かみむらさんの独り言

面白いことを探して生きる三十路越え不良看護師。主に読書感想や批評を書いています。たまに映画やゲームも扱っています。SFが好き。

誰も読み終わらないハードSFの極北!読むだけで凄いからみんな読もう!(イーガン読書会⑩「エターナル・フレイム」報告)

直交三部作は1部が大学生編、2部が大学院デビュー編、3部が最新の物理学者編と言われているらしい。

というわけで、今回の課題本「エターナル・フレイム」は大学院生レベルの知識がないと理解はできないとのこと。

いや、わかるところだけわかればいいのよ!といつもイーガン作品を色んな人に勧めている主催(大学院どころか大学レベルの知識もない)なわけだけど、さすがに今回は本当に難易度が高いようだった。

まさかの初読の参加者、全滅である。

会の開催1週間前からして、次々と聞こえてくる挫折に、不参加表明……。山岸先生とハヤカワ書房さんにリポストしてもらい、参加者を募っていたのだが、リポスト先で「(挫折者が多いなんて)イーガンらしいね」と言われてしまう始末。

そして会が始まる1時間前に聞こえる悲鳴……「読み終わらない」

そんなわけで始まったイーガン読書会、記念すべき第10回目!(特別編を除く)

集まったのは再読のイーガン精鋭オタク5人(主催含む)と、読み終えられなかったけど話を聞きに来てくれた諸読の2人!ありがとう!!

基本的に課題本の読破が参加に必須ということにしていますが、これは主催が以前読書会で全く読んでいないのに来て関係ない話をする人に出会ったトラウマが若干あるためなので、イーガンの話したいよ!っていう方は読み切れなかった方も大歓迎ですマジで。

ネタバレOKだよお話聞きたいよ、という方がいれば適宜対応します。ネタバレを聞いてからの方が楽しく読める場合もあると思うしね。

次回のアロウズ・オブ・タイムもかなり難易度が上がると思うので、もし挫折したけど気になるという方などいれば、連絡ください。

さてこの「エターナル・フレイム」、大学院生並みの知識がないと理解できない、イコール面白くない、というわけでは全然ない。

やはり初読は大量の図と方程式の渦に飲まれ、できる限り理解しようとしたが分からない!となってしまう。再読の精鋭陣も、読み終えるのに1年かかった!という方も。

しかしそんなハードSF部分だけが本作の肝ではなく、それと同じくらい比重の大きなテーマとしてジェンダー問題や、女性と出産についてがある。

直交三部作はそもそも女性人気がかなり高いという。主催もジェンダー部分の話だけでも読むべき!という意見を多く見た。

それはこのテーマが非常に面白く、カタルシスたっぷりに語られているからだろう。そして、この「エターナル・フレイム」でその問題は一つの解決を見るのである。

個性的なキャラがそれぞれの思想や選択を語るヒューマンドラマ的な面白さも十分にあり、また、物理学のことはわからないとしても量子力学の発見と実験の過程の感動は追体験できるし、理解できる。

孤絶は科学者にとってのユートピア。クロックワーク・ロケットのころは、腐敗したアカデミズムを見せつけられて腹が立つ読者も多かったかと思うが、それが今回報われている。

クロロケと今作の教師と学生と対比して読むととても気持ちよいのでお勧め!

世間一般でSFに求める物が詰まっているという参加者も。エネルギー問題の解決!科学的ロマンと勝利!難解な物理学!(これは求めてないと突っ込みも入った)

そんなわけで、今作は物理学がわからなくてもおはなしとしては理解しやすく、うまくバランスが取れているという意見も多かった。イーガン小説上手くなったという、あたらしイーガンでは定番の意見ももちろん出た。

私はイーガンは、「キューティ」のころから小説が上手いと思うけれども、直交三部作は特にキャラクターの描き方が秀逸だなと思う。行動一つ一つに個性があり、納得感がある。

イーガンのおはなしは、テクノロジーで問題を解決する!という所で終わらず、最後の最後は個人の考えや選択に収束するというのが、とても良いよね。

 

