かみむらさんの独り言

面白いことを探して生きる三十路越え不良看護師。主に読書感想や批評を書いています。たまに映画やゲームも扱っています。SFが好き。

阿部和重作品の魅力について考えてみたが、よく分からなかった話(ネタバレなし)

あまり聖地巡礼というものに興味がない。

漫画や映画といった絵や映像のメディアを見ていてさえ、ここのゴハン美味しそう、この場所綺麗そうとか、実はそんなになかった。というか、いろんな人と交流していてやっと、そういう楽しみもあるのかあ、なんて思う程度だった。

私にとって、フィクションは現実ではないものだ。たとえロケーションが同じでも、世界が違うので、聖地と言われても、だから何?となってしまう。

そんな私が、唯一、楽しんだ聖地巡礼が、神町への探訪だった。

山形県東根市神町

空港の間近にあり、ラブホテルが乱立し、果樹園に塗れて、変なお山がある。ひと気の少ない、駅でさえ無人の田舎町。

そんな町の中を、夏の暑い日、三十路を迎えたばかりの女がたったひとり、レンタサイクルで駆け抜ける。バカでかい空港の敷地に、辺鄙なラブホテルに、何の変哲もない道路に、小さな交番に、小学校近くの本屋(跡地)に、たぶん立ち入り禁止の山の中(虫しかいなかったのですぐ出ました。許してください)に、血走った眼でスマホのカメラを向ける。

完全にイッちゃったひとであった。

いいのである。私は確かにその日、阿部和重神町サーガの世界の中にイッちゃっていたのだから。主にシンセミアのおはなしの渦中に。

神町サーガとは、シンセミアピストルズ、オーガ(ニ)ズムの三部作で構成されるシリーズのことだ。おはなしの流れを汲むと、グランド・フィナーレやミステリアス・セッティング、ニッポニア・ニッポンなどもシリーズに関わっているといえる。

サーガというからには神話である。神話とは、ぶっ飛んだ架空のおはなしで、そして現実で真実であるからそう言われる。異論は受け付けない。(嘘。ちゃんと神話を研究してる人、ごめんなさい)

私にとって、神町サーガは現実にとても近い。

さすがに現実だと断ずるほど気が狂ってはいないが、パラレルワールドで実際に起きた出来事ですと言われたら頷いてしまう。私は、ピカチュウの尻尾が黒かった世界線を未だに信じているひとなので(ぜったい黒かったよね?)

ここまで書くと、神町サーガというのは如何に現実的なおはなしなのか、と思われるひともいるだろう。

そんなことない。めっちゃくちゃである。

シンセミアはまだ現実感がある。パン屋とヤクザとロリコンの不良警官と盗撮好きのレンタルビデオ屋とその他大勢が、抗争と洪水と赤い巨石で大騒ぎして、人も町も文字通り滅茶苦茶になるおはなしである。

ピストルズになると少し様相が変わる。菖蒲家という、代々続く呪われた家系の末娘が、人心を操る秘術(アヤメ・メソッド)を習得するための修行の末、超能力に覚醒するおはなしである。

オーガ(ニ)ズムに至っては、東京が壊滅したせいで首都が神町に移った後の世界で、主人公は、まさかの作者阿部和重だ。三歳の子どもを抱えた阿部は、瀕死のCIAケースオフィサーと出会い、菖蒲家の陰謀から世界を守るため、立ち上がることになる…!

断っておくが私は正気である。神町を探訪していた私はイッちゃっていたかもしれないが、今は真顔でこの三作のあらすじを書いている。間違ったことは何一つ書いていない。

伝わらないのは仕方ない。私自身、書いていて、え、ナニコレ?どうする?という感じである。

私が言えるのはただ、このとんでもなく荒唐無稽なおはなしを、現実の出来事と見紛うほどに描く阿部和重の筆力はものすげえということだけである。

ここまでで阿部和重ちょっと興味ある~とか思った人は今すぐこんなブログなんか閉じて本屋に走ってほしい。電子書籍でもいい。とりあえずシンセミアを読もう。文庫上下巻で900ページくらいあるけど、たぶんすぐ読めるので。

ちなみに阿部和重神町サーガを書き終えて間もなく、新刊を出したので、そちらでもいいです。しかし、途轍もない筆の速さだ。

ブラック・チェンバー・ミュージック。ドチャクソ面白いラブストーリーだった。

そして、この作品も、神町サーガに負けず劣らず現実だったので、私は今度は柏崎マリーナと浅草花やしきに行かなければならなくなった。

ちなみに、まさかの故郷新潟の登場に胸を躍らせたものの、数えるほどしか行ったことがない柏崎だったのでちょっとしょんぼりした。

大丈夫です。ぼくもベンチに座って密航船を待ちます。できれば、冬の夜に。コメダ珈琲シロノワールを食べてから。たぶんまた、ひとりで。

映えもエモみもないけれど、愛だけあります。

 

しかし、阿部和重作品はどうしてそんなに現実なのだろうか?

実際問題、ぜんぜん考察しきれておらず、納得できる答えはまだ持ち合わせていない。ぶっちゃけた話、文章と構成がバカ上手いからとしか言いようがない。

ただ、私のこの感覚、私だけではない様子。Twitterで流れてきたブラック・チェンバー・ミュージックのPOPに、「こんな突飛で危険な物語をここまでリアルに書ける作家はこの人しかいない」と書いてあったのだ。

やはりリアルさというのは、阿部和重作品を語る上では、避けて通れない大きな特徴なのだと思う。

が、そもそも、リアルさというのは、なんなのだろうか?小説において価値があるのものなのだろうか?

阿部和重の作品は情報量があまりに多く、緻密だ。読み慣れていないと、どれが重要な情報で、どれが意味のない情報なのか、と情報量に溺れてしまう人もいるだろうと思う。

そしてその情報は、ほとんどが実在の地名やモノの名前などの羅列であり、年月日時間まで詳細に指定することも多い。

その情報量が好きかと言えば好きだ。知っていればなんとなく嬉しいし、知らなければつい調べてしまう。基本的に、知識を得るのは好きだ。

考察している人の中には、一見無意味に見える情報の羅列の意味を発掘している人もいて、そういう裏設定みたいなものも含めて面白い。

けれども、だから阿部和重作品はリアルなのか?と聞かれると、首をかしげてしまう。そういう描写が多いから価値があるのか?と聞かれるとなおのこと悩んでしまう。

そもそも、神町をはじめ、基本的に行ったことのない場所の話を延々とされるので、ふつうに読み飛ばすし、ありありとその場が想像できるなんてこともない。シンセミアを初めて読んだ時、山形県には行ったこともなかったし。

ただ、私は阿部和重のそのくどいほどの詳細過ぎる描写を見るにつけ、そんなものが、そんなところがあるんだ、ああ行ってみたいな、真似してみたいな、と思うのだ。

聖地巡礼などほとんど考えたこともない私がである。観光地でもないのに。

いつのまにか、おはなしの中のできごとなのに、現実の世界と重ねて見ている。

さて、年月日時間の指定から想像できる人もいると思うが、阿部和重作品では、いわゆる時事ネタも取り扱い、しばしば現実の情報が提示される。

たとえば、ブラック・チェンバー・ミュージックでは、米朝首脳会談を控えたある日、ドナルド・トランプの隠し子を名乗る人物が北朝鮮に訪れることから物語が始まる。

割と時事ネタも好きだ。

では、現実の場面が描写されていることが、それがリアルなのか?

