かみむらさんの独り言

面白いことを探して生きる三十路越え不良看護師。主に読書感想や批評を書いています。たまに映画やゲームも扱っています。SFが好き。

うつくしすぎる美ケ原の話をする(長野県旅行レポート)

某疫病もそろそろ落ち着いてきて、旅行を解禁したという方も多いと思う。

実際には落ち着いたというには微妙なところだけれども、このへんで落としどころを考えるレベルにはなってきているとは思う。まだまだ対策はしつつ、高齢者や持病持ちの方は引き続き警戒をしてほしいところ。

まあそんなことはともかく。

5月の終わりに夫と長野旅行に行ってきたのだが、美ヶ原ハイキングがあまりにも良く、1か月たった今でも忘れられないので、いっちょレポートでも書いてみようかなと思う。

 

美ケ原を散歩したいというのは、初めて行ったビーナスラインに魅せられた10年前から思っていた。

ただ、山の天気は変わりやすいというのはマジで、美ケ原付近に行くと雨が降ったり、雷が鳴り始めたりで、ろくに散策できないまま年数だけが経って行った。

特に夏。夏の長野は怖い。天気がすぐに変わる。それが楽しくもあるけれども、私が見たいのは晴れ渡ってアルプスがすべて見渡せるうつくしい風景の美ケ原なのである。

秋も良いが、緑が多いほうがいい。秋空と雲海、紅葉もかなり美しいのだが、ちょっと違う。

冬になると雪が降ってしまって、そもそも普通の装備だとたどり着けない。それはそれで絶景らしいのだが、当方雪国生まれで雪には嫌な思い出しかなく、まだそこは乗り越えられていないので行かない。

さて、そこで今回、新緑を狙った。地上は初夏だが、山の上は涼しく、萌え出した緑で染まっている。ついでに、まだアルプスのほうは雪が残っている。完璧な季節である。空気の澄んだ朝から散策できたら絶対に最高に違いない。

問題は天気である。晴れたら絶対に美しい。しかし、曇ったらたぶん何も見えない。山の上でガスに飲まれて「うっひょ~何も見えねえ!」と、けらけら笑いながら嘆いた経験がある山好きの方はさぞ多かろうと思う。

天気ばかりはギャンブルだ。当日までわからない。しかし悲しいかな、人間のサガ、天気予報を毎日睨みつける生活が続くのだった。

晴れろ~晴れろ~

そんな私の祈りが通じたのかは知らないが、突然天気予報が晴れに変わった。3日目は微妙だが、少なくとも1,2日目は快晴で、気温も爆上がり猛暑ということであった。

やったー

というわけで、私の長野旅行は最高の天気で幕を開けたのである。

そして天気ばかり気にしていた私は、大切なことを忘れていた。特急の指定席を取っていなかった。

東京から長野に向かう特急あずさorかいじは、数年前から自由席がなくなり、座席未指定券というクソ……あ、いや、ちょっと初心者(何の?)に優しくない仕様に変わっており、購入のない指定席に座るか、誰も座っていない座席をジプシーするか(これはあまりやらない方が良いらしい)しかなくなってしまった。

やってしまった。平日ならまだいい。大変だ、今日は土曜日だ。しかも天気がいい。すこぶる良い。

当然、席が空いているはずもなく、私と夫はデッキで地べたリアンをしながら2時間以上の移動を耐えるしかなかったのである。

誰だ自由席やめようって言った奴。これを読んでいるみなさんもお気をつけあそばせ。

乗車中はやり場のない怒りと憎しみを抱えていたが、快晴の松本駅が思ったよりきれいだったので、早々に怒りとかは忘れた。忘れたほうがいい。

レンタカーを借りて、その日は松本~安曇野周辺をドライブし、わさび農園と廃線ウォーキングでもう夏?ってくらいの鮮やかな緑を堪能。夜は松本駅近くで地酒を飲んで早々に就寝。

そして朝6時前に起床し、ホテルの朝食をもぐもぐする。焼きサバとパンが美味かった。どんな組み合わせや。

そして美ケ原高原美術館まで約1時間ほど車を走らせると……。

天国かな??無加工ですが、実物はもっともっと綺麗。

見えている山は多分北アルプス。いわゆる飛騨山脈のあたり。まさに私の見たかったアルプスが見渡せる絶景。思わず見入ってしまう。

ここは、美術館から15分ほど木道を上った先にある、牛伏山の頂上。下から見ると牛が伏せている形に見えるためにそう名付けられた模様。ちなみに木道自体もめっちゃ綺麗。

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基本的に道は整備されていて、急な登り等もないので、スニーカーでも問題ない感じ。ただ、所々岩がごつごつしていて歩きづらいところがあるので、登山靴だと快適に歩けそう。我々は一応登山靴で行きました。

さて、着いて早々目的は達成されてしまったのだが、私にはひそかにもう一つ目的があった。

牛である。

美ケ原高原は牧場の役割も担っていて、だいたい5月から10月にかけて、下界から避暑目的で牛が連れて来られる。その数なんと300頭ほどとのこと。

何を隠そうこの私、牛が大好きなのである。

まだ記憶もほとんどない幼少期に、牛の絵でなんかの賞を取っていたりする。いやなんも関係ないけど。

牛はのんびりしていて良い。生まれ変わったら牛になりたい。

ちなみに長野は高ボッチ高原長門牧場で牛を愛でた。さて美ケ原の牛はどんなもんだろう。遠くに豆粒ほど見えるのが牛かな?

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ということで、ここから約30分ほど下っていくと……。

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牛だー!!

ブォォーと唸り声を上げて近寄ってきてくれたのは、黒毛和牛でした。ぶっちゃけちょっと怖い。写真だとわからないけど、よだれがスゴイし、走ると速い。全然のんびりしてなかった。食われそうだった。草食だけど。

怖かったので、終始夫に「いつか我々の食卓に並ぶかもしれないから優しくしてやろう」と言い続けてた。謎の食物連鎖頂点のプライド。

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ホルスタインは近くに来てくれなかったけど、遠くにちゃんといました。のんびりしてた。カワイイ。

しばらく牛を眺めながらゆっくりしつつ、ここからはまた緩い登り。若干道がガタついているので、登山靴で良かったねと言いつつ登る。牛が遠くなる。また会おう牛。

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30分弱くらいのんびり登ると、山頂である王ヶ頭に着く。相変わらず北アルプスが綺麗である。下に見える町は松本市。松本だったら移住していいな……と常々思っている。

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王ヶ頭にはホテルと、長野放送の送電塔がある。赤い屋根がホテル。山の上のホテルだが、とてもキレイ。

景観を損ねるという意見もあるみたいだが、個人的にはカッコ良くて好き。

まだ昼には早かったので、ここから20分ほど歩いて王ヶ鼻に向かう。軽いアップダウン。そしてここらへんになってやっと新緑の木が出てくる。ほんのちょっと、森林浴である。

美ケ原は昔から牧場利用のために、人工的に草原ばかりにしているので、木がない。今までの写真もなかったでしょ。人間に征服されたお山なんだなあ……。

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さて、王ヶ鼻。めっちゃ綺麗。

ここまで全然体力も使わずに来られたので、なんというか、人類の開発に感謝という感じしかない。

美ケ原は一応日本百名山の一つで、下から登ることもできるらしい。そのうち登ってみたいね。

ここはかなり開けた場所で、北、中央、南アルプス八ヶ岳が全部見えます。なんと、日本百名山の半分近く、41座が見られるとのこと。昔登った蓼科山も見えて、なんだか感無量。

天気がいいと富士山まで見える。見えた。写真だと写らないかな~と思いつつ、拡大するとうっすら◯したところに見えます。

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王ヶ鼻でぼうっとしているとだんだんお腹が減ってきたので、王ヶ頭ホテルへ引き返すことに。

ホテルでは私がアラビアータ、夫がビーフシチューを注文。山の上の食事なので全く期待していなかったが、めちゃめちゃ美味しかった。美味しすぎて写真を撮り忘れた。

ホテル内に売店もあって、お土産品も買える。ただ、トイレは山らしく有料。山の上では水は貴重品なのだ。

ちなみにこの王ヶ頭ホテル、人気で全然予約が取れない。今回の旅行も宿泊を考えたが、1ヵ月前では取れなかった。まあ、旅行し始める人が多いし、当然と言えば当然。

ここに泊まってご来光を見るのも楽しそう。冬はスノーシュー体験などもあるようで、いつか泊まってみたい。

そんなことを考えながらソフトクリームぺろぺろ。これまたちゃんとした牧場のソフトクリームでメッチャ美味い。写真はあるけど夫ががっつり映ってるので載せられない。

そんなわけで、美ヶ原散策も終盤である。

帰りはアルプス探訪ルートという、例によって北、中央、南アルプスを見渡しながら歩けるというルートで戻ってみた。

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ちょっと危ない。比較的風もある。滑り落ちたら死ぬ。でも、歩道はかなりしっかりしているので、気を付けて歩いていたら落ちないので大丈夫。

昼過ぎになると人も増えてきて、すれ違う時だけ少し怖い。犬を連れた人も多かった。どの犬もはしゃいでいてカワイイ。

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この景色の中を歩いているだけでたまらん。加えて、絶壁の崖になっているところや、岩場もあって飽きない。

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崖は先端まで行けるようになっていて、ちょっと覗いたらメッチャ怖かった。注意喚起の看板もあるくらいだから、ほんとに危険なんだと思う。

そんな感じで1時間ほどのんびり散策すると、牛がいたところまで戻れる。

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牛の数がちょっと増えていた。牛もやっぱり朝は寝ているということなのか、それとも下界から新たな牛が連れてこられたのか。

牛も多いが人も多い。牛がいるところまでは車で入れるので、おしゃれ着でデート中のひとも多かった。牛を見てのんびり散歩して帰るのもまた良い。

しかし我々は美術館に車を置いているので、微妙に登りが待っている。

登山ほどの疲れはないものの、そこそこ歩き疲れている。私は比較的元気だったが、暑さもあり、夫がばてていた。

夫は昔宮城の滝で熱中症になったことがあるので、水分を取らせながらゆっくり歩く。こういうのを見ると看護師で日夜問わず走り回っている自分は割とつよい。

と思ったけど、強すぎる日差しでアレルギーを起こし、気がついたら手の甲が湿疹だらけだった。よわい。

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30分ほど登って、牛伏山に舞い戻り、絶景と牛に別れを告げる。後は下りの木道なのでとんとんと下り、これにて美ヶ原高原ハイキングは終了。

散策を始めたのが8時過ぎ、駐車場に帰ってきたのが14時くらい、ということで、計6時間くらいの散策になった。とはいっても、牛や景色を眺めたり、ご飯を食べていたりするので、実際に歩いていたのは4時間ちょっとだったと思う。

いやー天気が良かったのもあり、とにかくうつくしすぎて圧倒されるばかりだった。

残雪が眩いアルプスの山々、広大な草原でのどかに草を食む牛たち、林立する送電塔の異様な白光り、眼下に広がる新緑の山々と静かな街並み。どれを取っても、下界では絶対に見られない光景で、最高が積み重なって脳がバグりそう。

ここの景色を覚えちゃったら、自宅近くの山の景色とかが霞んでしまいそう。しばらくは絶対比べてしまうな……。目が肥えてしまった。

この日はビーナスラインを下り、蓼科のお気に入り旅館「たてしな薫風」に泊まる。歩き疲れた体に温泉がとても気持ち良かったし、いつもより多くご飯が食べられた(それでも少し夫に食べてもらったけど……)

