかない。

でも……たとえば、ミスコンで明らかに不美人が選出されるのはいじめだと思う人が多いだろう。何よりミスコンというもの自体が批判されがちな世の中である。

それなのに、学校教育のマラソンで、明らかに完走できない子や、他の子より数十分時間がかかる子を参加させることは、普通だと思う人が多い。

そういえば中学の頃、どう考えても私には登頂できない山を登らされた挙句、途中で引き返して転んで怪我をしただけ(しかもちゃんと処置してくれなくて化膿した)のクソみたいな行事があったことを思い出した。

もしかしたら、私が子供の頃に比べて、日本の体育教育はもう少しマシなのかもしれない。子どもを生まない私には知る術はないが、もう少し世の中は私のような人間に優しいのかもしれない。

そもそも、この人生と心を殺される感覚は、スポーツに限らないかもしれない。勉強や、それこそルッキズムも、あまり変わらないのかもしれない。

私が極端に競争というものを嫌っているから、必要以上に競争を肯定するスポーツ文化がいやなのかもしれない。

それでも、私は、勝った負けたで大騒ぎして、上位の人しかメディアで取り上げないスポーツ競技の大会を見るたび、吐き気がします。

ここに関して、別にどうなってほしいとかは思わないし、スポーツ好きの人を責めたい気持ちはないけれども、私のような意見があっても、許される世の中だと良いと思う。

 

さて、中国の体育教育って、どんなんだろ?と調べたら、案の定、中国らしく、才能がある人間は早めにスカウトして、英才教育を施すらしい。

実際のところを知らないので、私の口から中国批判はしない。

でも劉慈欣は、そういう教育に対して、おそらくかなり危ぶんでいる。

主人公のシニは、口がきけないマラソン選手である。

このおはなしは中盤から、このシニの物語となる。

当然マラソンのおはなしになるのだが、思い出してほしい、このおはなしは虐殺のおはなしだ。マラソン競技特有のかけひきや、ライバルとのやりとり、そんなものは一切ない。

エマという世界最高のマラソン選手に、シニは完膚なきまでに殺される。書いてあるのはそれだけなのだ。

シニは実際に死んでしまう。全力でオリンピックで完走したことを誇りに思い、笑顔を浮かべて。栄光と夢を胸に抱いて。

クソッタレが。

口が悪くなった。ラスト付近についての話はあとでしよう。

シニがマラソンを完走するまで、シニの人生が語られる。

母を空爆の被ばくによって亡くし、ある男にマラソンの才能を認められて、男の売血と彼の親族の犠牲を受けてマラソンだけに人生を懸けてきた。

この描写は、正直上手いとはいえない演出で語られる。シニの中で現在と過去が混ざっていく、やや狂気的な世界の表現ということはわかるのだが、あまりにぐちゃぐちゃしている。とにかく読みづらい。

たぶん翻訳は悪くない。悪いのはたぶん、劉慈欣の熱量である。

そう、熱がある。どうしても惹かれる。上手くないが、下手な書き手には絶対に書けない、心に訴えかける熱がある文章なのだ。

そして、これだけの熱をかけて人生を語られたシニは、しかし人格がほとんどない。あるのは走ることだけだ。それ以外ない。

読書会で、シニの葛藤があるべきでは?という意見を聞いた。最もである。

しかし、劉慈欣が書きたかったのは、おそらく、小さなころから栄光と夢を押し付けられ、それだけになってしまった、美しさと悲しみを湛えた少女なのである。

かなり意図的に人格を削られており、それはやはり、前述した中国の体育教育への危惧があるからなのではないか、と感じる。

小さい頃から一つのことをやらされて、それ以外何もなくなってしまう。マラソンの才能を持っていたばっかりに、マラソンロボットにさせられてしまった。

シニには、走らないという選択ができない。棄権して生命を繋ぐ選択肢などないのである。シニは走るしかなかったし、走らなければ死ぬしかない。そこには葛藤など生まれようがない。