案外そうかもしれない。けれども、そのリアルは、イコール価値があると簡単に結べるものではない。現実であった出来事の大概は、どうでもいいか、あんまり面白くないことだからである。

トランプの隠し子問題とか痛切に考えているひとって、少なくとも一般の日本人ではそうそういないだろう。

それに、ノンフィクション作品とか、ぜんぜん私は好きでない。

ただ、阿部和重が扱うと、わくわくする。どう物語に絡んでくるんだろうか予想して、外れて、面食らう。

どんなホラが噴出してくるんだろう?と思っていると、もう物語に飲まれていて、それがホラでなく現実として浮き上がってくる。もちろん、今自分がいる世界とは別の現実だけれども。

混迷してきた。

ここまで考えてきて、やはり阿部和重作品は、リアルだから面白い、価値がある、という話をするのは難しい。難しいというより、それは違うのでは、としか言えない。

書いていてわかったのは、私の中で阿部和重作品は、現実が物語になっている感じではなく、物語が現実に投げ込まれているような感じなのだということ。

そしてその物語がはちゃめちゃに魅力的で面白いということ。

なんにもわかっていない。

 

あまりにもなにもわからないので反省したが、こういう混迷したブログ記事というのも悪くないのでは?と思い、公開することにする。

少なくとも、阿部和重作品の不思議な魅力を伝えるのには、ほんの少し貢献したと思う。

この記事を読んでくださった方、もしよければ阿部和重作品を一冊、いや、一冊と言わず五冊くらい読んでいただき、その世界やリアルさについて何か考察をしていただけたら、教えてください。

大雪でどこにも行けないので今年の抱負とか

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

そして誕生日おめでとうございます私(元旦が誕生日でした)

32歳です、まじか。

若い頃は30を超えたら死ぬと思っていたけれども、案外死ぬことはなく、かといって元気とも言えず生きているみたいで、なんか不思議なもんだね。

今日の関東地方は大雪で、家の周りも雪塗れで買い出しを諦め、家でぬくもることにしました。ちょうど休みで良かった。仕事だったら大変だった。

昔大雪に見舞われたときは日勤で、死ぬ思いをして職場に行ったのを思い出します。なんでそんな思いして仕事しなきゃいけないの?患者が死ぬからです。

いい加減、自分の真面目さに嫌気が差してきているんだけど、仕事は嫌いじゃないらしいんですよ、この人。今は福祉関連で仕事をしてますけど、障害のある方の世話を焼くのも、どうも楽しいみたいです。

そういえば、ちょっと高い旅館に泊まったり、ちょっと高い服を着て歩いてみたり、そんなのも嫌いじゃないみたいで、まあ少しばかりお金を稼ぐのも悪くないようです。

業種的に、搾取され続けることもわかっているし、なんか残るかっていったら別に残らないし、寿命も確実に縮むんだけれども(気になった人は看護師の平均寿命で検索検索ゥ)、まあ、かといってほかにやれる仕事もないしね。

FIREとかが流行の今、どうあってもその風潮に乗れないし、乗る気もないということが、ひしひしと分かったので、今年はそれなりに仕事も頑張りたいと思う所存。

そうそう、最近読んでる呪術廻戦でもナナミンが言ってました。

同じクソならより適性のある方を!(ちょっと違う?)

つまんない人生だけれども、楽しく生きていくのが今年の目標。

ま、今のところは環境悪いから、一段落着いたら辞めるけどさ。

 

そういえば、つい先日、イーガンの白熱光を読み終えて、鳥肌が立つほどの面白さに震えていたところで、ここ数日はラファティ傑作選を読んでいます。

読書量をとりあえず増やす、というのも今年の目標です。

最近楽しくてSFばっかり読んでいるけど、本来は純文系が得意分野だったはずなんで、少し回帰していきたいな。とにかく寝転んでようつべ見ている時間を減らしていきたい…。

具体的には、芥川賞受賞作品くらいはちゃちゃっと読んでおきたいのと、読む読む言ってたのに読めてなかった阿部和重の「ブラック・チェンバー・ミュージック」を読まなきゃ。この人筆が速いので、早く読まないと新作が出てしまう。

阿部和重神町サーガがとっても好きで、ちょっと前に神町を練り歩いてTwitterでマニアックなツイートを繰り返していたら、なんとご本人からリプライを頂いてしまった嬉しい思い出。

神町サーガも何が面白いのかそのうちブログで触れてみたいです。ずっとなんとなく考えているのは、設定や展開はめちゃくちゃぶっ飛んでてもはやファンタジー?って感じなのに、それを筆力だけで現実に落とし込んでくるあたりが死ぬほど面白いってところですかね。

薬物を司るスーパー姉妹の陰謀で神町に首都が遷都して、そこにオバマがやってくるとか、これ何も間違ったこと言ってないんですけど、初見だとは???としか思わないでしょ。これが現実と地続きに思えてしまうのが、阿部和重マジックなのですよ。

阿部和重は自分の名前がトキだからって朱鷺に妄想を持って殺しに行く「ニッポニアニッポン」とかも面白いので、おすすめです。

脱線しました。

今年必ず読みたい本は他にもあります。

ででん、イーガンの直交三部作を読み切って何かしら感想をブログに書く!

前回の記事でも書きましたが、身内でイーガン読書会を開催したので、可能であればそちらも活用しながら読んでいこうと思います。

メンバーが挫折しても、とりあえず私だけは最後まで読むぞ。

初回は白熱光なので、こちらも終わったら報告も兼ねてブログに何かしら残そうと思います。

他にも、昔読んで記憶の薄れた宇宙消失や順列都市など、読み返して、短編集はサクッと読める(はず)なのでたくさん読みたいな…。

イーガン読書強化年に出来たらいいと思っています。どこまでいけるんだろうか…。

そのうえで、物理も数学もよくわかんない人がイーガンを楽しむための秘訣みたいなのも書いていけたらいいかな。というかまあ、私が何でイーガン好きなのかを考える年にしたいという話です。

 

えーと…あと、小説も…頓挫してるので進めたいです…。

秋口の体調悪さから書けなくなっちゃった…。

たぶん誰も楽しみにしてないのは知ってるけど、自分のために書いてるやつなんで、とりあえずがんばります!

書ききったら久々に文フリに出たいので、来年秋までには完成目標。

 

そんなこんなで、今年は2週に1本ブログ記事をなんでもいいから(適当な日記でもいいから)挙げるというのも目標に挙げたいと思います。

自分の考えてることは割と面白い気がするので、自分で楽しむだけじゃなくて、他の人にも楽しんでもらえるように筆力を上げていけたらいいなあ。

たまには人生や仕事の愚痴も混じるかもしれませんが、もしよろしければ今年も私の独り言にお付き合いください。よろしくお願いします。

今年の総括と推し本について語る(日記)

今年ももう終わり。

ちらほら仕事納めとかいう人も出てきますが、相変わらず私は看護師をやっているので、31日に仕事を納め、1月2日から仕事始めです(元旦だけ休みだった)

基本的に夜勤ばっかりしている生活で、さすがにクリニック時代より読書量が減りました。でもなぜか体もメンタルも比較的元気で、時々落ち込んだ時は東方やったりブログ書いたりできたので、まあ生活としては安定してきてよかった。

安定してきたので、来年はもっと読書したり、映画見たり、美術館行ったりと、生活の文化度を上げていきたいと思います。

そういえば、地味に感染対策をしながら山登りも始めたので、来年はもっと登山回数を増やして、簡単な縦走や山小屋泊なんかにも挑戦してみたい。運動大事、マジで。

このブログも、月一更新だけは死守したので、来年はもう少し更新頻度を上げられたらいいなあ。

というわけで、今日は、だらだらと今年の推し本を小説、漫画について語ります。布教も兼ねているので、ネタバレはなしです。

 

◎「ディアスポラ」 グレッグ・イーガン著 山岸真

今年と言いつつ、まさかの1997年の本を持ってくるという。

いや、今年に関係はもちろんあるんですよ。最近大流行の三体シリーズです。

今年三体3の翻訳が出版された際、なんとなくちょうどディアスポラを読んでいたんだよね。なんか共通点多くない?と思ったら、訳者あとがきでも引き合いに出されていた。

具体的には書かれていなかったけれども、個人的には多次元空間への進出や人類の進歩をとんでもないスケール感で鑑賞できるあたりの読み心地が似ていると思う。この辺はSFならではの快感に溢れてるよね。

しかしなぜ三体3ではなく、ディアスポラを選んだのか。

簡単です。私がイーガン大好きなのと、ぶっちゃけ三体よりこっちのが面白かったからです。

ちなみに断っておくけど、三体シリーズ大好きだし、1も2も3もそれぞれ違った面白さがあって、かなりサイコーな小説です。というか、このブログ自体、葉文潔について語りたくて作ったし、かなり思い入れがあります。

ただ、イーガンのほうが、自分にフィットしてるし、好きなんだな~というだけのこと。

イーガンは面白い作家だ。検索すると、大方の人が、物理学や数学、脳科学などの専門的な内容が多過ぎてほとんど理解できない、でも面白いのだ、と言っている。意味が分からない。

当然私も9割5分理解不能である。ハードSFにもほどがあるのである。これはシルトの梯子という作品の話だが、物理学の現役教授が解説を書いていたのだが、シュレディンガーの猫の記号が可愛かったことしかわからなかった。

ディアスポラも例外ではなく、初見では何にもわからなかったので、感想や解説を読んでようやく5分くらいの理解を得た。

それじゃあ何が面白いのか。

それはたぶん、世界観なんだと思う。どこかで停止しない遠く、広がりを持つ世界。人類という存在の、愛に満ちた可能性。

イーガンの未来の中で、人類はデータ化され、何万年も生きる。

彼らはその中で自身の生き方に苦悩し、世界の謎や問題を探る。時には危機に直面し、研究し、冒険し、活路を得る。時には自身のどうしようもない人生を突きつけられ、悩みながらも決意する。

そしてイーガンは、その世界と物語の中で、読者に対して、折々に問いかけてくる。たとえば、生体コンピュータで生まれた生命らしきものは生きていると言えるのか?非合理的/非科学的な選択肢を選ぶことはただ愚かなことなのか?