ここももう10年近く通っているけれども、サービスや食事など色々移り変わりがあって楽しい。一度料理長が事故って夕食がなくなった事件があって大変だったけど、全額無料になってそれはそれで神サービスだったな~。

3日目は、ゆっくり宿を出て、旧中山道付近をドライブして、お気に入りの五一わいんを購入してから帰路に就く。ここはここでたいへん綺麗だったのだが、前述したとおり目に美ヶ原の風景が憑りついているので、美ヶ原の話ばかりしていた気がする。

まだ今年は半分しか経っていないけれども、間違いなく今年行って良かったところNo.1である。

ちなみにNo.1が更新されたらまたブログにレポート載せる予定。

拮抗する可能性があるのは、8月に予定している燧ケ岳登山かな~。行ったことのあるフォロワーさんが素晴らしい景色と絶賛していたので、今からとても楽しみです。

劉慈欣短編集「円」全作レビュー完結編(カオスの蝶、円円のシャボン玉、二〇一八年四月一日、人生、円)

やっと完結編である。

正直、前回の「栄光と夢」解説で終わりでよくない?という気はしているのだけれども、せっかくここまできたので、全作語っておきたい。

ということで、今回の残った5編のレビューですっきり〆たいと思う。

 

さて、さっそく、今まで避けてきた「カオスの蝶」に行こう。結局現実は落ち着いていないけれども、やはり自分の中に熱があるうちに、歯を食いしばって語るしかない。

こんなほぼ見られないようなブログですけど、頑張っています。

「カオスの蝶」はバタフライ効果を利用して、半人工的に悪天候を引き起こし、空爆を止めるために奔走する父親のおはなしだ。

このおはなしは、コソボ紛争真っ只中で、戦火にあえぐユーゴスラビアをモデルに書かれたという。この紛争時、私は幼く何も覚えていない。ミリタリーに詳しくもないので、現実との関係については何も語らないでおく。

主人公アレクサンドルは、悪天候を引き起こすために計算された敏感点を探すため、妻と娘を置いて国を出ることとなる。アフリカ、琉球、果ては南極まで、夢と希望を抱いて果敢に出かけていく。

はじめは計算通り天候が変わるのだが、結局アメリカの邪魔が入り、スパコンが手に入らなくなった結果、この試みは失敗。守りたかった家族は死に、アレクサンドルも自殺してしまう……というのがあらすじだ。

劉慈欣らしく、相変わらず救いがない。

救いがない上に、突き刺すような辛いフレーズが執拗に繰り返される。

妻は「あなたは救世主じゃなかったのね」と繰り返し、最愛の娘は、父親が必死に曇天を引き起こそうとしているにも関わらず、最期まで「お天気の日が好き」と繰り返す。絶望の繰り返しである。

アレクサンドルの、”苦難の渦中にある祖国のため、わたしはいま、蝶の翅を羽ばたかせる……”という印象的なフレーズも、たびたび繰り返される。実際に天候が変わることで、一時は魔法の詠唱のようなイメージを抱いた人もいるはずだ。

しかし、最後の最後、全てを失ったアレクサンドルが自殺するシーンで唱えられることによって、その魔術的な意味合いは消し飛んでしまう。やはり、絶望の繰り返しなのである。

物語の冒頭とラストシーン手前で、カオス理論の象徴する”釘が抜ければ蹄鉄が落ちる……”という詩が繰り返されるのも、なんとも皮肉だ。戦争に抗うために利用したカオス理論だったが、結局徒労に終わり、”負けりゃお国も何もない”という文とともに、ユーゴスラビア連邦は消えてしまうのだ。

フレーズを繰り返すこと自体は、内容を強調したり、イメージの変化を楽しむという、ありふれたテクニックだ。しかし、このあまりに執拗なフレーズの繰り返しには、やはりそれ以上の意味があると思う。

戦争というもの自体を象徴し、皮肉っているのだろうか。悲しみが繰り返される人類の歴史を物語っているのだろうか。それとも、マザーグースのような、楽しくコミカルだが何となく恐ろしい効果を狙っているのだろうか。色々な解釈ができる。

非常に完成度が高く、カオス理論の使い方の面白さや、シーンやフレーズのせつなさが心に残る作品であった。まあ今はあまり読みたくないけれども……(何回も読んで結構ダメージ)

ところで、このおはなしのオチは、NATOの祝勝パーティーで、アメリカ軍人ホワイト中佐がかのウェズリー・クラークに対し、気象予報が外れ、空軍気象情報システムの予算割り当てを問題視され、どうも大事になりそうだ……と打ち明けるシーンで終わる。

このオチ、長らく意味が分からなかったのだけれども、よくよく読んでみたら、軍人が気象センターの中佐と恋仲にあり、予算を使って遊んでいたのがバレちゃうんだワ!ということだったのね、ということがわかった。

つまり、戦争の犠牲とかを全く視野に入れず、醜聞のみに終始する人間の愚かさが、ラストの余韻を突如ぶち壊すつくりになっているのだ。

同じ戦争の元で、あまりに悲劇的なアレクサンドルと、喜劇的なホワイト中佐という対比。そして、有能な科学者は理解されずに死に、不倫してまともに予算も使えない軍人が楽しく生きる対比。まあ罰は受けるんだろうけどさ……。

「地火」とも通ずるこの構図、しかしより悪趣味だ。どうも劉慈欣という人は、こういうことをしないと気が済まないらしい。流石である。

……まあでもこういうところが好きなんだよなあ。

 

さて、次に、この短編集の中で、異様なほどに爽やかでうつくしい「円円のシャボン玉」に移ろう。

初めて読んだ時は、こ……これはなんだ……?劉慈欣なのか……??と困惑した。今まで読んでいた短編はなんだったのかというくらいのサクセスストーリーである。

おはなしは簡単だ。シャボン玉がだいすきな女の子、科学を極めた先にでっかいなかなか消えないシャボン玉を作って、パパの愛する街を干魃から救いましたとさ。めでたし、めでたし。

まじで?と思ってしまう。

俺たちの大好きな劉慈欣の人間愚か節はどこへ行ってしまったのか。しかもコレ、なんか日本では人気の様子。なんだ、なんかつらい。

ということで、一度読んで以来、特にページも開いていなかった。

しかし今回、レビューを書くぞと息巻いて読み込むと、ああこれは世代交代に対する希望のおはなしなのだなあ……と納得。

だからこれは、ふわふわと地に足着かないおはなしなのだ。もはや作者が理解できない新世代の子どもたちの成功を夢見るおとぎ話。

実際、読書会で主人公の女の子に人格がないのでは、と話したら、「いや、最近の子、こういう子いるよ。むしろリアル」と言われた。

ここで思い出すのは、三体3の艾AA(あいえーえーと読む。未来過ぎてふつうのひとは読めない)である。

主人公程心が人工冬眠の先で出会った艾AA”一瞬も止まらずに飛び回る活発な小鳥のよう”と称される大学院生で、非常に頭が良く行動的で、お金をバンバン稼ぎ、程心に的確なアドバイスをし、最後まで手助けしてくれる。

非常に魅力的なキャラクターだが、ドラえもん的な都合の良さがあるために、冷静になると、ちょっと出来る人間過ぎるんじゃないの?という気持ちにはなる。

しかし、「円円のシャボン玉」の主人公円円は艾AAとほとんど同じ人格、つまり新世代の人間だ。頭が良く、行動的で、金をバンバン稼ぎ、そして、旧時代の人間に優しい。

このおはなしでは、パパはわかりやすい旧時代の人間として描かれている。古い街にこだわり、正しい人格にこだわり、人類への貢献を目標とし、苦労し、苦悩する。

対して、円円はシャボン玉という一見ただのエンタテイメントの追求を行っているが、それがトントン拍子に上手くいった結果、自己実現も人類の進歩も達成している。苦悩がなければ、過去にも特定の価値観にもこだわらない。自由で、うつくしい。

ただ彼女たちは、旧世代の人間には理解しがたい。でもそれはある意味では当たり前のことだ。私ももう10代の子のことはわからない。だから一見人格は無いように見える。でも、たぶん、あるのだ。

劉慈欣は、このような新世代の人間が、旧世代と手を取り合って世界を良くしていくことを、ひとつの希望として書いている。そして、現在ですら変わり始めている新しい世代の人格を反映し、彼らへのエールとして、この「円円のシャボン玉」を書いたのだろう。

というか、よく考えたら三体シリーズも、ずっとそういうことを描いていた。人類へ飽くなき絶望を抱く劉慈欣だからこそ、この希望は異様なほどに明るく、神々しく描かれている。

いやー老害にはなりたくないもんですね。いつまでも新しいものを受け入れていたい。

でも、人間は愚かエッセンスを絞り続ける劉慈欣もいて欲しいので、もう先生めっちゃ頑張ってください。

 

「二〇一八年四月一日」は男性ファッション誌に十年後を描くという企画で描かれた作品らしい。つまり、2009年時に想像した2018年の未来ということである。

主人公は、会社の金を横領して改延を受けようとしているが、愛する彼女のために迷っている。しかし、同僚のドッキリ企画でIT共和国の反乱を見せられ、いつまでこれがジョークとして通用するのか?と悩んだ結果、受けることにする。と、彼女の方が人生疲れたし冬眠するからバイバイとやられ、ヤッター俺は生きるぜ、というのがおはなし。

短い作品だが、IT共和国という仮想国家や、改延という三百歳まで寿命を延ばす技術、人工冬眠の実用化などSF的に面白いエッセンスが詰まっている。

それにしても、やっぱりいつもの劉慈欣である。安心、安定の人間は愚か節。

しかし、その中で、繰り返されるフレーズが一つある。

それが、「時代はいつだって、だんだんよくなっていく」である。

劉慈欣は、何度も書いているが、人間という存在への絶望感が強い。人間は愚かで、取るに足りない。

しかし、そんな人間の科学や知性に関して語るとき、彼は絶大な信頼、そしてありあまる希望と祈りを乗せ続ける。

「郷村教師」では特にそれが顕著に表れているのだが、この作品では、ダイレクトに言葉にしている。繰り返して協調までしちゃっている。

それはたぶん、ふだん本を読まないような層にも伝えたいという気持ちの表れなんじゃないかなあと思う。こんなに人間は愚かだけど、それでも技術の発展には、意味があるぞ……と。

ちなみに個人的には、このフレーズよりも、凡人たる主人公が「それでもぼくは、なにかを残したい」と言う方がぐさっときた。私も凡人の一人として頑張らねば……。

 

「人生」もとても短いおはなし。

母親の記憶を宿した胎児が、母と博士に対して自らは経験していない辛い記憶を思い出して、世界を怖がり生まれたくないとごねる。そして、最後は自ら自殺してしまう。その後、月日は流れ、母親は新たな子どもを幸せそうに抱いている。おしまいである。

胎児が自殺する、というアイディアが衝撃的だが、私はそれより、胎児にあれほどお前の人生は辛い記憶ばかりで人間は怖い世界は怖いと言われた母親が、呑気に第2子を作って幸せそうにしていることに衝撃を受けた。

胎児が無垢であるために生まれることができる、そして、母親が無垢であるために、生むことができる。知識や経験が生存を妨げ、無垢の強さが勝つ。これはそういうおはなしである。