さて、やはり会の中でも盛り上がったのは、ジェンダーと出産の話について。

ある参加者は、女性が死なずに出産できる方法が見つかった際の男性側の狼狽を見て、選択的夫婦別姓問題を思い出したと語っていた。

選択肢が増えるだけなのに、何故こんなにも拒絶するのか?それ一つ認めるだけで、救われる人がいるというのに、という話を聞き、確かにその通りだと思った。

今作は前作に比べてジェンダー色が強く表れており、タマラがブユに乗ることを家族に許されず、双に出産を迫られるシーンなどは、現実の女性問題を盛り込んでいると感じざるを得ない。私はこのシーン、あんまりにも恐ろしくておぞましくて、kindle投げるかと思った。

そのような女性と男性それぞれの双に対する悩みや思想、解決策などを経ての、「それはわたしが子どもをひとり産んで、生き続けられるということですか?」というパトリジアのセリフは、単にこの世界での一問題が解決した以上のカタルシスがあるように思う。私なんかは未だに涙ぐんでしまう。

女性にとって、妊娠・出産というのは、身体的・精神的に大ダメージを負う。時には死の危険すらある。死までいかずとも、人生を左右する大病に掛かったり、一生、障害や後遺症が残るリスクだってある。

キャリアが途切れてしまうことで、社会的に死ぬ人だっている。家族の関係が崩壊することもある。〇〇の母となることで、自身のアイデンティティを失ってしまう人も多い。

死が怖いのと同じように、私は出産があまりにも怖い。

だから、今作で解決策が提示されたとき、テクノロジーがとても進歩したら私のような人も子どもを産めるようになるんだよ、私が持つ恐怖は克服できるのだよ、と言われたような気がして、なんだかすごく救われたような気持ちになったのである。

この辺りは、実はもう少し具体的に話したのだけど、ちょっとセンシティブな話題なのでまとめでは控えておく。

ただ、男性陣にとっては中々得難い価値観のようだったので(私にとってそれは割と驚きだった)、色々と話が出来て良かったと思います。

対して、男性の立場から双という存在についての話が上がり、パートナーに対する関心の深さが描かれているのが良いという意見も面白かった。

女性の問題に対して、他人事でないと感じられる良さという話を聞き、こちらのほうは女性には得難い価値観だなあと思う。

女性問題の話をする時、男性は関心がないことを前提に語られることが多いように思う。そういう意味で今作は、自身の半身としての双の問題なので、男性側もいつだって必死なのだ。

特に、カルロはショックと不安を抱えながらも双の選択に寄り添い続ける、非常に理想的なパートナーとして描かれていたしね。

カルロで始まって、カルロで終わり、いちばん主人公らしいという意見もあり、ジェンダーに焦点を当てた作品でありつつ、かなりの部分を男性側の視点が占めているというのも、フラットな価値観を描き続けるイーガンらしさが出ていた部分かもしれない。

ついでに、テクノロジーが発達しても残る社会問題を、更なるテクノロジーで解決しようとするイーガンの覚悟みたいなものも、やっぱり良いよね!という話になった。

政治や社会システムじゃなく、あくまでテクノロジー!人間(じゃないけど)はテクノロジーでなんだってできるんだという希望。

果たしてそればっかりでいいのか?という突っ込みも、こんなに考え尽くされていればいけそうだな…という説得力の強さも、イーガン作品の魅力ですね。

アロウズ・オブ・タイムはさらにその価値観が強化される最高の希望に満ち溢れたSFなので、今から再読するのがとても楽しみ!もっと読んでくれる人が増えるといいのにな。

 

ジェンダーの話から、ラストシーンの解釈についての話にもなった。

参加者の一人は、せっかく出産がなくなったのに、カルラがあえて従来の出産を選択することにもやもやしたとのこと。その方は、出産をこの世界の理不尽さが集約されたものとして読んでいたよう。

私は、このラストを、「鰐乗り」で描かれた、死なない世界でいかに死ぬか?というテーマに重ね合わせて読んだ。

カルラは自分の人生で最上の瞬間が今まさに訪れ、ここで人生を終わらせるのがベストであることを悟ったのだと思う。

また、ここで完全に一児出産の選択しか取れなくなってしまうことは、男たちが一児出産を拒絶して争いになった状況と同じになってしまう、という気もする。

あらゆる個人のあらゆる選択が尊重されるイーガンの倫理観には、毎度のことだが頭が下がる思いです。

ラストシーンでは、カルラ以外にも、アーダは双と娘、パトリジアは娘と二人でいる、という選択肢の広さが提示されているとの指摘もあり、本当に細かいところまで配慮が行き届いていると感心。