と書くと分かる通り、内容の難しさはともかくとして、おはなしやテーマや問いかけられるものは、比較的単純で王道なものだ。

だから理解はできなくても、何かがわかる。描かれていることを理解したいと思い、努力した末、何か発見を得る。

イーガンの面白さは、特殊な面白さだし、万人に勧められるものではないが、ハマる人はハマるし、人生が変わる人さえいるかもしれないと思う。

ディアスポラは、先述した面白さがマックスに詰まった宝箱のような本です。人類とこの世界、宇宙について、一つの答えに迫っている。それを人間とは違う、ヤチマというAI(厳密には違うのかもしれないけど)と一緒に見にいくことができる。人類の愚かさも、素晴らしさも、ヤチマと一緒に、終焉まで。

ネタバレなしでは何も語れないので、とりあえずみんな理解できないことを前提に挑戦してほしい。頭おかしくなると思ったら止めてもいい、でも、半年くらい経ったらまた本を開いてみてほしい。

私もそうやって読んでる。でもなぜかおはなしを覚えている。なぜか印象的なシーンが思い出せる。

今年三体3とも読み比べて、三体もサイコーに面白いけど、やっぱりイーガンが好きだなあと思ったので、今年の推し本(小説部門)に選びました。

最近、イーガン読書会を主催しました。大好きなイーガンがもっと面白がれるよう、初心者向けの物理の本とか読んで頑張っています。たのしいです。

 

◎「Thisコミュニケーション」 六内円栄著

はい、12月の考察記事のやつです。クリスマスに頑張って書きました。

12月に入るまでは、今年推しの漫画は?と聞かれたら、チェンソーマンか鬼滅の刃を挙げていたはずだ。ミーハーと馬鹿にされようと、二作品ともものすごく面白かった。

しかし、友人に勧められて、ちょうど1巻無料だし1巻だけ読んだろ、と手を出したのが沼の始まりだった…。

もはや、沼の奥から出てこられず、手帳に考察を書きまくり、よりによってクリスマスイブにがちゃがちゃキーボードをたたく羽目になった。今ははやく続刊が読みたい以上の感情がない。

何がそんなに私をかきたてたのか。

それはたぶん、主人公デルウハだと思うんだよなあ。

ほぼ異生物によって世界滅亡してるディストピア世界観もテンション上がるし、不死身のバケモノになった少女たちがサイコーだし、ホラー映画の構図をうまく利用したちょっと笑っちゃう演出も素敵なんだけど…。

でも私はデルウハがめっちゃ好きですね。うん、ほんとう、飛び上がるくらい魅力的な男なんだよ。

デルウハというのは、徹底的に合理的な男で、目的のためならなんでもする。殺人も厭わないし、息を吐くように嘘を吐く。

具体的には、デルウハは不死身の少女たちが死ぬと1時間記憶を失うことを利用し、うまいこと彼女たちの信頼を勝ち取り、兵隊として育成していく。

そして彼の深淵なる目的とは何か。それは、毎日3食ごはんが食べたい!である。

最高じゃない?ごはん食べたいだけで世界を救っちゃうかもしれないんだよ?しかもパンとサラミでいいんだこいつは。まあ、人類追い詰められてるし、贅沢は言えないんだろうけど。

前にブログでも触れたけれども、デルウハは、最低最悪でありつつも、それ以上に、「もしずば抜けた頭脳と身体能力を得たら、一度はこんな風に生きてみたい」と思わせる格好良さがあるんですよ。

さて、私は、こいつに似た男を知っている。

そいつは名をランス君と言う。10年以上続く美少女ゲーム(注R18です。いわゆるエロゲーです)のシリーズの主人公を務めていた。

かつて、ランスシリーズは私の生きる希望だった。シリーズは2018年に見事完結し、この上ない大団円を迎えた。とっても最高だった。感動しすぎて呆然とした。

この辺の話もどこかで書けたらいいなと思うんだけど、今回はThisコミュニケーションと関連させた話に留めます。アダルト枠だし。

このランス君と言う男は、女の子と仲良し(隠語)することが目的で、そのためなら何でもする男なんですよ。この街を救ってくれたら仲良ししてあげますよ!って言われたら街を救っちゃうし、可愛いお姫様と仲良ししたいからっていう理由で国とか丸ごと救っちゃう。

ランス君は徹底して自分の目的のために動いていて、基本的に最低最悪なんだけれども(作中でもやっぱり嫌われたり殺されそうになったりする)、プレイヤーやあるキャラクターから見れば非常に魅力的で、そうやっておはなしや世界を動かすというのがランスシリーズのとても面白いところなんですね。

ね、デルウハと似てるでしょう。

徹底していてブレないことは、とんでもなく大きな魅力だ。現実ではなかなかそんなことはできないが、こうやって生きられたら超カッコイイ!そんな人生を、ランスシリーズやThisコミュニケーションは経験できるのです。

そして、その徹底ぶりが何かの折にちょっと崩れる(あくまでちょっと/改心するのは面白くないので)というカタルシスも、こういう作品ではめっちゃくちゃエモくて面白いシーンになると思うんだよね。

ランスシリーズは、それが正ヒロインシィルの存在で、シィルにまつわることになるとブレちゃったりするのが最高にエモかったわけなんだけど、デルウハはどうだろうか。

まだ今のところ、ブレるデルウハというのは見えていない。ブレそうなシーンはあったけど、やっぱりブレないデルウハ格好いいぜ、というところに行き着いている。

なんたって、まだ5巻しか出ていない。というか、5巻しか出てないのにこんなに面白いのは凄い。ずるい。

でも5巻の中で、どうやら正ヒロインはよみちゃんだということがわかってきた。

今後、デルウハはよみちゃんのためにブレるのか?それとも、全く関係ないところでブレるのか?ブレそうになって踏みとどまるのか?

個人的にはブレるのが王道的展開だし、デルウハとよみちゃんの関係が好きなのでそうなってほしい気持ちはあるけれども、どんな展開になっても、デルウハという男の魅力を引き立てるはずなので、どう転んでも最高になってしまうだろう。

読めば読むほど、考えれば考えるほど、続きが気になる素晴らしい作品である。

当面はこの作品読むために生きてもいいかな?と本気で思えたので、出会って間もないですが、今年の推し本(漫画部門)です。

ちなみに、よみちゃんについては、先日頑張って書いた考察記事に詳しく書いてあるので、気になった方はぜひ5巻まで読んだうえで参照してほしい。

 

こうやって書くと、世の中には面白いものが満ち満ちていて、ちゃんと読まなきゃいけないなあと思う次第。

身体もメンタルも弱ってる場合じゃなさそうなので、来年はもっともっと面白いものに触れて、面白がる体力と知性も維持していきたいと思います。

とりあえず明日も夜勤ですが、明けたら故郷の雪国で旨いもんが食えるみたいです。

良いお年を!