無垢は愚かとも言い換えられる。愚かさは悲劇を生むだけでなく、生存に有用だということも、劉慈欣は描いている。

数分で読めてしまうが、後味の良いような悪いような、何とも言えない気分にさせられる、非常に好きな短編です。いやーほんとうに引き出しが多いよな。

予断だが、読書会でこのおはなしをネタにしたとき、似たテーマの作品として、イーガンの「ユージーン」を挙げたら、イーガンは人の心が無いと盛り上がって面白かった。

「人生」と同じく、生まれる前の自殺が描かれる作品なのだが、全く違ったストーリー、価値観が描かれて面白いので、良ければぜひ読んでください。「TAP」という短編集に収録されています。

 

ついに最後。表題作であり、評価も高い「円」。

しかしこの短編集の中で一番感想を述べるところがない!なぜなら、奇想天外な発想でびっくり!ワハハ!というのがおはなしの肝だからである。あと三体で見た。

あらすじとしては、始皇帝暗殺に失敗した荊軻が学者として召し迎えられ、円周率の神秘を語って秦の兵士のほとんどを借りて人間計算陣形を作り、計算をする。

計算は何か月にも及ぶため、その間秦の兵力はそがれる。これを好機として、燕が入念な準備をしたうえで秦を攻め滅ぼしてしまう。これは荊軻の巧妙な暗殺計画だったのだ。しかし荊軻も未来の発想に生き過ぎたことで、始皇帝と共に殺されてしまう。今際の際に荊軻が思いついたのは、未来ではコンピュータと呼ばれる「計算機械」についてだった……。

とにかく、計算陣形起動!とか、〈入力〉くんと〈出力〉くんの旗揚げ訓練とか、故障した部品(兵隊)は首を刎ねよ!とか、そういう一つ一つがめちゃめちゃで面白い。

三体で描かれていたものに比べ、よりシンプルでわかりやすくなっており、時代的に使えない単語を置き換えて硬物(ハードウェア)、軟物(ソフトウェア)とかになっているのも笑えて良い。

中国での始皇帝暗殺の扱いについては良く知らないが、日本でいう「もし織田信長明智光秀に殺されていなかったら」のようなものなのかな~とも思うので、そういう意味では歴史ifエンタメとしても十分に楽しい。

そのうえ、劉慈欣特有の人間は愚か節が効いていて、始皇帝は永遠の命に魅せられ国を滅ぼし、秦を出し抜いたはずの燕王はしかしその立役者をあっさりと殺し、荊軻は伝わらぬとわかっていても「計算機械です!」と叫ばずにいられない。

文句なしに傑作である。そりゃ表題作にもなるわ。今後、劉慈欣の代表作になっていくだろう。

ただ、まとまってしまったがために、もともと三体であったシーンの滅茶苦茶さや意味不明な笑いが損なわれてしまった感じもするんだよねえ。私はそっちもめっちゃ好きなので、これはこれで別物として語り継がれてほしいなあ~~。

三体惑星という地球とは全く違う過酷な環境の中、なぜか始皇帝フォン・ノイマンニュートンが惑星環境を解明しようとするという意味不明さがもう笑えてサイコーだし、読者はそれをコンピュータなど使い慣れている汪淼の視点で面白がることができる。

計算陣形も三千万人と「円」より人数が多いから高性能だし、そのうえで計算が間違っており、始皇帝はおろか兵士全員がふわ~っと浮き上がってみんな死んでしまうラストはゲームの内容とわかっていてもグロテスクで心が躍る。

まあ展開は唐突で、特に伏線もないシーンなので、何を読まされているんだ感はあるんだけど……。そもそも三体自体がいろんなオモシロアイディアの詰め合わせみたいなところがあるので、特に深く考えずに楽しんだ方が勝ちである。

ぜひとも読み比べていただきたい。久々に読んだら三体やっぱ面白かったわ。

 

さて、これで長らく続いた劉慈欣短編集「円」全作レビューは完結!

全13作!分量と愛に差はあれど、しっかりレビューさせていただきました!

もう何回読んだんだろ……。読み込めば読み込むほど話の構造や技巧、主張などが見えてきて、解釈に幅を与えてくれて非常に面白かった。ただ、まだ細かいところまで完璧に精読できていはいない気がするので、またどこかで読む時間を作りたいなとは思う(懲りない)

全部が全部じゃないだろうけれども、結構面白いレビューもできたんじゃないかな、と。特に「栄光と夢」解説は自信作……というか、比較的面白い妄想である自信がある。

お付き合いいただいた方、ありがとうございます。このレビューが少しでも劉慈欣氏の小説の面白さを伝える手助けになったらこれほどうれしいことはありません。

というか、今年新しく短編集出るってよ!!!買うぞ!!!

あ、現在最新作の絵本「火守」も面白かったです。難しくないし絵が綺麗だし、これもみんな買おう。

仕事辞めて楽しく生きようと思っている近況報告

こんにちは、まだ仕事辞めるって言えてないかみむらさんです。

今年初めの日記に、仕事頑張るって言ってたのが嘘のよう。まあ、色々ありまして。

詳しくは身バレがあるので語れませんが、あえて話をすると……うーん……。

Nsあおいっていう漫画があるんだけど。

主人公の看護師あおいが、気管挿管(医師しかできない処置)を、緊急事態のために医師と電話しながら行い、結果患者は助かったものの、逸脱行為を咎められて左遷される、というところから始めるんだけど。

ぼかァねェ、このあおいちゃんの気持ちがちょっとわかりましたよ。

とはいっても、私は逸脱行為はしてないんだけれどもね。ちょっと職場のローカルルールから外れたのと、仕事ができない幹部候補のおじさんに立てついただけ。

たぶんあおいちゃんが後悔していないのと同じように、私も自分がやったことを後悔していない。だって患者助かったし、私は一切間違ったことはしていないのだ。

でも、気が付けば上司からめちょくそ怒られたうえ、おじさんのほうは守られ……というか、何故か私がおじさんをいじめたことになっていた。意味わからん。

あとで他の同僚に聞いたんだが、おじさんと上司はマブダチ(煽り)らしく、プライベートで何かあるたびに電話しまくっているらしい。やりたい放題かよ。

そんなわけで、こんなところにいられるか!おれは別の仕事を探すぞ!となったわけです。

まあその他にも契約書に書いてある昇給が無かったり、夜勤が多かったり、パワハラで長く居た仕事のできる先輩がみんな辞めたり、医者の方針に納得がいかずに対立したり、ちょっと無理みたいな出来事も重なっていたんだよね。

しかし、辞めると決めたはいいものの。

結局毎日職場に行き、もりもり仕事をしている。クソ真面目か。

でも明らかに体調はおかしくなっていて、結構尾を引くぎっくり腰やったり、職場に行くと耳の聞こえが悪くなったり頭痛がしたりしている。やばいのでは。

なんで、頑張って今年のどこかで辞める予定。

その後はコロナ状況を見て遊び惚けるよ!場合によっちゃ、夫に少しだけ養ってもらってもいいかなあと(バイトはするよ)

あと土日の、せめてどっちかは休める仕事に就きます。読書会とか、イベントとか、行きたいんだもーん。

看護師は向いている仕事だと思うし、やめる気はないけど、極める気もないので、自分が納得して楽しく働けるところでだらだら働けたらいいなと思ってる。

結局転職ジプシーしてるけど、まあそのために取ったような資格だし。多少貯金もできたので、少し遊んでも許されるはず。

 

そういえば最近、ハタと思い立って劉慈欣短編集「円」の全作レビューをやっていて、あと少しで終わるのだけれども、ついこの間「栄光と夢」について考えすぎてしまって、ちょっと嫌になってしまった。一回お休み。

でも、自分の中の見たくない欲望みたいな部分に目を向けて語れたので、面白いものが書けたと思っている。私が面白いんだから、他の誰かもきっと面白いだろうと思う。

このブログ、単に葉文潔について何かしら書かれたものが、ネットの片隅に一つでも転がっていたら、目に見えるものではなくとも何かしら価値があるはず、という期待みたいなもので始めた。

今年に入って、月2回の記事更新は守れている(去年は月1更新)

いわゆるブロガーとは言えないまでも、変則勤務体力仕事をやりながらこれは頑張っている。仕事辞めたらもう少し書けるかな~。

色々書きたいものはあって、そのために読み直したり、プレイし直したりしたいな~と思うものもたくさんある。

結局、何かを語るということがとても好きなんだろうな、と思う。

ただ、自分の好きなものを理解されるというビジョンが全く無いので、いつも自信がない。だからおしゃべりはほんとうは結構苦手だ。いわゆるオタクの早口喋りをしてしまって後悔することばっかりだからだ。

それでも、こうやって文章を書くようになってから、喋る方もためらいがなくなってきたように思う。

それは、自分の中で少しは面白い解釈考えられてるかも、わかりやすく伝えられてるかも、と思えるようになってきたからなんだろうなあと。

以前にもブログで触れたような気がするけれども、岡田斗司夫氏の配信が好きで、自分の触れたことない特撮やアニメの世界の話もよく聞くのだけれども、好きなことを楽しそうに気持ちよく語るので、全然知らない作品のことでも面白いし興味が持てる。

それは、彼の話し方が上手く、熱量がある、そのうえ、提示されているものが、多くの人が漠然と考えていることの言語化であったり、彼の知識や経験から得られた新しい見解だったりするからなんだと思う。

羨ましい。こんな風になれるといいのになあと思う。

私の好きなものは結構メジャーなものも多いけれども、好きポイントを語るとなんかニッチな趣味みたいになってしまうことが多くて(三体が面白いではなくて葉文潔が好きとかそういう)つい語るのに躊躇することが多いんだよね。

それでも、なんとなく話の展開が面白いよね~とか適当なことを言うよりは、〇〇の××が△△でええんや……!と言えるというのは長所でもあると思うので、上手に語れるようになったら自分の強みになるんじゃないかくらいには最近思っている。

自信をもって元気に語ることができたら、自分も相手も楽しいんじゃないかなと思うし、そうなりたい。

今後、文章だけじゃなくて、喋る配信とかもできるようになったら嬉しいですね。

っていうか、夫がやってて羨ましいんだよ(ロードレース観戦界隈で割と名が売れてるのでポッドキャストとかやってる)

読書系ポッドキャストとか一緒にやってくれるひと、絶賛募集中です!

 

イーガン読書会のほうも、無事2回目が終わり、まとめも挙げられて、次回も決まって順調に進んでいるので嬉しい。

というか、まとめ書くの楽しいなあ。自分の解像度が上がるというのもあるし、こんな読書会やってますと提示するのにもちょうどよさそう。

もともと要約とかは得意な方だし、他の読書会やイベントとかでやってと言われたらプイプイ喜んでやるよ。

いずれコロナが問題なくなったら、対面開催で、知り合い以外の参加者も募集するというのもアリかなあと思っている。特に、直交三部作に関しては広く意見を聞きたい。

というのも、クロックワーク・ロケットを最近読み終わって、「クロロケはいいぞ……」という境地になっているのだが、扱われているテーマがあまりに多くて複雑で、ついでにイーガンなので回転物理学というNEW物理なんかを持ちだしてきたりするもんで、とにかくおはなしの密度が濃いのである。

ネタバレにならない範囲で書くと、異宇宙シミュレーションのハードSFで、キャラクターはみんな不定形のバーバパパみたいなやつなのに、フェミニズム文学であり、人間賛歌であり、世界の危機を救う王道ファンタジー(?)であり、一人の女の人生記録なのである。

回転物理学も勉強して、世界観も見直して、あと何回か読もうとも思っているんだけど、どう考えても一人の頭の中で捏ね繰り回すにはむつかしすぎる。

こんなものを一人で作り上げちゃうイーガン先生ってなんなの神様なの?