政治的にも、1児出産を発明したカルロが双と従来の出産を選ぶことは意義があると話してくれた方もおり、確かにそうだ!と思った。

また、このラスト、物語的に非常に綺麗な終わり方だった、と話してくれた方もいた。

今読み直してみても、非常にロマンチックで、美しい終わり方である。

どうなったかの結果は書かず、しかし、ここまでのおはなしを読み、カルロというキャラクターを知り尽くした読者には、カルロがカルラの選択を尊重したことは明白だとわかる。

そしてこのラスト、生まれたのは4児なのか?2児なのか?が気になったという方がいて、その方としては、カルロの節食が2児出産に繋がったのでは?と考えたとのことだった。

今となっては2児出産の研究は無意味となってしまったが、本来は2児出産を安定化させるための研究を行っていたし、樹精の雄の栄養状態の影響を研究するという話も出ていた。

そしてカルロは、ラスト、もう必要とは思えない節食を行っている。実はカルロ自身もカルラの選択を想定し、しかし4児出産になれば育てていけないため、密かに準備をおこなっていたのでは?

意図してここまで細かく描かれていたのかと思うと、そのあまりの緻密さに舌を巻いてしまう。

そう、何回も言うけど、イーガンは小説が上手いのですよ!だから読んでいて面白いのです!

 

テーマやおはなしの面白さ以外にも、今回は大学院レベルの知識を持った理系の方にいらっしゃっていただいたので、直交世界について、一般レベルでわかる程度の話をしてもらいました。

その方は化学系の方なのだけど、前作で水がない世界というところにかなりの引っ掛かりを覚えたらしい。

水がないというのは電磁力がないということ。このプラスマイナスの力のバランスによって、液体や固体が存在するため、いやこんな世界存在しようがないのでは?と感じたのだそうだ。

化学の常識が全くない世界で、これってどういうこと?という疑問に、今作は見事に説明を付けてくれている。

つまり、スピンの相互作用で世界が作られているのだ!ということである。電磁力が存在しないことから、我々の世界にもあるスピンの力が表に出てくるようになった、ということのよう。

この世界は実はデジタルな世界!とかいうのではなく、しっかりと存在しうる世界なのだということが示されている。

まあ、デジタル世界の生命については、イーガン結構書いてるから、そっちが書きたいならそういう風に書くわな、という感じではある。

正直、説明を聞いてもそんなにわかんないんだけれども、イーガンの描きたい世界について、科学者しか分からない領域を少し覗き見た気がしてとてもワクワクした。と同時に、こんなの私の頭では永遠にわからんのじゃ……と悔しくもなる。

理解は無理だけど、やっぱりイーガン読んじゃうんだよなー!と言っている方もいて、まじでそれな!と思います。

しかしこんな説明をしてくれる方も、「アロウズ・オブ・タイムは僕もわかんないです」とのことだったため、みんなで安心した。

本職もわからんのに一般人がわかるわけないので、まだ読んでいないひとたちも、安心して読もうな!!

 

いやあ、今回も楽しく、色々な視点から議論が出来てとても楽しかった。

自分にはない視点や解釈を聞くたび、イーガン作品に対する愛と尊敬が深まりますね!

ただ、今回、初読で読了できた人がいなかったのは、少し残念だったかな、とは思ってて……。

いやーもう少し早くから宣伝したり、面白さを伝えたりしたら違っていたのだろうか、と今更後悔。1週間前にいっぱいリポストされたけど、ちょっと遅かったんだよなあ……。

イーガンの話ができる場所が他にない、直交やっているところがない、という声も聞くので、また機会があったら新規読者を獲得し、読み終えられるよう早くから応援し、もう一回やりたいよね。

まあ、私は何回でも読むし何回でも喋るし何回でもまとめ書くので、興味がある方はほんとうにお気軽に声かけていただきたいものです。

こんな中でも、頑張って読んでいただいた初読の方たち、挫折した方も含め、ありがとうございました!あとは読み切るだけなので、頑張ってください。挫折した方も何年かして再挑戦してください。

次回は、とうとう直交三部作のフィナーレ!「アロウズ・オブ・タイム」!