よみの瞳が濁る理由と彼女の未来(Thisコミュニケーションネタバレ考察)

当記事には漫画「Thisコミュニケーション」最新刊までのネタバレが含まれています。未読の方はご注意ください。

 

突然ハマってしまいました、Thisコミュニケーション。へんてこなタイトルで敬遠していたんですが、友人が推していたのとコミックス1巻無料で読んだら沼に落ちました。

合理的で、だからこそ最低最悪な主人公デルウハと、振り回されるバケモノ系不死身少女たちがサイコーでなりません。

とくにデルウハは、最低最悪でありつつも、それ以上に「もしもずば抜けた頭脳と身体能力を得たら、一度はこんな風に生きてみたい」と思わせるような性格に仕上がっているので、本気で嫌悪感を抱いて読めなくなることがない。

いや、本気でダメな人もいるんでしょうけど、そういう人があまりに多かったらこんなに売れてないわけなので、やっぱり多くの人がデルウハ的合理的最悪人生に憧れ、ないし、尊敬を抱く部分があるんだと思います。

謎の生物イペリットによってほぼ世界崩壊しているというのもたまらんです。しかもこの生物、無駄に進化するし。別に人類に対抗してというわけでもなく(今のところ)、ただなんとなく進化してるがために人類側が大変なことになっているというのも素敵です。

少女たちが死ぬと1時間記憶を失うため、疑似デスループものとしての楽しさとハラハラ感もいい。それまで散々な諍いや殺し合いをしようとも、その後記憶をなくし、のんきな日常を送っているとゾクゾクしますよね。

彼女たちは女狩人(ハントレス)、そしてデルウハの兵士であるため、イペリットに勝つために必要でない成長は永遠にすることがなく、ただひたすら戦争と変化のない日常を繰り返すことになります。能力的な欠点や感情的な脆弱さも、そのまま、つまりデルウハが利用しやすいまま。

彼女たちに許されるのは、デルウハを信用し、デルウハの言うことを聞くこと、それ以上の自我を持つようになった場合、速やかに死んで巻き戻ること。

我々読者は彼女たちが実は成長したことがあると知っているけれども、ページを捲るとそこにはそれを奪われて笑っているその子がいるわけです。実に心の暗い部分にチクチク罪悪感と優越感を刺してきて最悪で最高です。

まあ、しかし、ぼくたちはゲームをするとき、よくこういうことをやっているよね。ファイヤーエムブレムで誤ってキャラが死んだときは、リセットボタンを押すし、ときメモでデートしたときはばっちり好印象な選択肢を選ぶためにセーブ&ロードを繰り返すよね。

かつて、主に美少女ゲームにおいて、少女たちを消費する罪悪感を、世界ループやメタ視点を持つキャラクターなど、様々な手法によって解決してきたけれども、この辺の流れを汲みつつ、また違ったアプローチでドラマ展開する「Thisコミュニケーション」にはもう目が離せないです。

 

前置きが長くなったけれども、今日の本題はよみちゃんについて。

このブログを書いている時点での最新刊は5巻だが、ラストがとにかくエモいと話題になっている。

私も読んでいて衝撃を受けた。ついつい、ヒィーたまらん、と声に出してしまったほどだ。いや、ほんとうに声が出た。

他のハントレスを優に凌ぐ能力に覚醒し、デルウハが今まで行ってきた記憶操作を理解したよみに対して、「こんな俺でも選んでくれるか?」と自信たっぷりに投げかけるデルウハ。

よみは結局、残ったハントレスたちを皆殺しにし、「変になりそうっ…でもっ…」「デルウハ」と呼びかける。しかし、デルウハはよみに二の句を告げさせない。

「俺は必ず 不信も不仲もない世界で もう一度 お前にその力を 手に入れさせてみせる」

「お前だってそれが一番いいと思うから …俺を選んでくれたんだろ?」

殺し文句である。しかも実際殺す。

よみの心の弱さにつけこみ、計画的に自分を慕わせていたデルウハは、ついに、自身の悪辣さに気付かれてもなお味方してくれる最強の部下を手に入れたのだ!

よみが確実に自分の味方になる、また、よみはイペリットや他のハントレスを凌ぐ最強のバケモノになる、これは、今後デルウハにとって非常に大きなアドバンテージとなるだろう。

ついでに引用したこの殺し文句、これはデルウハの本心であり、目指すものでもある。だってそうできたら、自分が生き残るのに最も適切な状況なのだから。よみも当然それを理解して、今後デルウハと最悪ながら最強のエモい関係を結んでいくだろう……。

と、思うじゃん。

しかしこの部分、よく見てほしい。

よみはデルウハから顔を背け、黙っている。瞳は虚ろで、どこか遠くを見ている。

最終ページの(最高にうつくしい)見開きで、やっとよみはデルウハの問いに答えるが、「…そうかもね」と歯切れが悪く、瞳は黒々と濁っている。

このシーンは、力を得たのに殺されてしまうよみの絶望を現しているのだろうか?

デルウハに依存し、仲間に手をかけた自身の心の弱さを悔いているのだろうか?

それとも単に作者が映画などで得たエモいシーンを書きたかっただけ?

私にはそうは思えない。

3巻でよみが心の弱さを突かれ、デルウハから「全部忘れさせてやる」と殺し文句を囁かれた際、よみは自らデルウハに縋りついた。今はまだ、優しい世界(背景に映るシーンから、デルウハとハントレスたちと楽しく過ごす世界と推察できる)にいたい、と。

絶望と後悔に満ちたその顔は、それ以外に選択肢がないことを語る。

今回はどうだ。よみは、仲間を虐殺したにも関わらず、「でもっ…」と口にするし、デルウハから顔を背けている。そして、極めつけに、「…そうかもね」

そうかも、ということは、つまり、そうでないかも、ということだ。

「不信も不仲もない世界でもう一度力を手に入れることが、一番いいと思う」かもしれないし、そうでないかもしれないということだ。

だからこそ、私の思う答えはこれである。

少なくとも"この"よみは、すでに優しい世界(≒不信も不仲もない世界)を諦めている

 

そもそも、よみの望みとは何だろう?

自分が誰かに必要とされること、そして、ハントレスの中で最も強く、それを認められることである。

前者は物語の中で明確に示されているし、後者は、要所要所で自分が一番強いことにこだわり、主張し続けることから推察できる。

対して、デルウハの望みとは何か。

毎日パンとサラミが食える立場を守ること、この一点につきる。

デルウハは、バケモノじみた強さを持つハントレスたちの中で、だからこそよみを選んだ。にこでもなく、むつでもなく。この二人には、明確に特別な関係になれるタイミングがあったにもかかわらず、デルウハは容赦なく二人を殺す。

よみはハントレスたちの中で最も強く、戦闘における弱点に乏しい。味方にしておかないと、いつかデルウハの能力を持ってすら太刀打ちできない存在になるからだ。

それがデルウハの合理的判断で、そして、デルウハは合理的によみを自らに心酔させる。

思考や方法こそ歪んでいるものの、デルウハがよみを認め、必要とする気持ちに一片の嘘も迷いもない。

それは、よみにとってはどういうことか。

よみは長らく、求めていた強さによって辛酸をなめさせられてきた。強さを主張すればするほどハントレスたちからは反感を買い、周囲の人間たちからは怯えられてきた。

強くなりたい、しかし、強くなっても必要としてくれる人も、認めてくれる人もいない。世界はとうに滅んでおり、いつかどこかの誰かが…という希望を抱くことすら許されない。

ひとりぼっちだった、よみ。

そんなよみの前に、突然、自分に反感も持たなければ怯えもしない、頭脳も身体能力も並外れて優れた男が現れ、言うわけである。「お前がいて良かった」と。

よみは急激にデルウハに心を許していく。それも当然のこと。

そう、よみの望みは、デルウハが現れた時点で、既に叶っている。

こんな地獄みたいな世界で、しかし、デルウハさえいれば、よみは満ち足りた人生を送ることができるのだ。

まあたまに裏切られるけど、死ねば忘れるし、その死をデルウハは躊躇わないし。

 

ただ、よみには、ハントレスたちへの愛着があった。可能であれば仲良くしたいし、自分を必要として欲しいし、そのうえで自分が一番強いことを認めてほしかった。

だからこそ、1巻で誤ってむつを殺してしまった際、よみは手の震えが止まらないほどの動揺を見せる。会ったばかりのデルウハの言葉に頼って仲直りをしたいと望むほど。

しかし、3巻でデルウハを追い詰めたときのよみは、既にその愛着を失いつつある。

デルウハの言う、真相を信じてもらえない、孤立する、といった言葉をよみは否定できない。そうしていう言葉がこれだ。

殺してやる…

にこはイライラを制御できるようになって いつかは物事を正確に見るようになって いちこは自分で考えるようになって みちは人と関わるようになって そんな私たちを…むつが引っぱって

いつか必ず…気づくのよ あんたの本性に気付いて…殺してやる…‼

これは一見、みんなと一緒にデルウハを殺す未来をよみが望んでいるように見える。

しかし、よく読むと、これは、皆の欠点を認め、今のままのみんなとはデルウハを殺せないということも示している。そうして、皆が欠点を補い、強くなった未来でなければ、デルウハを失いたくないということも。

よみはこの時点ですでに、ハントレスたちよりもデルウハの方に気持ちが寄りつつあるのだ。だから、デルウハを疑うことも傷つけたこともない1時間前に戻ることにした。

優しい世界に。

そして5巻、よみはデルウハが崖から落ちたことにより、1巻と同様に激しく狼狽える。そして失言を繰り返し、ハントレスたちと仲違いをする。

イペリットを倒すことでなんとか許してもらおうとしても、新しく再生能力を身に着けさらに強くなったがために、皆に怯えの目で見られるようになってしまう。

味方がすごく強くなって! 敵を倒して! なんで嫌な顔するわけ⁉

これだから弱い奴は―――……あんたらは!