人によって注目するポイントも違いそうだし、エモーショナルなシーンがめっちゃたくさんあるのに、描写がかなり淡白なこともあって、かなり解釈の幅も分かれそう。二次創作もできそう。

主人公ヤルダの人生を思うたびに、未だに涙が流れてくる。ウウ……ヤルダ……。

面白過ぎて、もう2巻目のエターナル・フレイムも買っちゃったもんね。相変わらずほとんど理解できないけど、頑張って読みたいと思う。

一応、私の読書会では、来年位に直交三部作やりたいねと話しています。来年まで私主催でやらせてくれるとかみんな優しいかよ……と思いつつ、参加してくれる人が退屈しないように楽しくやっていけたらいいかなと思います。

 

あっあと、しばらく前ですが、Thisコミュニケーションの6巻も無事出ましたね!

5巻までの内容とまた変わった面白展開なのと、そうきたかァー!っていうのがあったので、こちらもそのうち記事に上げられたらいいなあと思う。

よみちゃんも可愛いけど、むつちゃんも可愛いよね。

劉慈欣とイーガンで忙しい日々だけれども、漫画部門はThisコミュニケーションを圧倒的に推しているのと、最近完結したチ。ー地球の回転についてーや、絶賛連載中のハイパーインフレーションも面白がって読んでいます。

漫画は全然読めていないので、何かオススメあったら教えてほしいなあ。金カム以外で……(色々思いがあり読めていない奴)

ゲームもやろうやろうと思いつつできていない……。とりあえずはやくメガテン5買わないと、あっというまにソウルハッカーズ2が発売になってしまう……。

ソウルハッカーズ2も、ペルソナ系シャレオツ路線で、ちょっと心配ではあるけど楽しみにしています。

金子一馬ァー!帰ってきてくれー!と思うこともあるけれども、やはり時代の移り変わりを楽しむ、幼少期に触れたものだけサイコーと言い続けないというのは大事なのかなと思うので、常に新しくて面白いものに触れていきたいなあと。

音楽とかも、元々さほど好きじゃないのもあるけれども、気を抜くと20年前の奴しか聞かなくなっちゃうからなあ。

無批判に昔のほうが良かったはNGにしとかないとね。

しかし、こうやって書いていくと、面白いもんが世の中にはたくさんあるなあと思うし、とりあえず生きていこう感が出てきて良き良き。

とりあえず仕事を辞めるまでは、ちょっと精神削られながら生きていると思うので、うまく仕事のことから気を反らして、自分が面白いことを黙々とやっていきたいと思います。

頑張って生きるぞー

劉慈欣過激派による「栄光と夢」解説(劉慈欣短編集「円」より)

何かを過度に貶めることと、過度に信奉することは、本質的にあんまり変わりはしないのではないか、と思う。

あんまりこういう単語を使うことはしないのだが、表現としてわかりやすいため、あえて使うとすると、それはいわゆる「クソデカ感情」というものである。

愛と憎しみは表裏一体。容易に反転しうるし、感情の重さが変わることがない。だからタナッセにも愛してもらえる(このネタ誰がわかるんだろう/気になった人はフリゲの「冠を持つ神の手」をやろう)

というわけで今回は、「円」に収録されている「栄光と夢」があまりに良かったオタクでスポーツ嫌いな私が、過激な妄想をぶちまけて、このおはなしの解釈を広げていきたいと思う。

ほんとうは戦争が……とも思っていたんだけれども。

SF読書会関連のフォロワーさんが、”政治体制に引っ張られずにbotのようにSFを描いた劉慈欣でもあろうと思うと、歯を食いしばって自由に語るぞ”(抜粋)という話をしていて、それはそうだな、その通りだなと思って、私も歯を食いしばって語ろうと思ったのです。

だいたい、このおはなしは、カオスの蝶と違って戦争のおはなしではないのだ、というのが私の見方。

今はちょっとショッキングな写真や映像があまりに溢れすぎていて、みんなしんどすぎてしまって、このおはなしに連動してしまうのはとてもよくわかるし、私もそうでなかったと言えば嘘になる。

でも、私が「栄光と夢」を初めて読み終わった際、涙ながらに思い出したのは、小学校の体育の授業だった。

体育のカリキュラムのことはよく知らないが、多くの人が経験あるんじゃないだろうか、跳び箱である。

私の小学校では、一人一人並べられて技を披露させられたんだよね。

と、いっても、少なくとも私は何か教えられたという記憶は一切ない。あの時、できる子たちは教師から熱心に指導されていたけれども、私みたいな運動音痴はほぼ放置で、ただ時間だけが与えられているありさまだった。

というわけで、私はいちばん低い段もまともに飛べないわけだったんだけど、まあ跳び箱の上で逆立ちするような変な技をして拍手と歓声を受ける子の後とかにやれって言われるわけだよ、技を。技ってなんだよ。

ただでさえいじめられっ子なので、三段が跳べるかどうかがもう、命の瀬戸際ですよ。

ま、そして拍手されるわけですよ。もちろん失笑と共に。

私はあれ以来スポーツを人生かけて憎んでいるし、そもそも体育の授業にまともに参加しなくなった(体育倉庫とかで暇をつぶしていた/体育以外の成績が良かったので許されました/それもどうなの)

スポーツが憎いのか、スポーツが好きなひとたちが憎いのか、それともただ学校教育の体育が憎いのか、それは三十路を過ぎた今でもよくわからないんだ。

 

「栄光と夢」の話に戻ろう。

このおはなしは、戦争の代わりにオリンピックで決着着けちゃおうぜ、というところから始まる。

二か国だけのオリンピックである。そんなばかなオリンピックがあるか、と言いたいところだけれども、劉慈欣は人間果てしなく愚か説の提唱者なので、そういうことを平気でやってしまう。

しかも、戦時中で国全体が貧困のシーア共和国VS有望なスポーツ選手にはなんでも提供できるアメリカなのである。シーア共和国の選手は栄養状態も悪く、練習もまともにできない。そもそも、有望な選手が多数死んでしまっている。

当然、シーア共和国は惨敗を繰り返す。体操選手のライリーという選手は、既に負けるとわかった状況で狂気の演技を披露し、平行棒から落ちて死ぬ。

これは戦争でも、オリンピックでもない。これはただの虐殺なのである。スポーツ選手の人生と心を殺す、あまりに非道な虐殺。

一勝でも挙げられたら国に恩恵があるというところから、選手は逃げられない。唯一、サリという選手だけが拒否するが、この男は例外で、勝利する可能性があるから逃げられたのである。強いから逃げられただけだ。

何度でも言おう。このおはなしは、弱いスポーツ選手の逃げ場を奪い、その人生と心を破壊しつくす、虐殺のおはなしなのである。

しかしそれは生命を奪わないという点において肯定され、エンタテインメントとして待ち望む観客は会場に押し寄せている。そして悲惨すぎて勝手に目を覆ったり、英雄視したりする。

これは、痛烈なアメリカ批判やオリンピック批判(私はオリンピック見ないのでよくわかんないけど……)と読むこともできるけれども、私は先の跳び箱の思い出があるので、どちらかというと、スポーツ全体に対する皮肉のように思える。

他の国では教育の質が違うかもしれない。でもやっぱり、スポーツができるかどうかというのは、人生の質を変えてしまうと思う。学校教育という逃げられない場において、お前はできそこない、と突きつけられたような気持ちのまま、生きていかなければいけないひともいる。

根拠はない。私の感覚だ。

あの跳び箱で、人生と心を殺された私の感覚でしかない。

でも……たとえば、ミスコンで明らかに不美人が選出されるのはいじめだと思う人が多いだろう。何よりミスコンというもの自体が批判されがちな世の中である。

それなのに、学校教育のマラソンで、明らかに完走できない子や、他の子より数十分時間がかかる子を参加させることは、普通だと思う人が多い。

そういえば中学の頃、どう考えても私には登頂できない山を登らされた挙句、途中で引き返して転んで怪我をしただけ(しかもちゃんと処置してくれなくて化膿した)のクソみたいな行事があったことを思い出した。

もしかしたら、私が子供の頃に比べて、日本の体育教育はもう少しマシなのかもしれない。子どもを生まない私には知る術はないが、もう少し世の中は私のような人間に優しいのかもしれない。

そもそも、この人生と心を殺される感覚は、スポーツに限らないかもしれない。勉強や、それこそルッキズムも、あまり変わらないのかもしれない。

私が極端に競争というものを嫌っているから、必要以上に競争を肯定するスポーツ文化がいやなのかもしれない。

それでも、私は、勝った負けたで大騒ぎして、上位の人しかメディアで取り上げないスポーツ競技の大会を見るたび、吐き気がします。

ここに関して、別にどうなってほしいとかは思わないし、スポーツ好きの人を責めたい気持ちはないけれども、私のような意見があっても、許される世の中だと良いと思う。

 

さて、中国の体育教育って、どんなんだろ?と調べたら、案の定、中国らしく、才能がある人間は早めにスカウトして、英才教育を施すらしい。

実際のところを知らないので、私の口から中国批判はしない。

でも劉慈欣は、そういう教育に対して、おそらくかなり危ぶんでいる。

主人公のシニは、口がきけないマラソン選手である。

このおはなしは中盤から、このシニの物語となる。

当然マラソンのおはなしになるのだが、思い出してほしい、このおはなしは虐殺のおはなしだ。マラソン競技特有のかけひきや、ライバルとのやりとり、そんなものは一切ない。

エマという世界最高のマラソン選手に、シニは完膚なきまでに殺される。書いてあるのはそれだけなのだ。

シニは実際に死んでしまう。全力でオリンピックで完走したことを誇りに思い、笑顔を浮かべて。栄光と夢を胸に抱いて。

クソッタレが。

口が悪くなった。ラスト付近についての話はあとでしよう。

シニがマラソンを完走するまで、シニの人生が語られる。

母を空爆の被ばくによって亡くし、ある男にマラソンの才能を認められて、男の売血と彼の親族の犠牲を受けてマラソンだけに人生を懸けてきた。

この描写は、正直上手いとはいえない演出で語られる。シニの中で現在と過去が混ざっていく、やや狂気的な世界の表現ということはわかるのだが、あまりにぐちゃぐちゃしている。とにかく読みづらい。

たぶん翻訳は悪くない。悪いのはたぶん、劉慈欣の熱量である。

そう、熱がある。どうしても惹かれる。上手くないが、下手な書き手には絶対に書けない、心に訴えかける熱がある文章なのだ。

そして、これだけの熱をかけて人生を語られたシニは、しかし人格がほとんどない。あるのは走ることだけだ。それ以外ない。

読書会で、シニの葛藤があるべきでは?という意見を聞いた。最もである。

しかし、劉慈欣が書きたかったのは、おそらく、小さなころから栄光と夢を押し付けられ、それだけになってしまった、美しさと悲しみを湛えた少女なのである。

かなり意図的に人格を削られており、それはやはり、前述した中国の体育教育への危惧があるからなのではないか、と感じる。

小さい頃から一つのことをやらされて、それ以外何もなくなってしまう。マラソンの才能を持っていたばっかりに、マラソンロボットにさせられてしまった。

シニには、走らないという選択ができない。棄権して生命を繋ぐ選択肢などないのである。シニは走るしかなかったし、走らなければ死ぬしかない。そこには葛藤など生まれようがない。