一応予定としては、8月4日(日)15時からを考えています。

期間がそこそこ空くので、今回読み切れなかった方も、挫折した方も、もう一回挑戦してくれると、とても嬉しいです。

冒頭で書いたように、読み切れなかった方でも、ネタバレでいいから聞きたい!と思っていただければ参加OK!

また、GWに入るということで、GW特別編として、短編集「祈りの海」から、三篇「貸金庫」「ぼくになることを」「祈りの海」を課題作として、読書会を開催したいと思います!

日時は、5月5日(日)のこどもの日。いつもどおり15時から行います。近くなったらX(@egandokusyokai)のほうでツイプラを投稿するので、そちらに参加表明をお願いします。

GWにじっくりイーガンを読もう!という方も、GWなんかないけどイーガンを読みたい!という方も、どしどしご参加お待ちしています。

「祈りの海」は全編名作であり、課題作にしていない作品も語りたくなっちゃうと思うので、時間があったら課題作以外も読んでね!

では、今回ご参加いただいた方々、参加できなかったけど読もうとしてくださった方々、ありがとうございました。特別編も次回のフィナーレも、楽しみにしています。ぜひよろしくおねがいします。

イーガン最新作は優しい世界に祈りを込めて(イーガン読書会新春特別編「堅実性」報告)

前回の読書会で話題になった日本でのイーガン最新作「堅実性」、評判がめちゃめちゃ良く、読書会したら面白いんじゃない?なんて参加者からも言われちゃったもんだから、すぐにその気になっちゃって急遽決まった新春特別編。

年末のバタバタとした中で参加者を募っていたので、人集まるのかな~、そもそも短編1作で2時間喋れるのか?私の独演会にならないか?など、色々不安があったのだけれども、蓋を開けてみたら参加者は私含め10人!

参加者が多かったこともあって、2時間みっちり語り尽くすことができました。

前回の報告でも書いておりますが、正直ちょっと使いづらくなってしまった某SNSの中で、いつも拡散して頂いているイーガンファンの皆さんに、翻訳の山岸先生、ハヤカワ書房さん、本当にありがとうございます。

今回初参加の方もおり、「堅実性」が初イーガンという羨ましい方もいらっしゃいました。私も可能なら一度記憶を消してから「宇宙消失」の凄さをもう一度味わいたい……。

春夏は直交やっているはずなので、その間は固定メンバーになりそうだし、ゴールデンウィークあたりで、また短編を拾って特別編でもやりたいと思っています。

正直、イーガンは短編集もボリュームがある作品が多くて、全部読書会で語ろうとすると結構話回すのが大変なので、多くても2,3作でやっていけたらいいかなと。

まあそんなことはともかく。

今回は、SFマガジン12月号に、ソラリスの漫画と一緒に推されて掲載の「堅実性」!

まずタイトルがいい。「確かなもの」とか変にやわらかい感じのタイトルにならなくてほんとうによかった!ちょっとビジネス書的な趣はあるけど……。

そして、内容も傑作。多層的なテーマを扱い、様々な解釈が可能で、その人の経験や環境、読むタイミングによって受け止め方ががらりと変わる作品で、今回の読書会でも、自分では思いつかなかった意見があったと感想が上がった。

今後イーガンの代表作として語られるだろうし、短編集が出たら目玉の作品になるだろうという話になり、人にも勧めやすい!と多くのイーガンファンが嬉しくなる作品でもある。

イーガンファン、急にディアスポラとか勧めて敬遠されがち(ディアスポラはみんな挫折しがちなので、やめよう!)