…嫌いなのよ‼

よみの叫びはあまりにもかなしい。

これを転機に、よみのハントレスたちへの愛着や希望は失われていく。

だからデルウハを選んだのだ。たとえ、ハントレスを、自分を殺す殺人鬼であっても。いや、だからこそ。

デルウハがいれば望みは叶う。しかし、デルウハがいることで、他のハントレスは成長することがない。成長して、自分と親しくし、自分を認め、必要としてくれることがない。

よみは気付く。

優しい世界などほんとうは必要ないことに。強くなればなるほど、自分を認め、必要とし、欲しい言葉をくれるのはデルウハ一人なのである。

この世界で、ほんとうに、たった一人。

っ…変になりそうっ… でもっ…

デルウハ

この後に続く言葉は、

「この記憶と力を忘れず、デルウハと一緒にいたい」

だったのではないだろうか。

だって、こんな怪物になって、自分でも怖いくらいの力をさらけ出しても、デルウハは変わらず隣にいるのだ。

しかし、デルウハの望みはたった一つである。三食食べること。

デルウハにはよみが必要だが、それ以上にハントレスという兵隊全体が、淀みなく戦闘することが必要不可欠なのである。

いくら強いからと言って、よみ一人では、兵力として乏しいのだ。

よみはデルウハを選んだが、デルウハはよみだけを選ばない。よみが強く、仲違いもない未来を希求する。それが合理的に最も生存確率が高い未来だからだ。

当然、よみはそれにも気が付いている。だから顔を背け、瞳を濁らせた。

見たくないのだ。そんな、うつくしい未来は、”優しい世界”は、きっと存在しないだろうと知っているから。しかし、そんな夢物語を、それでも、まだ、否定したくないから。デルウハならやってくれるのではないか?と期待してしまうから。

だから”この”よみは、黙ってデルウハに撃たれた。

しかし、今後のよみはどうなるだろう。

実際のところ、私としては、やはり優しい世界がある未来は存在しないのではないかと思う。

よみは誰かを守るために強くなるという性質に薄く、その強さは、仲間への反感から生まれることが多い。

よみが死に戻りで成長を阻害されている限り、その性質は変わりようがないため、この怪物的強さを、不信も不仲もない状態で得るのは難しいのではと思わざるを得ない。

戦いが激化していく中、不信も不仲も、むしろ広がっていくばかりなのではないか。よみはより強くなるが、ハントレスたちへの愛着を急激に失っていくだろう。

いつか、よみが完全にハントレスたちへの愛着を断ち切ってしまったら、今度は前述したセリフを口に出すに違いない。

そして、こう、哀願することになるのではないだろうか。

「殺さないでくれ」と。

 

実は、この論は、一つだけ穴(もしくは希望)がある。

むつの存在である。

むつには死に戻りがない。むつだけは成長する余地があるということだ。

また、むつはデルウハと似た思考を持つことが明示されており、うまくすれば第二のデルウハとなれる可能性がある。

つまり、よみとむつがエモい百合ップルになれば、よみとデルウハの地獄のセカイ系的関係は解消できる可能性があるわけだ。

まあ個人的には、むつとデルウハだったらデルウハのほうが好きだし、むつと付き合ってもよみが幸せになれるかは微妙なので、別にその展開はなくてもいいかなあと思っているけれども。

ともあれ、いろいろな可能性があるのはいいことだと思う。

ぶっちゃけ、こんな未来予想なんて全部外れてもっとエモい光景が見られる可能性もめっちゃ高いと思っている。

Thisコミュニケーションはまだ5巻しか出ていない新進気鋭のスーパー漫画なのだから。

ということで、皆さん続刊を心待ちにして、地道に売り上げを上げていきましょう。ちなみに私は今のところ本誌は読まない派なので、本誌ではどうこうというネタバレはしないでもらえるとうれしいです。

「アイの歌声を聴かせて」が弊機過ぎた件(ネタバレあり感想)

この記事には、現在公開中の映画「アイの歌声を聴かせて」のネタバレが多数含まれております。また、弊機こと「マーダーボット・ダイアリー」シリーズのネタバレも多少含まれております。未視聴・未読の方はご注意ください。

 

アイの歌声を聴かせて、めちゃ良かったです。非常に良くできたエンターテイメントで、何回見ても飽きが来ない。いやあ、サカサマのパテマから8年も待ったかいがあったってもんです。

丁寧に伏線を張り、きちんと回収する完成度の高さには脱帽。冒頭から詩音の正体は何か?という問題を、しかしあえて注目させ過ぎることなく提示し、徐々に明かしていくミステリ仕立てのストーリーが素晴らしい。

全体的なストーリーだけでなく、細やかな、たとえば、

要所要所で表情を曇らせるごっちゃん⇒後に自身が器用貧乏なことを悩んでいると打ち明けるシーンがある

主人公親子、旅行の話をする⇒物語ラストで親子がちゃんとネズミの国的なところに行っている写真が挟まれる

全世界のAIが詩音になる可能性の提示⇒実際に他のAIが詩音を応援して音楽を流す

みたいな、小さな伏線とその回収も非常に緻密で嫌味なく展開される。上記はほんの一例で、もっとたくさんあるので、それを確認するだけでも楽しい。

吉浦監督がイヴの時間のころから得意としている、AIと人間の、何だかうまくいかないのに、結果的にうまくいってしまう交流も良かった。

子どもだからこそ笑って受け入れているけれども、詩音という存在は冷静に考えたら結構怖い。その怖さを隠すことなく描写しながらも、世界はもっと優しいはずだという、吉浦監督の変わらない価値観は、楽観的ともいえるかもしれないけれども、うつくしいものであると思います。

キャラクターの成長がしっかりと描かれているのも、ジュブナイルSFとしてはポイント高い。典型的なオタク少年だった十真が、好きな女の子を守るために頼りがいのある男になっていくのは、ベタベタお約束だけど、なんだかんだそういうのが一番面白くて好きです。肩を丸めて縮こまっていた序盤から、だんだん背筋が伸びて背中広くなっていく感じは正直トキメキを感じる。

詩音がいなかったら仲良くなりようがなかった5人の少年少女が、手を取り合いかけがえのない親友同士になっていくのも、見ていて気持ちがいい。ぼくだってこんな友達がほしかった。ていうか、みんなほしかったでしょ?

眉村卓先生のジュブナイルSFを思い出させる、古き良き王道お約束シナリオなので、最近良質なジュブナイルないな~というひとに程見て欲しいです。心が洗われるよ。

普段地獄のような作品の海に浸かっている私ですが、たまにこういうストレートな癒しの物語に触れると、打ちのめされて浄化されていい感じになる気がします。

 

とまあこんなね、大絶賛した記事なんて他にいくらでもあるし、たぶん吉浦監督の欠点とかも浮き彫りになった作品ではあると思うんで、その手の記事もいくらでもあると思うんですよ。

欠点に関しては、私もいくつか挙げられるんだけど、私は絶賛したい組なので言わない。監督には気持ちよく次作を作ってほしいし、これ読んでくれた私の周囲の人も、気持ちよく吉浦監督作品を視聴してほしいので。

さて、今回記事にしようと思ったのは、最近話題のSF小説「マーダーボット・ダイアリー」こと「弊機(主人公の一人称)」に面白いほど似た部分があるということである。

パクリとかではない。というか、翻訳もされていないのにパクったのなら逆にすごい。

ちなみにオマージュした作品は楳図かずおの「わたしは真吾」と監督自身も(作品名こそ出さないが)認めているみたいです。未読なので今度読みます。

単純にたまたま描き方が似通ってしまったという話だと思うんだが、何が似ているか、それが何を意味するのか、ちょっと語ってみようと思う。

 

まず、AIである詩音の人間観が、デ●ズニープリンセス映画「ムーンプリンセス」から来ていること。そこから人間同士のコミュニケーションに歌と踊りが入り込む。この映画におけるミュージカルシーンは、正しいミュージカルではなく、ミュージカル映画の真似だからこそ意味を持つ。

ムーンプリンセスに描かれない、複雑な人間の感情は詩音にはわからない。冗談を真に受け、何もかも言葉通りに受け取り、そのために他者の感情を勝手に推し量ったり、傷つけたりする。