「栄光と夢」は悲劇だ。このおはなしに栄光も夢もない。愚かな人々と、虐殺されるオリンピック選手と、マラソンに人生を蝕まれた少女がいるだけである。そして世界に常にある飢えと苦しみと誇りが、これでもかと描かれているだけである。

劉慈欣は、シニの死も、戦争も、決して肯定してはいない。愚かだと心の底から思っているに違いない。このおはなしだけでは判別がつかないかもしれないが、「円」の短編集全体を見ればわかる。

しかしなぜこんなクソッタレなものを書いたのか。

私にはわかる。

そのクソッタレなものは、あんまりにもうつくしすぎて、もはや信奉するに値するからである。

 

私はスポーツが嫌いなただのオタクだ。スポーツができない人間は大概オタクになる。

オタクなので、二次創作をする。

数年前、とあるスポーツ漫画にハマって、二次創作小説を書いていた。

あまりにも恥ずかしいのだけど、歯を食いしばって語ることに決めたので、少しだけ話そう。

才能はあるがトラウマからそのスポーツの鬼と化してしまった子供(これは公式設定)を病気の大人にして、世界最高の戦いで優勝させて、その途端に殺してしまったのだ。まあBLなので、彼を愛している男が、スポーツを諦めて普通に生きながら、ただ彼を救えなかった話だ。

私はスポーツを憎んでいるから、これはこの上ない悲劇として書いた。今思うと、このおはなしは、私なりのスポーツへの復讐だったのかもしれない。絶望の話を書くことで、溜飲を下げていたのかもしれない。

ただ、私の中に、それ以外何もないこと、そこに殉ずること、生命も心も人生も投げうつことへの強烈な憧れがあることは無視できない。それはたぶん、ほとんど信仰と呼べるものだったと思う。

当然だが、現実のスポーツ選手に耽溺したことはない。ほとんど名前も知らない。

たぶん私が信仰しているのは、あの日跳び箱でハンドスプリングを決めた、もはや名も覚えていない子どもなのだ。

私だってああなりたかった。

私だって、今だって、シニみたいになりたい。どれだけそれが、悲しいことであったとしても。

劉慈欣のような偉大な作家に自分を重ねることがどれだけ愚かなことかはわかっている。

それでも、「栄光と夢」を書いたときの劉慈欣のことを、わかると言わせてくれ。

絶対に、無批判にシニを描いてはいけない。シニのことも、戦争も、クソッタレオリンピックのことも。

しかし、それでも、強烈に鮮烈に蘇る信仰を捨てられない。苛烈な悲しみも、唾棄すべき悲劇も、うつくしさの一点のみで肯定したい時が、誰にだってあるはずだ。

劉慈欣は世界に通用する形で、それを書いている。素晴らしい作家である。

まじでみんな買って応援するしかないよ。

 

ここまで書いて、実は劉慈欣がバリバリのスポーツマンだったらどうしようと思っている。もしそうだったら恥ずかしさで憤死するかもしれないので、どうか、私が動揺しないように、べろべろに酔っ払った時とかにそっと耳打ちしてください。

えーでも絶対劉慈欣はスポーツできないオタクのひとだって!新海誠好きなやつがスポーツマンなわけないよ(偏見)

ほんとうは、自分の人生と小説の内容や、作家と自分を重ね合わせるのは好きじゃなくて、感想や批評としては相応しくないのではくらいに思っているんだけれども、「栄光と夢」も劉慈欣氏も大好きすぎて、愛が爆発して耐えられなくなってしまったので、たまにはこういうのもいいだろうと思って書きました。

そんなわけで、ここに書いてあることのほとんどは妄想なんだけど、誰かにとって面白い妄想であってくれたらいいな。

さて、「円」のレビューは残すところあと5作品になった。私が死ぬほど好きな2作(「郷村教師」と「栄光と夢」)が終わったので、後はのんびり書いていきたいと思う。案外レビュー書くと好きになるというのもあるし。

初期イーガンはちょっとごちゃごちゃしてるけど、とっても魅力的だよね!(イーガン読書会②「順列都市」報告)

昔読んだ時、たぶん後半部分がよくわからなくて、ほぼ記憶がない「順列都市」である。

ただ、よくわからないながらも、スゲー!と思ったことだけ覚えている。私は自分には理解や想像が及ばないものがいちばん面白いと思う。そう考えると、この世には面白いもんいっぱいあるな。

というわけで、イーガン読書会2回目でした。今回は私含めた6名の参加。未読は1名のみ(でも大体読んでた)。相変わらず、知り合いのみの会なのでわちゃわちゃ意見が飛び交って楽しい。

初期イーガンの作品なので、「白熱光」に比べると粗い描写が多く、内容も色々なアイディアをポンポン出していくスタイルで、それぞれのつながりが希薄でまとまりがない。

特に下巻に入ると主題が急に変わってしまうので、ついていけない人も出てくるのではないか、と私なんかは思ってしまった。実際数年前に読んだ私はついていけてなかったし。

その分、ストレートに面白いアイディアがいくつも提示されて飽きさせず、おはなしも比較的エンタメ寄り。他のイーガン作品と比べると理解しやすいところや、近未来が舞台なこともあって、現代に生きる我々でも共感できる葛藤が描かれるところは評判が良かった。

特に、主人公のマリアは、かなり現在の一般人に近い人間だったので、違和感を感じず読みやすかったと思う。

最近の作品(「ゼンデギ」は違うけど)は、もうずいぶん未来が過ぎちゃって、人類と言えど、ちょっと現世の人類には理解しがたい感覚や価値観になってしまっているからなあ。人類じゃないのばっかり出て来るし。それはそれで面白いけど少し疲れちゃうよね。

そういえば、イーガン、ちゃんと人間書けるんだ!という声に思わず笑っちゃった。

短編は結構人間ドラマもあるし、特に医療機関絡みのシーンにおいては、看護師の私から見ても、よく現場を観察しているんだなあと感心することも多いんだけど……そもそものところが、人間に対する執着というか、愛というか、少ないひとだなあとは思います。

この間劉慈欣の読書会でも、似通ったテーマとして「ユージーン」(TAP収録の短編)を引き合いに出して語ったら、「それはイーガンがストレートに人の心がない」と言われてキャッキャと笑っちゃった。私はどっちも違う意味で大好きだけどね!

まあ、だからこそ、イーガン先生は宇宙に人類に謎の異星人などを等価で考え、同じレベルでシミュレーションできる作品が考えられるのだし、それが面白さの一つになっているのだろうと思う。

と言ったらみんなに(ほんとか?)深い頷きをもらった。うれしい。

 

イーガン作品はアイデンティティについて描く作品が多いが、順列都市はとにかくその描き方がしつこい(もちろん、いい意味で)。

そんなわけで、共感できる人物が人それぞれじゃないかという話が上がった。一般に広く受け入れられそうなのは、先も述べたけど、やっぱりマリア。

個人的にはケイトやマリアの母なんかも、一般的に理解しやすいのでは、と思う。

さて我が読書会では、ピー派が2人。トマス派が2人。

私はピーが一番よくわかんなかったのでびっくりした。そのひとは逆にトマスに共感とかマジ!?という感じだったので、ひとには多様な価値観があるのだ……!と思いました。読書会とかやると感覚の違いが浮き彫りになって面白いですね。

ピーに感情移入した二人は、10年前の自分は自分じゃない感じがあることや、選択的に人格を選ぶことへのわかりみを語っていた。

そんな中、トマス派の私「トマスはアンナを壁にガンガン打ちつけるところにしか自分がないんだよ~その感覚、めっちゃわかる」

もう一人のトマス派「トマスがやり続けてるようなこと、めっちゃ夢に見る」

大丈夫かな、この読書会……(たのしい読書会です)

いや、トマスめっちゃ好きなんですよ、私。永遠の地獄を選んだくせに、最後の最後で地獄から逃れようと精神崩壊しちゃうのも、こいつのせいでマリアとダラムが間に合わないのも、ぜんぶ好き。ヒエ~人間!って感じで(深刻な語彙力の低下)

もう一人の主人公ポール・ダラムについても色々話が挙がった。塵理論を提唱し、全部の自分が自分であり続けるという狂気の妄想みたいな感覚を持ち続ける男。

TVC宇宙を発進させたら、もうこの自分はいらないから、という理由で自殺するというのが面白いという意見や、最初のシーンは感情移入で来たのに、マリア視点で見たポールはめちゃ気持ち悪いのなんで??という意見が面白かった。

私はあまり気にしてなかったのだけれど、ダラムの家にあった絵画(ボッシュ、ダリ、エルンスト、ギーガー)はそれぞれ不気味なもので、好む音楽(ツァン・チャオ、フィリップ・グラス、マイクル・ナイマン)もちょっと奇妙で不思議という話も上がった。

まあ、つまり、もともとどこか、おかしいひとだったのでは……という。

短編の貸金庫とか見るだに、イーガン先生精神科に行ったことあったでしょ?と思う私は、意図して彼を精神疾患ぽく書いたのかな~という気がする。実際、作中で治療も受けているしね。

単に経験的な感覚だけども(精神科看護歴が長いので)、精神疾患の方、なんとも精神に来る不気味だったり不思議だったりするものを好む方が多いんだよな~。

この辺、変、不思議と切り捨てず、深く考えて解釈することができる方が多いというのはあるかと思う。大体考えすぎて具合が悪くなるんだよな……。考えない人は心が具合悪くならないもの。

また、芸術家も精神を病むひとが多いので、惹かれ合うものもあるのでしょう。

まあ、私も、ボッシュもダリもエルンストも好きなんですけど……。

ちなみにフィリップ・グラス、マイクル・ナイマンについては、好きだという参加者の方が、読書会後のグループDMでYOUTUBEの動画をたくさん貼ってくれました。ミニマル・ミュージックというらしいです。

とりあえずこのブログを書きながら聞いているんだけれども、ちょっとゲーム音楽っぽくて集中できていい感じ。

 

作中舞台である仮想空間やコピーについてや、トンデモ面白理論である塵理論、手作り宇宙で進化したランバート人についても、面白かったという意見が多かった。

仮想空間に関しては、割とシビアな格差社会が描かれ、金がないと低速になるというのが面白かったという意見。速度が速くなるおはなしはあっても、遅くなるのは珍しいとのこと。

また、スピードが遅くなっても本人は認識できないため、唯我論者国家という貧乏(失礼だけど)コミュニティができているというのも面白いと話があった。

私なんかは、もうコレは金がないと通信制限をかけられて低速になるやつだと思って、今読むとなお面白いなと思っていた。格差社会はいつの時代も深刻なものだ。

塵理論は、面白いけど難解、という声が多数。多世界解釈の一つでは?という意見もあった。

私は端的に、なんらかの形で整合性のあるパターンがある限り、無限に自分が存在できる、くらいのふんわりした感じで読んでいた。多分ざっくり言えば合ってるんだろうけど……。

塵理論に関しては調べれば調べるほど難解な説明が出てくるものの、だいたい「この解釈が正しいかわからないが」と書いていて、ちゃんと理解してるやつ人類の数パーセントもいないんじゃないか?と思う。

でも、よくわからん理論があって、そのロジックの中で進んでいくロマンを描くのがハードSFの面白い所だよねえ~という話にもなった。やっぱりよくわかんないものは面白いんですよ。

ランバート人は、人間と全く違う生態を持っていること、とりわけ、群体として考え論理構築のダンスをするというのが面白ポイントだと話が挙がった。

人類もダンスを用いてランバート人とのコミュニケーションをとるが、これも単に人間同士の会話とは違うものとして描かれているのも面白いし、そのうえで無限はあり得ないと断言されてしまい、ランバート宇宙の論理 VS TVC宇宙の論理という展開には、「論理の強さってなんだよ」と思いながらも、強い魅力を感じた人が多かった。

論理の強さというのは、イーガン的に言えば数学的な美しさなんですかね。美しさってなんだよ(無限ループ/やっぱり無限はあるんだ!)