イーガンを長年読み込んだ人にとっては、イーガンがネクストステージに進んだという見方もあり、また、現実と地続きの設定や少年の視点は原点回帰にも見えるという感覚もあり。

今までアイデンティティやコミュニケーションについて、丁寧に実験・考察を重ねてきたイーガンだからこそ描けるテーマが盛りだくさんで、そこに量子力学のギミックを重ねたアイディアも、物理学に精通したイーガンならではのもの。

イーガン小説上手くなったよなあという話もあり(ビット・プレイヤーでもそんな話したね)。まあ昔から上手いんですけどね、万人に通ずる上手さになってきたということなんだと思います。

ちなみに主催はキューティの頃から上手いと主張しております。キューティ大好きなので……

作中では人間が入れ替えられてなお世界が成立しており、テセウスの船を連想する方もおり、人間が部品のように入れ替え可能という考え方はIT系っぽい考え方だよね、という意見もあった。

似たテーマを扱う作品としては、山本弘シュレディンガーのチョコパフェ」、小林泰三「失われた過去と未来の犯罪」が上がった。両方とも、世界や人間が急に切り替わった中でどうにか生きていくという話。

両方とも読んだことのない作品なので、今度読みます。

私はマルチバースものとも近い感覚があり、「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」を挙げた。内容は全然似ても似つかないけれども、帰結は似ている気がする。

テーマが近いイーガンの昔の短編を上げるとするなら、「貸金庫」「無限の暗殺者」「ビット・プレイヤー」などでしょうか。特に「貸金庫」は近いような気がするのと、めっちゃ面白いので、みんな読みましょう。

 

さて、私はこのおはなし、1回目はSFマガジン発売当初に読み、イーガンがアイデンティティの話を極めた!という印象があったのだが、つい先日、2回目を読み終えたとき、これは災害の話なのだと思った。1回目はスルーしていたラフィークおじさんがオマール少年を懸命に守る姿や、堅実性宣言に胸を打たれ、泣いてしまうほどだった。

他の方はどうか、と聞くと、私と同様、災害の話と読む人もいれば、社会倫理の話と読む人、現代社会へのメッセージと読む人、少年のサバイバルものと読む人、と様々。

災害の話と読んだ方は壺井栄「母のない子と子のない母と」がずっと頭に浮かんでいたという意見があった。戦争のさなか、タイトルそのままの状況で、助け合っていく親子の姿を描いた作品とのこと。

Kindle版が280円で売っているので、こちらも今度読んでみたいと思う。

コロナ禍を思い出したと語るこの方は、悲しみの中立ち上がる主人公オマールを見て、自身の家族についても思いを馳せた様子。自分が同じ状況になったらどうするかと考え、子どもたちに幸せを見つけて生きていってほしいと語る姿が印象的だった。

この話の中で、ラフィークとオマールも上がり、二人が親子に見えるかそうでないか、というのも人によって分かれた。

私はラフィークは父親ではない、あくまで優しいおじさんでしかないと思っていて、おじさんは永遠に見つからない息子をずっと探し続けているのだと思っていた。

ラストでラフィークがいないというのも示唆的で、ラフィークはやはりオマールが息子でないことに耐えられなかったのでは?という意見も上がる。

オマールは少年であり、「みんなが同じことをし続ければ良いのに」という純粋な思いを抱き続けている。ラストでも前向きに世界を捉え、未来に向かって進んでいく。

この前向きさがカッコいい!という意見も多かった。中学生という純真さと大人びた意識を併せ持つ年齢で、若々しい柔軟さで世界を渡っていくことができる。堅実性ネイティブという言い方をした方もいて面白かった。

対するラフィークは、堅実性非ネイティブなのである。現実的で他者との関りを重視している。家族を諦めきれず、会えない辛さをオマール以上に痛烈に感じている。

彼らは支えあうことこそできたが、家族にはなれなかったのじゃないか、と私なんかは思うのだが、結局これは家族というものをどう定義するのかにもよるんだろうなあ。私はちょっと家族に対する憧れが強すぎるので……。

これは余談だけど、読書会が終わった後酒飲みながら考えたんだけれども、オマールにとってはラフィークは父親でも良かったし、友人でもよかったんじゃないかと思うんだよね。実際、彼は子供で、庇護者は必要だったわけで。それが他人でも良いというのが子供の強さなんじゃないかと思ったわけです。

ラフィークは、やっぱり実の子どもが死んだわけでもないし、オマールを息子にはできないよなあ…と思う。しかもよく似ているけど確実に違う、なんなら毎日違っていく息子をさ。