また、作中ではっきりとは描かれないが、詩音自身がムーンプリンセス憧れを抱いているのではないか?暗に示されるシーンもある。人間=悟美を理解するためのものだった「ムーンプリンセス」だが、詩音がAIとして成長し、人格を持つ過程に深く食い込んでくるようになっている。

詩音は、何年も前の十真からの命令「悟美を幸せにすること」という命令を確実に実行しようとする。自律型のAIであり、人間を超越した頭脳と身体能力を手にしながら、意図して人間を傷つけることはなかった。比較的序盤に緊急停止装置も外され、なんでもできたにも関わらず、彼女が行うことはムーンプリンセスの歌と踊りで悟美(とついでにその友達)を幸せにすることだけなのである。

「マーダーボット・ダイアリー」を読了した諸君は気が付くであろう。

弊機ことマーダーボットくん(ちゃん?)も、ほぼ同じなのである。

弊機は人工物と有機組織が融合している存在(警備ボット)であるため、完全にAIとは呼べないのだが、人間の役に立つことを目的として作られ、統制モジュールによって思考や行動を管理されている部分は似たようなものである、と考える。どれくらい生体脳があるかとかよくわからないし。

弊機は人間など比にならないほどの頭脳と身体能力を持ち、そのうえ統制モジュールをハッキングして、自らフリーに動ける状態である。しかし彼(女の子かもしれないけど便宜的に)がやっているのはたくさんドラマを見ながら警備のお仕事をがんばることである。

過去にマルウェア攻撃を受けて人間を殺戮してしまったという事件から、彼は自身をマーダーボットと呼ぶが、それは明らかな自虐であり、後悔がある。彼自身は人間の役に立つのが根本的に好き(文句は言うけれども)、自身が好ましく感じる人間の役に立つのはより大好き(表立っては認めないけれども)なのである。

ちなみに新作の「ネットワーク・エフェクト」では弊機と同じ警備ボットの存在も示されるが、やっぱり彼も人間の役に立ちたいと望んでいた。この感覚は弊機だけが特別ではないようである。

彼はたくさんのドラマから人間や人間社会について学び、(自分では決して認めないだろうが)ドラマティックな演出や人間関係に憧れている。

 

簡単にまとめると、詩音も、弊機も、人間の役に立つために生まれ、人間の役に立つのを好み、人間の作った作品から学び、憧れ、成長していく。

彼らは人間に復讐しない。下等な者と断じて殺戮したりもしない。弊機の方は命令と状況如何では人間も殺すけれども、顧客の利益と慎重な判断のもとに行っているし、無闇に殺すのは躊躇っている(殺した方がいいとか殺すとかは心中で言ってるけど)

AIってこういうのだっけ?とあんまりSFたくさん読んでない私なんかは、思うわけである。

マーダーボット・ダイアリー初読の時、弊機ちゃんと彼を簡単に受け入れる人たちを見て、優しい世界過ぎん?と思った。アイの歌声を聴かせても、成長したAIが存在し続けることに対して、一歩間違えば大惨事になるんじゃないか?とホラーみを感じる人のツイートが比較的多かった。

私は一般人なので、AIが人格や感情を得たとき、人間を支配するのではないか?という感覚が結構ある。実際、AIをネタにしたおはなしでは、人間になりたいと願ったり、人間に使われるのは嫌だと反旗を翻したり、が正統なものだと思っていた。

グーグルで検索をかけると、サジェストで支配とか危険とか出てくるので、割と一般的に通用する感覚だと思う。

しかし今回、あまりに優しいAI(とそこに準ずる存在)を見て一つ思ったのが、私のこの感覚って、ロボットの中に人間の脳が入っているんじゃないか?というところに起因するよね、ということ。

自分だったらこの状況は辛いから復讐するとか、自分だったら下等な人間は殺してやるとか、人間になりたいとか人間として認められたいと思うだろうとか。

でも実際、それは違うんじゃないかと、詩音と弊機を見てて思った。彼らの人格や感情は、人間と似てこそいるが、人間のように進化するわけではないのではないか。

だいたい、人間の発達や思考様式だけがこの世の全てではないはずだし、人間が作ったからと言って、必ずしも人間のレプリカではないはずである。

AIは、与えられた命令を遂行するというのと、多様な人格や感情を持ち、自分の考えを持って行動するというのと、それを同時に抱えて成長していくというのは、必ずしも矛盾するものではないのではないか。

弊機であれば、人間を警備する・守るをしながら自分のやりたいことを見つける、だし、詩音であれば、悟美を幸せにするをしながら自分自身の幸せを見つける。

今、技術発展が進み、AIが身近になったことから、AIに対する価値観の変換を迎えているのじゃなかろうか。だからこそ、弊機や詩音は同時期に世に出て、好評を得ているのではないか。

彼らがまるで人間のように考え、人間たちを支配するとか反旗を翻すとかホラーとか考えるのは、あまりにも人間中心主義であり、彼らに対する侮辱なのでは?という気さえする。

そのうち彼らのようなAIものが主流になるんじゃないか、また、いつか、彼らの物語が、優しい妄想の世界ではなく、当然の世界になる時代が、来るのではないか、なんて考えてしまった。

まあ実際のAI開発についてはまるで無知なので、もしなんか考え方が間違っていたら有識者の方教えてください。

それでも、AIの一つの可能性を示す、似たような物語が、海外でも日本でも同時期に発売されているのは、価値観が変わってきているのかなあ、なんだか面白いなあと思うのです。

 

アイの歌声を聴かせて、と、マーダーボット・ダイアリー、他にも演出面で似ているところが結構あるので、その類似性も単純に見てて面白いと思います。

監視カメラをハッキングして理想のデータを送ったりとか、画面の左下にムーンプリンセスがずっと再生されていたりとか、これ弊機で見た!ってやつが多い。ほんとにパクリじゃないのか?(違います)

弊機がアニメ化されたら、こんな風に小気味よい演出を使ってほしい……けど、アニメ化はしないだろうなあ。アニメーションにしたら絶対面白いと思うんだけど。

ここまで読んでくださった方、もし時間があれば両方の作品を見ていただいて、架空の弊機のアニメについてでも語り合いましょう。

また東方をやるしかなくなっている近況報告

先月あたりから鬱々していて、ツキイチくらいで書いていこうと思っていたブログもなにも書くことがない。

本もあまり読めなくなった。物語があまり受け付けない。目が滑る。

今月の読書会は、大好きなイーガンの祈りの海で良かった。祈りの海なら大体昔考え尽くしているので、言えることが色々ある。直交三部作とかだったら怪しかった。

あ、でも友人たちと見たミッドサマーは楽しかったです。

アリアスター氏は、ジョーカーの監督と同じく、なんか本質が見えてしまう作家なんだろうなあと感じる。

ヘレディタリーもそうだけど、奇抜な物語なのに、人間のコミュニケーションで辛かったりもどかしかったりする部分(つまり多くの人から共感できる部分だよね)を見事に貫いてくるので、我々から凄く近い物語のように感じるんだよね。

そういえば、最近鬱々ながらもこの辺のことをぼんやりと考えている。

私は舞城王太郎が大好きなんだけれども、舞城フォロワーのアマチュアが尽く成功していないのを、昔は舞城は日常描写が秀逸だからと思っていたんだが、これは微妙に違ったんだなあと最近思う。

突飛でなんかヤベエ物語が面白くなるかつまらなくなるかの分かれ目って、そのヤバさが死ぬほど面白いのは大前提として、入口として読者が共感できる描写(心情とか、日常動作とか)をいかに入れ込むかなんだろうと思う。

ちょっと頓挫しているけど、最近傑作選を買ったラファティもそんな感じがする。基本イカレているのに、完全に狂っていないというか、先の入口描写がしっかりしていて、いつの間にか物語に入り込める。

このへん、うまいことまとまったらブログに書いてみたいと思います。

 

話がそれた。

なんで鬱々しているかというと、季節の変わり目というのが一つあるが、とにかく夜勤が多いのがだいぶキている気がする。

日勤5連勤をしているよりはだいぶ体は楽なんだが(それも変な話である)、さすがに月半分夜勤になってしまうと、私のつよつよイキリ自律神経もいかれてくるようである。楽な仕事ばかりじゃないしね。

夜勤できる人が増えたらもう少し夜勤を減らしてもらおうかなあと思うんだけど、また年度末にかけて怒涛の退職ラッシュっぽいのでそれも憂鬱である。ついに仲の良かった同期が辞めてしまうのもかなしい。お局様にいじめられてたから仕方ないんだけど…。