しかしこの、順列都市にたどり着いてからランバート人の論理に敗北して崩壊していくという部分が、あまりにもあっさりとしていて物足りないという意見も多かった。

このトンデモ宇宙論理バトルが下巻の半分ちょっとしか割合がないのは、確かに納得いかない。この流れだけで1冊書けてしまうのでは……?と話す方さえいた。

そこから派生して、7000年経ってるから仕方ないと言えどあまりに前半部分と繋がってないよね、物語の構成としては上手くない、という意見も。オートヴァースが作られた理由としても、TVC宇宙のために予測不能な乱数を入れるということで一応説明はついているけれども、噛みあっていないように感じるとのこと。

私は乱数を入れるためというのも読み飛ばしていたので、なんかそういうのやりたかったんだな、と思ってました(おばか)

イーガン先生、特に初期作品は、これがやりたい!これおもろいやろ!みたいなのがドーン、ドーンと降ってくる感じがあって、最近になるにつれてまとまり感が出てきた感じもあります。そこら辺を読書会で追っていくのも楽しそうです。

 

イーガン名物である、登場人物に知性があるひとしかいない問題も話題に出た。これ、文藝の「イーガン祭り」の対談を見る限り、よくあるイーガン批判の一つみたいですね。

私は勝手に、人類が何万年も経って不死も実現して、結果高い知性を持つのがベースになっていると考えていたのだけれども、順列都市は近未来なのにみんなめちゃめちゃ知性的だったので、違ったみたい。

ちょっとバカっぽく書かれているはずの音楽系彼氏アデンが、マリアと真っ当な議論をしていたり、反社会的な組織や薬物との関わりがあるアンナが、頭の回転が早く言語化が上手だったりする。

アンナに関しては「もっとひどい運命を思いついた。中年の銀行屋と、しあわせな家族ごっこをやってるのさ」というセリフがあまりに傑作という話も上がった。こんな傷つくこと言われたらトマスも殴っちゃうよな……。

マリアの母がコピーを拒否する理由もただなんとなくではなく、理路整然と自分の立場を語る。自身の考えの裏付けとなった神や宗教団体についても、詳細に語ることができる。

ついでに塵理論に金を払う資産家たちも、ポールの説明を理解していてすごくない?という話も出た。

改めて並べるとみんな知性高いなー。現実はもっとみんななんとなく○○みたいな話をすることがほとんどだよ。みたいな話をした。

アンナみたいな子は現実にもいるけど、もっと感覚的に話すよ、という生々しい意見も。まあそらそうだよな。

ただもちろん、知性ある人物を効率的に出すことで、それぞれの思想がわかりやすくなるし、おはなしとしてもスムーズに進むので、一概に悪いともいえない。というか、読む分には、大変読みやすい。

非常に個人的なことを言えば、まあこんなこと言っちゃ失礼なのかもしれないけれど、知性的でないとされるひとびとの、単に愚かだったり意味不明だったりする行動や思想も、人間的な魅力に満ち満ちているとは思います。

でもたぶん、それはイーガンが描かなくてもいいのよねえ。

 

順列都市に関連する作品としては、アーサー・C・クラーク作品、飛浩隆作品(「グランヴァカンス」、「零號琴」)、「ホモ・デウス」、「エターナル・サンシャイン」(映画)が挙がる。また、仮想空間内の生命という点で、後のイーガン作品である「ディアスポラ」(の中の「ワンの絨毯」部分)の元ネタという話も上がった。

アーサー・C・クラークに関しては、人物たちの因果ではなく、宇宙全体の話を描いているところが似ていると。最近幼年期の終わりを読んだばかりだったので、あー確かに、とわかりみ。人間を中心にしたドラマに心惹かれるか、人間を超えた大きなものの変化に酔うのか、人によって好みが分かれそうです。どっちも別のベクトルで面白いよね。

飛浩隆作品に関しては、今回スピーディーに駆け抜けた世界崩壊の部分を詳細に描いた作品がまさに「グランヴァカンス」。面白いです。「零號琴」に関しては少しもネタバレしてくれなかったので、似ているよ!いいよ!という力強い言葉しか聞けなかったんだけど、どのみち読もうと思っていたので今度読みます。

「ホモ・デウス」は、最近の作品なのに書いていることが全部順列都市と同じ、とのこと。気になって調べてみたところ、ここに描かれている未来像が、マジで同じことを書いていた。まだちゃんとは読んでいないけど、2015年にハラリが考え、世界を沸かせた未来像が、1994年の「順列都市」に描かれていたとは衝撃でしかない。イーガン、すげー!

エターナル・サンシャイン」は、順列都市をエンタメ・ラブストーリーにするとこうなると教えてもらった。その人曰く、辛いから二度と見たくないけど、とてもいい映画とのことで、なかなかに素敵な評価。残念ながらアマプラにはないけど、まあ299円でレンタルできるし、そのうち見てみようと思う。

 

さて、こんな感じでだいぶ話し合った内容を整理して書けたかな……。

そもそもが多彩なアイディアとテーマがバンバン繰り広げられるおはなしなもんで、話していることもあっちに飛んだりこっちに飛んだりしていて、まとめるのがとても大変だった。

なにより私のメモが全く何書いてあるかわからん(これは完全に私が悪い)作品名とか印象に残った台詞とか以外は、割と記憶で補完しているので、勝手に話を盛っていたら申し訳ないです。

会の後も、結局仮想空間へのダイブはいつできるんだろうとか、コロナとワクチンと陰謀論の話とか、色々雑談して楽しかった。

次回は7月ごろ、課題本は「万物理論」です。予備情報を全く持っていないんですが、性別に関して踏み込んだ描写があるということで、面白そうです。

結局今回もオンライン開催だったので、次回は対面でやりたいよ~。夏だし少しは落ち着いてくれませんかね。

葉文潔大好きマンが劉慈欣短篇集「円」を全作レビューしたい(繊維、メッセンジャー、詩雲、月の光)

ちょっと大っぴらに「カオスの蝶」と「栄光と夢」の話はできないな……と思うわけである。

二つとも大好きな作品で、ここでも取り上げたいと思うのだけれども、流石にそれはある程度戦局が落ち着いて、Twitterで目を覆いたくなるような写真や動画が流れて来なくなった後にしたい。

この手のニュースは結構落ち込む。某疫病も何ともなっていないし、なんなら職場も酷い有様で、うつくしいのは今日日、菜の花と桜くらいである。

だから今日は楽しい話をする。

劉慈欣短編集「円」に、ちゃんと楽しいおはなしもあってよかった。

 

さて、ナンセンスギャグ・ショートショート「繊維」から行こう。

いわゆるパラレルワールドもので、繊維というのは、各ワールドを表す言葉らしい。

主人公は誤って自分の地球を離れ、繊維を間違える。そのまま施設で保護され、そこには主人公同様繊維を間違えた人々が……という内容だ。

隣り合った繊維は似たようでちょっと違い、主人公一行は地球がピンク色だとか、月がないとか、5進法とか20進法とか、周の文王とコンピュータとかで口論になる。

ぶっちゃけそれだけの話で、その口論をわははと眺めていると終わる、肩の力を抜いて楽しめる短編だ。劉慈欣の描く人間なので、みんな愚かだけれども、特に世界の命運もかかっておらず、ただコミカルで面白い。

一応おはなしのオチとしては、自分は元の地球に帰りはしたものの、その時一緒になった可愛い女の子と仲良くなったバージョンの自分がいくつか出現し、施設でもらったひみつ道具でそれを見ているというもの。

私は何回読んでも「いちばん教養がないのはこの娘だが、彼女がいちばんかわいい」という文面で笑ってしまうし、その娘が主人公を気に入ったきり、壊れたロボットみたいに「あなたは剣闘士」しか言わなくなってしまうのが酷過ぎて好きだ。

しかし、さてこの時代にこんな文章で、怒られないか心配だ。

三体Ⅱでも、ぼくの考えた最強に可愛い女の子とデート、子供も作っていざ新生活!というシーンがあまりに長くて辟易した人もいただろうと思う。

私の周囲でもあそこは頗る評判が悪かった。私もなんだこりゃと思って調べたら、新海誠好きと書いてあってけらけら笑った。新海オマージュなら、まあ、うん……。

まあ、見方によってはミソジニーの大家みたいにも見えるけれども、そんな風に見てもつまんないので、最後に少し面白くなる別の解釈を提示してみる。ミソジニー許せん!って思うひとに響くかは、わかんないけど。

このおはなしのオチは先に述べた通り、自分が分裂する部分である。

主人公はその女の子のことを、馬鹿だけど可愛いな、と思いつつ、作中では冷淡にあしらっているのである。しかし、最終的に自分が分裂してしまう、ということは、結局のところ、その子と一緒になるという欲望が捨てきれなかったということを示している。

そして、その欲望は、パラレルワールドとして見える形になって表れてしまったというわけだ。

ついでに、主人公がそれらの自分を生涯観察し続けるところで、おはなしは終わる。これはどういうことか。まあ書いていないので推察だけれども、これは単純に未練がましく後悔していると見るのがしっくりくるのではないか。

だって、主人公の今の人生は書かれないまま、パラレルワールドを一心に見ている、女の子を魅力的に感じるということは、つまり、パラレルワールドのほうの比重が、現実よりも大きいって、ことでしょう。

私が何を言いたいのかというと、このおはなしにメッセージがあるとしたら、人間だれしも、理性では〇〇するべきでないだとか思っていても、その裏でぼくも〇〇した~い!という欲望を抱えているよね、で、その欲望に従った方が理想的な人生だったかもね??という皮肉なんじゃないかな、ということ。

まあ、でも、劉慈欣的価値観では、どっちに転んでも人間は愚かですというおはなしになってしまいそうですけど。パラレルワールドのほうの主人公は、それはそれで後悔してるかもしれないしねえ。

色々考えると、結構面白い短編だったなと思います。

 

次、「メッセンジャー

これもわかりやすい短編で、ある老人の元に未来人が現れ、老人の心を慰め去っていく、さてその老人の正体はアインシュタインだった、というおはなし。

未来人はアインシュタインに未来の技術を見せつけ、「人類に未来はある」「神はサイコロを振る」と伝え、スーパー時間航行術で去っていく。アインシュタインはかねてから不安に思っていた人類の未来がちゃんとあるとわかり、良かった~バイオリン弾こ、となるわけである。

生涯平和運動に尽力したアインシュタインを称賛し慰める、心温まる良いおはなしである。作中に出てくる演奏のエネルギーで弦が太くなる未来型バイオリンとか、コレ何の得があるんだ?とか最終的に楽器として成立しなくなるのでは??とかいろいろ考えられて面白い。