親子が引き離されたとき、より辛いのは親の方だろうな、と親が嫌で現地母を作り続けた私などは思います。

 

社会倫理、社会問題の話と読んだ人たちからも様々な意見が上がった。

ゲーム理論的に考え、事態が長期的なものになるにつれ、誠実であることで利益があると読み解く方もいれば、社会から個人性を抜き取ったときに世界がどうなるか?という話だという方に、人と人との繋がりについて、サボってないでちゃんと努力しろという話だという方も。

テクノロジーが成り立たなくなった世界について、某マスクのせいで変わってしまった某SNSについて挙げる方もおり、インターネットの普及に伴い消えていった、かつてのネットの凄いひとという話題にもなった。

そこから、現実での人との関係を大事にしていく必要があるのでは?という話にもなり、年賀状とかもちゃんとやった方がよいのでは?と話が上がって、年賀状大嫌い(めんどくさいから)私としては、耳が痛い話だった。

一つのSNSがだめなら別に移ればいい、という意見もあり、だけれども、移った先ではまた別の人間関係になってしまうよねえ、なんて話にもなった。

現在この読書会も某SNSに頼り切っている状況なのだけれども、たとえばこのグーグル検索に基本的に反映されないブログくらいしかなくなってしまったら、まじで孤島のイーガンマニア収容所みたいになって、あんまりよくないんじゃないかと思ってる。

また、このテクノロジーが成り立たなくなったことに関しては、ミステリ的なガジェットで、テクノロジーが成り立つと話が面白くなくなるから導入された設定という意見もあった。納得いく説明がちゃんとしてあるので、イーガンはやはり丁寧。

私は人との繋がりという面に関しては、アイデンティティ量子論とも絡めて、自分が優しい世界を作ろうとすれば、優しい人が周囲に増え、優しい人は優しい人に入れ替わり、結果優しい世界になっていくという話でもあるのじゃないか?と投げかけた。

すると、イスラム教では困っている人に施しをする義務(ザカート)があるため、登場人物の設定に既に誰かに優しくする義務がすでに盛り込まれているという指摘が。

イーガンはゼンデギでもイスラム教徒のおはなしを扱っており、造詣も深いため、間違いなく意味のある設定なのだろう。

自身のアイデンティティを選択し、堅実性を確保することで、誰かの堅実性を確保し、世界の堅実性を維持していく(自身の望む方向へ収束していく)というのは、決しておはなしの中の世界の話ではなく、現実でも生かしていけることなのではないか。

善性・知性を選択したい、こうなってほしいというイーガンの祈りのようなものが感じられるという方もいて、それはほんとうにそうだな、と思う。

マルチバース的には世界は無限にあるので、酷い選択をし続けて、周囲の人も急にモヒカンに変わるみたいな、マッドマックス的な世界になる可能性もあるわけで、それは嫌過ぎという話もした。そういうのも誰か書いてくれると面白いかもしれない。

 

アイデンティティ量子論的なギミックに対しても多数意見が上がった。

シルトの梯子ではクァスプという、環境に影響されない選択をするためのスーパー技術について描いていたイーガンが、今作では自我は環境に影響されることが当たり前のように描いているという指摘があり、確かにと思わされた。

アイデンティティについて様々なアプローチで描けるイーガンの想像力の広がりには頭が下がる。

アイデンティティとは動的平衡、つまり、自我や身体はそもそも流動的なものであるため、一定のバランスが取れてさえいればアイデンティティ足り得るのではないかという話も上がった。

ラフィークの入れ替わりはショックではあるが、小さな差異があるからといってラフィークはラフィークとして成立している。まさにテセウスの船、スワンプマンである。

ここから、今回の場合は記憶の共有ができないところにしんどみがあるという話も出た。未来はいつか共有できるかもしれないという期待はあるが、この世界では、基本的に過去の共有はほぼできないのだ。

隣にいる家族が、たとえば、一緒に旅行に行った記憶がないのは(あるいは行った場所や見たもの、そして持っている写真や映像が違うのは)とても寂しいことだなあ、と思う。それでも隣にいる人は自分が愛したその人足り得るのか?という問題提起でもあるのかもしれない。

量子論的ギミックについては、やはり観測方法をオマールが実験していくところが面白い、煉瓦に文字を刻む、石を置く、ロープでつなぐなど様々なアイディアが連発する面白さも話題となった。

イーガンは細部まで丁寧で、ビデオの録画を見るときに、実験対象の人間だけでなく自分すらも入れ替わっているというのが凄いという意見も上がった。読んだときはあまり気にしていなかったけど、確かに!