新しく入ってくる人もまともなのがあまりおらず、短期間で辞めるのであてにならない。こないだも2週間で辞めた。

普通に考えると、こんな離職者の多い職場は辞めるべきなんだけれども、仕事自体は楽しくてやりたかったことで、似た仕事ができる職場は遠くにしかないから辞めずに職場改善したいという気持ちがどうしてもあるからというのがある。

後、お局様たちともそこそこ仲良くやれているのと、上司とも仲良くしていて高く評価されてもらっているのもある。基本給はともかく、ボーナスは割増されている感が凄いのでそんなにお金に困っていない…。

大体看護師なんて、どこに行っても極悪ブラック底辺の限界に挑戦!みたいな感じでおおむね人権がない職業なのである。

ここから離れようとする人たちは、大学院に行くとか、企業看護師やら訪問看護ステーション立ち上げやら保健師やらへランクアップするんだけれども、なんたってあたくし研究や営業など向いていなさすぎて考えただけで死んでしまいそうなのである。

看護師としては無駄に学歴があるけど、優秀な看護師さんっぽいキャリアの積み方ができない…いろんな意味で…。

かねてから競争が嫌いすぎて受験もままならず、学力はそこそこ高かったものの、受験勉強はほぼセンター対策しかしていない。二次対策は大好きな現代文の先生と大好きな現代文赤本を死ぬほどやってて、過去一楽しい日々だった(それもどうなの)

国語だけ偏差値がバカ高かったが、かといって文系に行くのは親に許されなかったため、なんか看護師になってしまった。医学はそこそこ好きだったので。

今となってみれば、看護師は性に合っていたし、自律神経と体力は強かったので、悪い選択ではなかったと思うのだけど、時々ものすごく沈む時がある。

幸せな人間の不幸探しと言えばそれまでだけれども、これからの人生、何に狂えることもなく消化試合を続けていくのだと思うと、つまんねえなあと思うわけである。

自分の性質的にもうランクアップはなく、管理職にランクアップすればほぼ仕事の生活になるだろうし(それはいやだ…)、かといってもう子供は望めない(望まないし育てられない/虐待する自信すらある)

ただただのんびり老いていくだけである。

せつない。

私だって何かになりたかったんだよな。

でも人間には限界があるので、できないことはできないのですわ。

そんなわけで落ち込んでます。人生的に。

さてそんなときは……。

 

そんなときは、東方をやろう!大天才ZUNの音楽でトリップしようぜ!

ということで、また東方シリーズに嵌っている日々である。

先日やっと星蓮船のEx(本編ノーマル難易度よりやや難しい面)をクリアして、達成感と喜びに満ち溢れていました。

今年東方虹龍洞という新作も出ていて、そちらも楽しく遊ばせてもらっています。

東方と書いてマインドフルネスと読む。マインドフルネスとは、最近心理学業界で流行っている「今ここ」を感じる体験のことですな。ちょっと前は私も心理かじってた仕事だったんでヨガとかやってみましたが、全然マインドフルにならんかった。

しかしシューティングはちがう。シューティングは全身全霊で遊べるジャンル。

そして叫ぶ!悪態をつく!近所迷惑だが気にしない!素晴らしいストレス発散。努力の果てに見える達成感。積み重ねると確実に上手くなる技術。東方シリーズは女の子も可愛い。ウェイ

今は神霊廟地霊殿のExチャレンジしてます。むずかしいです。

書いてたらだんだん元気になってきたので、来月は何かしら面白い論考が書けると良いなあと思います。本読めるようになりたいよーあと紅葉狩り行きたい。

明日(も夜勤)からまたブラック企業戦士がんばります。

才ある人間は真実を見抜く(映画「ジョーカー」考察&解説)

※本記事は映画「ジョーカー」のネタバレを含んでいます。未視聴の方はご注意ください。

 

前回、映画「ジョーカー」の主人公アーサーは、軽度知的障害、あるいは境界性知能ではないかという考察を挙げた。幼いころの虐待から、不安・恐怖を感じると笑ってしまう障害があることも付け加えた。

前回の話では触れなかったが、映画「ジョーカー」には妄想と現実の区別がつかなくなるような場面が存在する。が、私はこれをもってアーサーが妄想性障害や統合失調症と考えてはいない。

なぜなら、アーサーが作中で、妄想と現実がごちゃごちゃになったために、混乱したり、激怒したりする場面がないからである。警察に対して怯えるシーンもないしね。アーサーの「こうだったらいいのにな」という想像を、視聴者たる我々が一緒に楽しんでいるだけ、と考えても辻褄が合うように作られているのが、この映画の巧妙なところなのである。

前回の補足を入れたところで、もし前回の記事を読まれていない方は、そちらから読んでいただけるとありがたいです。アーサーという人間が何故こんなにも生き辛く、困難を抱えているかが少しわかるかもしれない。

この解釈をもってすると、映画「ジョーカー」の冒頭部分、ピエロ営業の雇用主に呼び出されるシーンに、一見しては見えないものが見えてくる。

 

と、この解説をする前に、私が看護師として知的障害者を支援する際に、彼らを理解する方法として考えていることを教えておきたい。

前回の記事でも少し触れたが、私は英語ができない。といっても簡単な単語や文なら理解できる。絵や表情があると理解しやすい。ただ、長文になると読めない。まじでわからない。難しい単語が増えたり、文型が複雑になるとその時点で放り投げてしまう。パニックだ。

若干難聴気味でもあるので、当然リスニングも壊滅的だ。言葉の情報がわからないのに、音の情報なぞ理解できるわけもない。ヘッドホンから英語が流れてくると今でも恐怖に打ち震える。

他の教科は比較的できたほうだったので、高校生の頃は劣等感や不安感に苛まれて、とてもつらかった。いや、今でもつらい。英語が怖すぎて海外に行きたいのに行けず、30歳を過ぎてしまった(そしてコロナで行けなくなった。がーん)

よく、英語が苦手でもジェスチャーや簡単な単語で乗り切れるよ、と言われる。

無理だ。

なぜなら、みっともないからだ。私の中で、そのみっともなさがどうしても、どうしても許さないからだ。

馬鹿の癖に何を言ってるんだと笑う人もいるだろう。その通りだ。

でも、それは私の性格であり、性分で、これはもう受け入れざるを得ない事実だ。泣くほど悔しいけど、私は英語を得意になることはできないし、苦手だからと笑って積極的に非言語コミュニケーションをとることはできない。

だから英語はできるだけ避けるようにしてきた。英会話などもってのほかである。怖いことはしたくない。

私は、これが、普段の生活、普通の会話で起こっているのが知的障害の方の世界なのだと思うようにしている。これが正しい理解かどうかはわからない。そもそも私の場合は多少プライドが高すぎるきらいがあるが……。

まあそれはともかく。こう考えると、彼らの不安感や辛さ、大変さがなんとなくわかるような気がするので、そうしている。

長い文章が理解できない、内容や単語が複雑になるとパニックになってしまう、たくさんの情報があるとキャパオーバーでなにもわからなくなってしまう。これが続いた結果、わからない、パニック、怖いから、コミュニケーションを避けるようになる。

皆さんも、もし英語が苦手なら、想像してほしい。英語が得意な人は、数学が周りに満ち満ちているような状況とか想像してほしい。

滅茶苦茶頭がよくてわからないって人は、グレッグ・イーガンの「シルトの梯子」あたりを読んでいただいて、その内容が世界に満ちていると想像してくれ。

そしてそれを、周りの人は難なく理解し、何故理解できないのだと折々に問いかけてくる。あなたはそれに耐えられるだろうか?