ただ、多少物理学に理解がある読者であれば、この老人がアインシュタインだということはすぐにわかってしまい、あんまりミステリとしては成立してなくない?とも思える。

物理学を知らなくても、「神はサイコロを振らない」というカッチョイイ台詞でわかる人も多いんじゃないか。

未来人についても、早々にアインシュタインの未来の予定を把握していることから、小説を読み慣れていない人でも、あっこいつ未来から来たなとわかるようになっている。

ミステリというよりは、何か聞いたことがある感じの老人だと思ったら、アインシュタインだったか~というおはなし、となってしまっていて、その部分は若干惜しいと思う。

あと、これは私の個人的な偏見だけれども、、こんな人間は等しく愚かみたいな価値観の人間嫌い劉慈欣が、「アインシュタイン君、人類の未来は明るく素晴らしい!安心してくれ!」というメッセージだけを考えるだろうかという気持ちになった。

未来人の語らない200年の間、マジで戦争とか起こらなかったのかね。エネルギーを質量に変換できるレベルの技術なら、核兵器とはまた違うスーパー兵器ができそうだけど……。

三体Ⅱでも、平和になるまでの大峡谷時代という暗黒時代が存在したので、劉慈欣的未来が明るいとはあんまり思えないんだよな……。

こうやって考えると、ラスト、未来人の「神はサイコロを振りますよ」というセリフはなんか不思議と怖い言葉にも感じられる。今のところ未来はいい時代だけど、結局いつどうなるかわからないんですよ、みたいな。

アインシュタインが最後、寂しくバイオリンを弾くのも、ひと時の安心は得られたものの、結局、絶対の安寧、恒久の平和が得られないという諦観もあるのかなあなんて思ったり。

現実でも、そこそこいい時代だと思っていたら、コロナとか、全く予想だにしない事態が発生したわけで、未来は必ずしもうつくしいとは限らない、んだよなあ。

 

さて、ここで少し飛んで「月の光」の話をしよう。

何故かというと、「メッセンジャー」とかなり似た題材なのに、読み口が180度違うからである。

どのルートを辿ってもハッピーエンドが用意されていないゲームを、マルチバッドエンディング、どうあがいても絶望、などと呼ぶことがあるけれども、この短編はまさにそれである。

メッセンジャー」で読者を安心させておきながら、割と終盤のこの短編で、「いや~アインシュタイン君、やっぱり人類に未来とかなかったわメンゴメンゴ」とか言ってくるわけである。劉慈欣も趣味が悪いけど、こっちのほうを最後付近に持ってくる日本の編集者、かなり趣味が悪い(めっちゃ褒めてます)

未来の自分から、未来ヤバいからなんとかしてくれ!と電話が来る。そして主人公は未来の問題を解決する方法を考える。すると未来の自分からまた電話が来て、その方法だとヤバいから別のに変えてくれと頼まれ、さらに別の解決法を考えるとまた電話が来て、結局何をやっても無駄だし、むしろどんどん悪くなっていくので諦めた、というおはなし。

特に解釈の幅もなく、マジで絶望しかなく、いやあ、劉慈欣的未来の最高峰だと思います。絶望の未来がそれぞれ妙な美しさがあるのも良いし、それを解決するためのエネルギー技術が、たぶん大ぼらなんだろうけど、夢があって面白い。

でもそんな中、さらに炸裂する劉慈欣節が、主人公の人物造詣であある。

主人公、世界のヤバさとかより自分の恋とか家族とか出世のほうが気になっていて、ひたすら質問し続けるのである。それは明かせないって言ってるだろ。

最終的に、もう二度と恋とかしないとか絶望的なことを、他でもない未来の自分に言われてショックを受ける。もう、愚かすぎて可愛いまである。

未来の自分はとにかく世界を救おうと必死で、絶望と希望の中で頑張っているのに、主人公はとりあえず今困っていないので、どこか他人事で危機感に乏しいというのは、まあ劉慈欣氏が今の人類に感じていること、そのままなんだろうと思います。

タイトルの「月の光」は、冒頭で語られていて、イルミネーションのない、廃墟のような暗い街並みを照らす光。主人公は、片思いの女の子が結婚してしまった夜、そこに終末の安らぎを感じている。

これも酷い皮肉で、結局主人公は随分先の未来で、安らぎどころではない終末の地球で苦しむことになるわけだ。ついでにやっぱり恋人もいない。

「月の光」は非常に完成度の高い短編で、色々な面で面白いのと、この短編集の中ではかなりオススメです。ちょっと地味だけど。

 

最後に「詩雲」だけれども、これがまた、レベルの高い短編である。

「郷村教師」や「繊維」のような、妙ちきりん宇宙空間のおはなしで、人間は過去からパワーアップしてやってきた恐竜たちに家畜化されている。今や太陽系は恐竜たちの帝国、吞食帝国となった。そんな中、より高次の存在たる神がやってきて……というおはなし。

いやあ、もうこの時点で割と最高、と思っていたら、恐竜に家畜化されるまでは別に「吞食者」という短編があるらしい。この作品は、その後日談というわけだ。

「呑食者」は日本で今後発売される短編集に載るらしいので、それもそれで楽しみですね。

さて、まず最初の面白ポイントは、恐竜が神に人間を捧げに行ったときの神の反応。とにかく悪し様に言われるのである。

「我が好むのは完璧な小さい生き物だ。そんなみっともない虫けらを連れてきてどうする」

からはじまり、

「その小さな生きものの猥雑な思想、下劣な行動、そして混乱と汚辱にまみれた歴史は、すべてが嫌悪に値する。(中略)ただちに捨ててしまうがいい」

と続く。言いたい放題なのである。

そのうえ、この意見は神だけのものではなく、人類が知的生命体とコンタクトできなかった理由として書かれている。恐竜が現れて支配されるまで、どうやら人類は宇宙人たちから嫌悪されていたらしい。

宇宙規模で嫌われる人類、どんだけヤバいんだよと笑ってしまう。

しかし、捧げられる人間は詩人であり、漢詩の書かれた紙をたくさん持っていた。神はそれをうっかり拾って、うっかり感銘を受けて、李白になる。

なんでだよ。

神はテクノロジーの力で何でもなれるし、何でもできる、李白を超える芸術を作り出すことも可能と告げるが、詩人はそんなのは無理、李白は超えられない、人間の芸術はすごいと喧嘩。こうして始まる、テクノロジーVS芸術。

ここから第二の面白ポイントに入る。

李白になった神は、とりあえず人間のまねごとをして、酒飲んでゲロ吐いたり、旅をしてボロボロになったり、尿を蒸発させた後の白いやつで肉を煮たり(伝統的な製法らしいですね)、なんかめちゃめちゃがんばっている。

結果、素晴らしい詩は書けるけど李白は超えられない……とか言う。

なんてストイックなんだ神。努力の化身すぎるぞ神。

しかしそんな神に、詩人は、やっぱりテクノロジーは芸術に勝てないじゃないかと説教して煽る。こいつ、人間の中ではちょっと特別扱いされていて、食料化されず悠々自適にお一人様牧場物語してるくせに、なんか偉そうなのだ。

そんな煽ったら神様怒っちゃうだろ、と読者は思うのだが、ここでついに神が神たる真髄を露わにすることになる。

最後にして最大の面白ポイントである。

詩、全部書いて、保存する。あらゆる漢字の組み合わせパターンをすべて試みれば、そこに李白の最高傑作も含まれている。

詩歌、終了のお知らせ。神ちょっといくらなんでもキレすぎでは?

そしてその膨大な詩を記録するにはどうするのかというと、「いまあるものを使う」ということで、太陽系に保存することとなる。

つまり、世界は滅亡する!ヤッター!

ここ、恐竜のほうがマジギレしているのに、詩人のほうは、恐竜の支配から逃れられるということで、めっちゃニコニコして楽しんでるのが最高に面白い。

そしてオチだが、この素晴らしい詩歌プロジェクトは完遂され、あらゆる詩が保存された詩雲として姿を変えた太陽系を、何故か生きている詩人と恐竜が見つめている中、神が登場する。

泣きながら。

「わしには芸術におけるテクノロジーの限界が見えてきた。わしは……」彼はすすり泣きながら言った。「わしは敗残者だ……ああ」

結局、あらゆる詩は書いたものの、傑作を識別するテクノロジーが作れませんでした、ちゃんちゃん。

神、ストイックすぎるぞ。そういうところだぞ。っていうか太陽系滅ぼす前に気付けよ。おっちょこちょいか。

話の大筋はこんなところなのだが、ここに書ききれなかったツッコミどころも要所要所にあって、それもとても面白い。家畜化された人間が詩を学ぶと美味しくなるとか意味わからん設定過ぎて好き。

もしまだ読んでいないという方は、ちゃんと本編もお楽しみいただきたい。たぶん、想像以上に滅茶苦茶で面白いですよ。

 

また長くなった。

今回は、エンタメ感が強く、いつもの(?)劉慈欣的人間は愚か節も多大に含まれている4作を選んでレビュー(解説?)してみた。

個人的にはやはり「詩雲」が全編ぼけ倒しのツッコミ待ちで、笑えるし面白いし好きです。あんまり絶望感がないけど、よく考えるとうすら寒いおはなし「月の光」も、劉慈欣らしくて好き。

「詩雲」は色々感想を漁っている中でもかなり人気なので、いちばん最初に読むのにいいかもしれない。

次は、これまた人気な「円円のシャボン玉」周辺をレビューしてみたい。

でも、ほんとうは一番語りたいの「栄光と夢」なんだよなあ……。

しかし流石に今読み直すと自分にもダメージ来そうだし、今の状況でレビューを読んでもらって、読者に誤解されても嫌だし、しばらくはやめておきます。

そういえば、今月の後半はイーガン読書会(身内でやってるやつ)があるので、終わったらそのまとめも書きたいと思います。良かったらそちらもよろしく。

葉文潔大好きマンが劉慈欣短篇集「円」について語る(鯨歌、地火、郷村教師まで)

三体3が発売された時、そこに葉文潔がいないのが悲しかったのを覚えている。

三体シリーズはエンタテイメントSFとして傑作である。多くの人が時間や寝食を忘れて物語を貪り読んだはずであり、もちろん私もその一人だ。

それでも、滅茶苦茶面白かったけども、シリーズの中で私が期待したものは結局は書かれなかったなという思いがあった。

作者である劉慈欣氏が、完結後のインタビューで、こんなことを言っていたのも引っかかっていた。

もし、わたしが知っているような科学者を作品に登場させたらウケないと思います。作中の人物たちは、読者が感情移入したり理解できるように特徴を出して描いていますが、現実の人たちはもっと複雑ですからね。

私が思うに、三体シリーズの中で、葉文潔だけはほんとうに人間だった。そして、それは、たぶん、理解されなかった。ウケなかったわけだ。

……いや、私には滅茶苦茶ウケたけどね!!