「栄光と夢」は悲劇だ。このおはなしに栄光も夢もない。愚かな人々と、虐殺されるオリンピック選手と、マラソンに人生を蝕まれた少女がいるだけである。そして世界に常にある飢えと苦しみと誇りが、これでもかと描かれているだけである。

劉慈欣は、シニの死も、戦争も、決して肯定してはいない。愚かだと心の底から思っているに違いない。このおはなしだけでは判別がつかないかもしれないが、「円」の短編集全体を見ればわかる。

しかしなぜこんなクソッタレなものを書いたのか。

私にはわかる。

そのクソッタレなものは、あんまりにもうつくしすぎて、もはや信奉するに値するからである。

 

私はスポーツが嫌いなただのオタクだ。スポーツができない人間は大概オタクになる。

オタクなので、二次創作をする。

数年前、とあるスポーツ漫画にハマって、二次創作小説を書いていた。

あまりにも恥ずかしいのだけど、歯を食いしばって語ることに決めたので、少しだけ話そう。

才能はあるがトラウマからそのスポーツの鬼と化してしまった子供(これは公式設定)を病気の大人にして、世界最高の戦いで優勝させて、その途端に殺してしまったのだ。まあBLなので、彼を愛している男が、スポーツを諦めて普通に生きながら、ただ彼を救えなかった話だ。

私はスポーツを憎んでいるから、これはこの上ない悲劇として書いた。今思うと、このおはなしは、私なりのスポーツへの復讐だったのかもしれない。絶望の話を書くことで、溜飲を下げていたのかもしれない。

ただ、私の中に、それ以外何もないこと、そこに殉ずること、生命も心も人生も投げうつことへの強烈な憧れがあることは無視できない。それはたぶん、ほとんど信仰と呼べるものだったと思う。

当然だが、現実のスポーツ選手に耽溺したことはない。ほとんど名前も知らない。

たぶん私が信仰しているのは、あの日跳び箱でハンドスプリングを決めた、もはや名も覚えていない子どもなのだ。

私だってああなりたかった。

私だって、今だって、シニみたいになりたい。どれだけそれが、悲しいことであったとしても。

劉慈欣のような偉大な作家に自分を重ねることがどれだけ愚かなことかはわかっている。

それでも、「栄光と夢」を書いたときの劉慈欣のことを、わかると言わせてくれ。

絶対に、無批判にシニを描いてはいけない。シニのことも、戦争も、クソッタレオリンピックのことも。

しかし、それでも、強烈に鮮烈に蘇る信仰を捨てられない。苛烈な悲しみも、唾棄すべき悲劇も、うつくしさの一点のみで肯定したい時が、誰にだってあるはずだ。

劉慈欣は世界に通用する形で、それを書いている。素晴らしい作家である。

まじでみんな買って応援するしかないよ。

 

ここまで書いて、実は劉慈欣がバリバリのスポーツマンだったらどうしようと思っている。もしそうだったら恥ずかしさで憤死するかもしれないので、どうか、私が動揺しないように、べろべろに酔っ払った時とかにそっと耳打ちしてください。

えーでも絶対劉慈欣はスポーツできないオタクのひとだって!新海誠好きなやつがスポーツマンなわけないよ(偏見)

ほんとうは、自分の人生と小説の内容や、作家と自分を重ね合わせるのは好きじゃなくて、感想や批評としては相応しくないのではくらいに思っているんだけれども、「栄光と夢」も劉慈欣氏も大好きすぎて、愛が爆発して耐えられなくなってしまったので、たまにはこういうのもいいだろうと思って書きました。

そんなわけで、ここに書いてあることのほとんどは妄想なんだけど、誰かにとって面白い妄想であってくれたらいいな。

さて、「円」のレビューは残すところあと5作品になった。私が死ぬほど好きな2作(「郷村教師」と「栄光と夢」)が終わったので、後はのんびり書いていきたいと思う。案外レビュー書くと好きになるというのもあるし。