知的障害と診断がついていれば、比較的支援してくれる機関も多いのだが、軽度知的障害や境界性知能の方は見つからずにいることが多い。普通学級に入れられてしまい、劣等生として扱われ、鬱病などの二次障害を抱えてはじめてわかるというケースが大変多いのだ。

長くなったが、一旦これを念頭に置いて私の考察あるいは解説を聞いてほしい。

 

さて、アーサーが、雇用主に呼び出されるシーンを思い出してほしい。突然の呼び出しを受け、アーサーはまず、こう言われる。

「コメディアンになれたか?」そしてこう続ける。「君はいいやつだ。不気味だというやつもいるが」ここまで前置きをして、「それはともかくまたしくじったな」と告げる。そうして、看板盗んだことを責めるのだ。

アーサーの視点から見た我々には、雇用主に状況を理解してもらえない、絶望的で辛いシーンに映る。こんなにも辛い思いをしたのに、温情を掛けてくれない社会の冷たさ!そんな風に見える。

しかし、これはアーサーから見た一方的な視点だ。

雇用主の言うことをよく聞いてみよう。

「楽器屋がカンカンだ。君は仕事場から消え、看板も返していない」

おそらく、雇用主は、仕事中に逃亡し、看板を奪ったとしか聞いていない。

我々は直前のシーンで、「襲われたって?」と慰められるシーンを見ているから、アーサーの状況は伝わっているはず、と思い込む。しかしこのシーンは、銃をもらうところまで含めて明らかにヘンなシーンなのだ。

まあ、アーサーが銃をもらったかどうかは、解釈の余地があるのでここでは触れない。

ただ、このシーンの前にアーサーが看板を盗まれてリンチされたことを誰かに話したシーンが一つもないこと、そもそもアーサーと他のピエロたちがまともにコミュニケーションをとっているシーンがないこと(優しくしてくれたのは、あの小人症の男性だけ)を考えると、アーサーがあの大男のピエロに慰められるというのは妙な話である。

加えて、母の看護の際に傍で慰めてくれた恋人がまるっと妄想であったこと(劇中で妄想が妄想と示されるのはこの恋人の一件のみである)から考えると、このシーンはアーサーの妄想、あるいは、こうだったら楽しいのにいう想像と考える方が自然だ。

アーサーの状況を理解していない雇用主がアーサーを叱るのは当たり前だろう。

雇用主に、アーサーはどう映るだろう。仕事を台無しにしたくせにしらを切る、不届きな奴である。

では、アーサーは何故状況を説明しなかったのか?

伝わっていなかったのなら、説明すればいいだけだ。悪い子どもたちにからかわれた挙句看板を取られ、自身も暴力を受けて伸びていた。とてもつらい出来事で、仕事に戻ることができなかった。彼はただ、そう説明すればよかったはずだ。

しかしアーサーは、「盗まれたんです。聞いてない?」としか言わない。なぜか。

解答は一つしかない。

無理だった。

彼には、説明するだけの能力がなかった。そして、自分のおかれている現状を理解することもできず、雇用主が何を求めているのかわからない。とても辛いが、辛いと認識してそれを表現する能力がない。ただ、自分は怒られている。馬鹿にされているかもしれない。それはわかる。というよりむしろ敏感に察知する。

彼は、相手の雰囲気や態度は比較的読める人間だ。笑いの発作が起こった時、これはマズイと理解している(口を押えたり、カードを渡したり)。マレーの番組で自分が取り上げられた時も、瞬時に自分は馬鹿にされているのだと気づいている。

ただ、相手の言葉の内容を理解し、意図を読み取ることはできない。これは前回の記事で詳しく書いているので参照してほしい。

では、つらい、苦しいと泣き喚けば良いのでは。

無理だ。

彼は自己愛が強い。これは監督も述べている。日常ではほとんど喋らないくせ、妄想あるいは想像のなかではとにかくカッコつけてキメている。

母にさえ、カウンセラーにさえ、彼は辛いとか怖いとか、言うことができないのだ。

長い文章が理解できない、内容や単語が複雑になるとパニックになってしまう、たくさんの情報があるとキャパオーバーでなにもわからなくなってしまう。これが続いた結果、わからない、パニック、怖いから、コミュニケーションを避けるようになる。

 

他者とコミュニケーションが取れなくなった結果、誰にも理解してもらえない。寂しさを妄想/想像で埋めるしかない。

これが彼の世界だ。

そして、雇用主は、たぶん、善良な人間だ。

アーサーの状況がわかれば、力になってくれたはずなのだ。

重ねて言うが、雇用主は、口こそ悪いものの、こんな状況においてもアーサーのコメディアンという夢を馬鹿にしないし、「君はいいやつだ」と言っている。そのうえ、「力になりたいんだ」とまで言う。アーサーは聞いちゃいないのだが。

さらに言うと、こんなことがあった後もアーサーを雇い続け、小児病棟の仕事を任せている。不気味だと周囲からクレームがついている、へまばかりやってにやにやしている男をだ。少なくともこの時点では、アーサーにわずかなりとも好意的な感情を向け、ほんとうに力になってやろうと思っていたはずなのだ。

アーサーは、しかし、その好意も助力も受けることができなかった。雇用主の意図も言葉も理解ができなかったから。自分の気持ちが表現できなかったから。

このシーンは、アーサーが知的障害であったことから、説明もできず、相手の言い分も理解できず、それ故に、事情さえわかれば優しくしてくれるかもしれなかった相手に気味悪く思われてしまう、という、とても切ないシーンだったことがわかる。

 

私は、ここまで考えた後、自分が見聞きした親子の状況が、これにほとんどそっくりだったことを思い出した。

その子は、実は境界性知能であったのだが、一見わからなかったため、普通学級に通っていた。しかしどうもいじめを受けている様子だった。しかし、親がいくら学校のことを聞いても、子は答えない。ぼんやりと笑っているようなありさまだったため、親はなんだか気味の悪い、変な子だと思っていた。

しかし次第に引きこもるようになってしまい、児童精神科に連れていった結果、知的障害と抑うつが診断される。実際は子は大変つらい思いを抱えていたが、それを説明したり、表現したりする術がなかったのだ。

個人情報を漏らすわけにはいかないので、こんなふんわりした情報しか書けないのだが、それでもアーサーと雇用主の状況によく似てはいないだろうか。

折々、思うのだが、知的障害者の障害とは、知的に問題があることではない。そんなことよりも、他者の無理解や、劣等生というレッテル、コミュニケーションの不全などのほうが、よっぽど彼の障害になり得るのである。

 

監督である、トッド・フィリップスはドキュメンタリー作家としても働いていたのだそうだが、その時に知的障害の取材でもしたのだろうか?

その取材が入念だったから、私が看護師として何年も見、関わって考えてきた見解と一致するのだろうか。

それとも、こんなのは私の思い込みで、偶然にも真実を映し出すおはなしを作ってしまったのだろうか。

きっと、そうではないのだろう。

取材はあったのかもしれない。しかし優れたクリエイターというのは、得てして真実が見えてしまうものだ。と私は思う。

それは、細かい様々なシーンに現れている。

アーサーが精神科に入院させられた時、ドアの窓で頭をゴンゴンと叩く一瞬のシーン。あの一瞬のシーンで、アーサーの自己愛と寂しさを見事に表現している。というのは、何年も精神科にいた私だからわかる。

あれは自罰行為でも、自傷行為でもない。自己愛が強く、自分を見て欲しい、認めて欲しい、アピール行動がやめられない患者の切ない行動だ。彼らはわざわざ医療者から見えるところに頭を打ち付ける。見えるように傷を作り、見せてくる。

もう一つ。エレベーターの中で、暴れる患者の傍に医療スタッフと警察官がスンッとした顔で待機している。これが精神科に行きますよという表現だ。これまた素晴らしい観察眼だと思った。

暴れる患者は典型的な精神疾患の表現だが、病棟の中ではなく、外から搬送中であることがまず素晴らしい。病棟内では暴れる患者は周囲から隔離されるので、面会客には見えない。見えるとしたら搬送中の状態なのだ。警察官が逮捕して連れてくるのも、割とあるあるである。在職中は(患者が)お世話になりました。

付き添う医療スタッフが、スンッとして、患者に何かを語りかけたりしないのも、良く見えていると思う。私もあの状況であれば、スンッとしていると思う。

まず、あんな状態になった患者にはコミュニケーションが通じないというのが一つ、そして、周囲を不安にさせないよう、何かあったら対応できますよ大丈夫ですよアピールが一つ、あとは、ああ…この患者を今から面倒見るんだ、大変だ…という疲労感が一つ。

この二つのシーンは、よく見ていなければわからない、普通だったら見逃しがちな景色だ。数年働いた私がやっと思いつくアイデアだ。

まあ、必ずしも監督のアイデアとは限らない。医療関係者から助言があったのかもしれない、とも思う。けれども、様々なアイデアの中で、これを選び取ったのは、やはり慧眼と言わざるを得ない。

こんなにも真実が見えてしまう目で、作った映画に、偶然というのは考えづらい。考えれば考えるほど、良く練り込まれた、現実を映す鏡のような映画だ。

私は積極的に映画を見る方ではないのだが、この監督の映画は時間はかかれどちゃんと見たいなと思う。

とは言っても、ジョーカー2を出すとかいう話もあって、それは若干心配ではあるんだけど……。そのうちまた凄いものが見られるといいな。

それまでは、自分も目を養っておかなきゃなあ。凡人なのでなんとも難しいけれど、真実めいた何かが、自分に見えたら人生少し満ち足りたものになりやしないかと、時々思います。