まあ、ウケたのはそれこそ、象徴的・記号的な人物の極みである、史強や艾AAなどであろう。

正直私だって好きですよ。普通にこの二人最高じゃん。あと、章北海やトマス・ウェイドもいいよね。

でも、それでも私は葉文潔を愛していたし、彼女の物語のようなおはなしをずっと待ちわびていた。

ちなみに葉文潔については、ブログの一番最初の記事で書いているので、良ければぜひお読みいただきたい。

ぶっちゃけ渾身の記事である。葉文潔に言及した記事としては、いちばん説得力があると思う。

……葉文潔への言及記事とか他に見たことないけど。

当時はぜんぜんブログとかやる気もなく、そもそも才能のない文章をこれ以上書くのは無駄だと思っていたんだけど、世間の葉文潔への無理解さが許せなさ過ぎて頑張ったのだった。

まあ、こんなライターでもなければブロガーでもない人の戯言なので、反響などほとんどなかったわけだけれども、それでも世界のどこかに葉文潔についての記事があることは、何か価値があるんじゃないかと思っている。

さてはて、そんなわけで、待ちに待った、劉慈欣短編集「円」である。

遅ればせながら、先日、やっと読みました。

間違ってなかった。それが一番初めの感想。

この短編集の中には、劉慈欣の絶望と戦いが存分に詰まっている。そして、私が葉文潔に見た、複雑で深遠な人間の在り方がうつくしく描かれている。

エンタテイメント性は薄い……というわけでもないけれども(鯨歌や繊維、メッセンジャー、円はかなりエンタメ性が強い作品だろう)ただ、三体並みに面白いかと問われるとちょっと黙ってしまう。

そんなわけで、エンタメ性に特化した面白いものが読みたい人には、たぶん向かないと思う。代わりに、三体シリーズでも微かに伺える劉慈欣の信念や思想に触れたいという人には、これ以上ないほど満足していただけると思う。

自分を顧みるいい機会にもなる。私はなった。

葉文潔のために始めたこのブログで、「円」に言及しないわけにはいかない。

実はしばらくメガテンあたりを書いていこうと思っていたのだけれども、ちょっと中断して、「円」について書いていきたいと思います。

 

まず、最初の「鯨歌」だが、エンタメ性が強い作品にも関わらず、あまりにも人間への絶望感と自然への畏怖が強くて驚いた。

確認したらデビュー作だった。まじかよ。

出てくる人物は、探知機が進化したために麻薬を運べなくなったマフィアの親分と、生体機械化した鯨ならば麻薬を運べると請け負う科学者の二人。

この時点でSF的に面白すぎて、エンタメ作品への天才的な才能を感じるのだけれども、やはり劉慈欣特有の要素として、鯨の雄大な姿と歌、そして科学者の生き方が挙げられると思う。

鯨の体内に船を載せ、麻薬を運ぶというのがこの作品の面白さだが、なにより鯨のうつくしさに描写がかなり割かれている。

もはや生体機械化され、人間の傀儡となっているはずの鯨だが、それを物ともせず歯を鳴らして食事をし、歌を歌う。その歌は”意味が深淵すぎて、人間には理解できない”と語られる。そして、”遥かな過去の記憶を持ち、生命の歌を歌っている”

その歌は、捕鯨船に撃たれ、死に至る瞬間まで続く。人間たちに好き勝手改造され、最終的に殺されてしまうにも関わらず、鯨は決して抵抗することがないが、傷つき苦痛に悶えることも、また、ないのである。

対して、人間は随分と自分勝手に描かれる。

麻薬取引を試むマフィアは、人の命や身体を弄び、益があるとわかればすぐに意見を覆す、自分勝手の極みみたいな人物として描かれている。科学者は鯨を改造して操り、自分の好きなように動かしている。

そしてこの二人の目論見は、同じ人間、それも彼らと同じような自分勝手さMAXで法律違反の捕鯨に手を染める人間たちによって挫かれるのである。

さて、自分勝手な人間が自業自得で死ぬ話は数多くある。自然と人間を対比するのも珍しくない。話の筋やオチに関しては、この話より面白く書いてあるおはなしも多いだろう。

劉慈欣が凄いのは、筋でもオチでもない。このおはなしは、さらに輪をかけて人間を語る。

科学者の人格はあまり描かれないものの、わずかな会話で、国家に貢献するために非道な研究に手を染めたはいいが、予算がなくなり、お払い箱になって放浪していたとわかる。

短編にしては、ぶっちゃけ情報量が多い。だからこのおはなしの構造が、意図したとおりの成果が上がっているかと言えば疑問だと思う。

ただ、ここから劉慈欣が狙ったのは、たぶん、反道徳・反体制たるマフィアやマッド科学者だけが自分勝手なのではなく、国家も自分勝手、ひいては人間全部が自分勝手で道徳がないという構造なんじゃないかなあと思うのだ。

ここまで徹底した人間嫌いっぷりが、劉慈欣なのである。と、私は勝手に思っている。

ぶっちゃけ、かなりごちゃついた作品だと思うし、短編にしては情報を詰め込み過ぎと言わざるを得ないんだけど、エンタメSF短編の中に、自身の人間観、自然観を入れ込んでしまうメッセージ性の強さが私は結構好きです。無印の三体と通ずるところがあるよね。

 

「地火」もやっぱり「鯨歌」と同じで、人間の愚かさ、どうしようもなさに焦点が当たっている。

この二つを短編集の最初に持ってくる編集者、上手い。劉慈欣の自己紹介として、この二作品はあまりに的確過ぎる。

「地火」はエンタメ性が薄くなり、SF設定にも薄く(石炭地下ガス化って実際に行われている事業だよね?)どちらかというとドキュメンタリーのようなタッチで語られる。

ので、読んでいて結構辛い。主人公たる劉欣が、炭鉱で働く人たちを救うための技術を生み出し、数々の失敗フラグを立て、そして失敗してたくさんの人が死ぬ災害を作り出し、ろくに責任も取れずに死ぬ話だ。

「鯨歌」と異なり、ここには正しいことを為そうとする人間たちが数多く出てくる。自分勝手に生命や自然を弄ぼうとする人間は一人も出てこない。国や未来のために尽力する人間たちばかりだ。

しかし人間は愚かなのである。

「鯨歌」と同様に、この作品のドキュメンタリー的な部分を、もっとうまく書ける作家は多くいるだろう。しかし、これほどまでに徹底した人間への絶望は、劉慈欣ならではである。

このおはなしは事業が失敗してたくさん人が死んだというおはなしが肝ではない。

正しいことを為そうとした結果ドツボにハマっていく人間たちの葛藤や戦いはもちろん面白い。

もう駄目だとわかっていてなお坑道の人間を救いに行かざるを得なかった李民生の笑顔があまりにうつくしくて涙ぐんでしまったし、何もかも失った劉欣が皮肉な形で父との再会を果たすラストシーンは救いがなさ過ぎて唸ってしまった。

しかし劉慈欣はこの胸に突き刺さる棘を、あまりに意外な形で抜いてしまう。

昔の人はほんとにバカで、昔の人はほんとに苦労した

百二十年後がこのおはなしのエピローグだ。

中学生が授業で炭鉱を見学し、歴史を聞いて退屈だと日記に記す。それまで描かれていたことは歴史には残っておらず、一顧だにしない。

炭鉱の体験をしようと防塵マスクを外した少年は、称賛されることなく、規範から外れたことを責められ、入院させられる。

名実ともに、”ぼくらは”古きよき時代”を懐かしむ必要はない”のである。

もう一度言う。このおはなしには、自分勝手な悪人はいない。しかし、人間は愚かなのである。

「鯨歌」「地火」二つ合わせて読むと、こんなにも人間への絶望で満ち溢れた作家はいないのではないかとすら思える。

こうして見ると、葉文潔は劉慈欣そのひとを投影した人物で、だからこそエンタメ作品の三体シリーズの中で、ただ一人人間であったのかなあ、などと、思う。

 

では人間には絶望しかないのか。

もちろん、そんなことはない。そんな浅はかな思想しかない作家が、あれほどの傑作を書けるはずがない。

劉慈欣は絶望し、嫌いながらも、人間という存在の魅力について、飽くなき探求を続けているはずだ。

それが分かるのが3つ目の短編「郷村教師」である。

エンタメ色は強い……ものの、結局エンタメにする気がない。読み終えてエンタメだったという人はいないだろう。三体シリーズでの三体人や歌い手などに見られた、トンデモ滅茶苦茶SFの宇宙人が絡んでくるので、エンタメっぽく見えるだけだ。

このおはなし、大変人気が高い。実際、SF部分の滅茶苦茶ささえ受け入れられれば(まあ三体読者なら大丈夫かと思うけど)この短編集の中では屈指の傑作、人によっては一番の傑作だろうと思う。

私も、通勤のバスの中で思わず涙してしまい、読むのを一旦中止せざるを得なかったほど心を動かされた。

そして、前2作品を読了したからこそ、これはより響くのである。

例によって愚かな人間の話だ。

貧すれば鈍するを体現したかのような田舎の人間たち。飲酒や祭りなどその場限りの快楽を貪るしか楽しみがなく、金を浪費し、学もなく、求めず、生活を良くしようとも、良き人間となろうともしない。

何度も読みたくないから詳しく書かないけど、出産絡みのシーンはリアルに吐き気がした。

そして、そんなクソ田舎で学問を教え続けるのが主人公の李先生だ。感謝されるどころかバッシングされ、電気すら通してもらえない学校で、死の病に侵されながら、ただ彼は死ぬまで一心に、子どもたちに学問を教え続ける。それが役に立つのか、そもそも理解できるのかもわからぬまま……。

ここまでは、前2作品と変わらない。違うのはその先が書いてあることである。

彼と彼が教える学問、そして教え子たちは、奇跡を起こす。

前述した無茶苦茶星人たちの宇宙戦争の余波で、地球を滅ぼさんとするまさにそのとき、彼の教え子たちが戦艦に召喚され、文明レベルテストを受けることになる。文明レベルが高ければその星は守られるのだ。

当然、高度な学問を彼らが習得できているはずがない。しかし、李先生が死の間際に教え、わけもわからずに暗記させられた基礎物理学の問題が、そこにあったのだ。

そして地球は保護されるというわけである。

なんとも滅茶苦茶なおはなしである。それでも、李先生に報いようと、子どもたちが力の限りに暗唱した「ある物体は……」という一説が流れたとき、バーッと吹き出るように涙が出た。

無茶苦茶だし、そのうえ筋も読める。どうなるかなんて、半分くらいで大体わかってしまう。それでもやっぱり、どうしても泣いてしまう。これはそういうおはなしなのだ。

子どもたちは、自分が地球を救ったことはわからない。大好きな李先生が死んでしまって、悲しくて辛いだけだ。李先生は世界に名を残すどころか、棺桶代も出してもらえず、子どもたちの作った小さくはかないお墓で眠る。

しかし、おはなしはこう締めくくられる。

彼らはこうして生きつづけ、この古くて痩せた土地にもわずかながらたしかに存在する希望を収穫するだろう。

人間に絶望してなお、一縷の望みを教育と学問に預ける。祈りのような、わずかな希望。それが無意味でないと信じること。いつか何か、途方もなくおおきな力になるかもしれないと、願うこと。

この「郷村教師」は、劉慈欣の思想そのものを体現した作品だと思う。だからこそ、大勢の人の胸に響くのだろう。

劉慈欣というひとは、とても情熱的で、そしてただただ、誠実なひとだ。

葉文潔が好きなのと同じに、私はその思想が好きです。

 

長くなったし疲れてきたので、一旦これで切りたいと思う。

全作品やりたいので、しばらく頑張って感想を書き残していきたい。無理なら「栄光と夢」だけでも書く……。「栄光と夢」も最高なので……。

けど、円はこの3編を読むだけでも2千円の価値はあると思うので、まだ読んでいない方は是非読んでください。できれば、最初3編は順番を変えずに読むのをおすすめします。