反面、何故石や煉瓦は動かないのか?どこまでのパーツが入れ替わり対象なのか?そもそも観測って誰がしてるねん、という疑問も上がる。

詳しい方からは量子もつれじゃないかなんて話も出て、アッそれ前に勉強したやつだ!とちょっと騒ぐなどした(理解はしてない)

イーガンは一つの法則性をしっかり考えているのだろうが、自分の頭ではわからない……と苦悩する方も。

まあ、これもイーガンファンの宿命ですね。少しでも汲み取れるよう、頑張っていきましょう。

 

それにしても、140枚程度の中編で、よくもこれだけ語り合うことができるよね。イーガンやっぱりすごいなあ。

これだけ内容が濃い話なので、人によってはもっともっと別の見方もあるんじゃないかと思います。

私は最後にこの世界って(重度)認知症の方の世界に似てる、という話をした。彼らは古い過去だけを持ち、周囲を認識できなくなり、人も環境も移り変わっていくように感じている、という話。

私はだから、老人ホームのような新たな世界での人生の再開が必要だと思うんだよね。

結構面白がってくれる人が多くて、なんか嬉しかったです。介護現場を知る人が、介助者が優しくてニコニコしてると利用者も優しくなるという話も出て、先に語った私の優しい世界論とも繋がるね、なんて話もできて良かった。

というわけで、今回も最後の最後まで話が止まらず、非常に楽しい読書会となりました。二次会も盛り上がっちゃったぜ。長々とお付き合いありがとうございました。

今回は特別編だったので、次回は、正式に10回目の読書会になります。お題は当然直交2作目「エターナル・フレイム」!

直交三部作は全部好きだけど、なんだかんだ、私がいちばん好きなのはこの作品かもしれない……。難しいけど、みんなで読んで少しでも理解できるように頑張りましょう!

日程はおそらく4月7日(日)15時になるかと思いますので、参加をご検討の方は予定を空けていただけると幸いです。

最初に書いたゴールデンウィーク特別編は、やるなら5月5日(日)かな……?私はゴールデンウィークの無いので、日曜日しか確定休みがないので許して下さい。

新しイーガンを読んだので、無性に古イーガンも読みたくなってますんで、「祈りの海」あたりから2,3作を考えています。良かったらこっちもよろしくね。

では、今回ご参加いただいた方々、重ね重ね、ありがとうございました!次回以降も楽しくやっていきたいと思いますので、よろしくお願いします。

イーガンの描く新しい宇宙、サイエンスで読む?ソサエティで読む?(イーガン読書会⑨「クロックワーク・ロケット」報告)

直交三部作が読みたい気持ちで初めて、身内で読み終わったら終わらせようと思っていたイーガン読書会、いつのまにか9回目になりました。

これもイーガンファンと翻訳の山岸先生の御好意のたまものです。いつもRT等ありがとうございます。

さて、ついに直交三部作のはじまり、はじまり。ということで、課題本は「クロックワーク・ロケット」!

今回の参加者は私含め8名。初参加の方も1人。長年SFの読書会を主催し、直交三部作も扱った方も来てくれました。ありがたいことです、私もアイラブイーガンTシャツ欲しいです。

初読4名、再読4名という、当読書会の中ではバランスの良い感じになりました。ていうか再読が4名もいるのが単純にすごいよ。

そして、初っ端から会は大荒れ!(?)

あまりにもわからなくて面白みが感じられなかった、という声に対して、理解しなくても人間ドラマはわかりやすいから読みやすかったという声もあり、私は割と中間にいるタイプなのでどうしよう!?となっておりました。

理解できたら面白いのにとおはなしの端々に引っ掛かりを覚えてしまう派と、どうせ自分には理解できないので、自分が面白いところを楽しむと割り切っている派。

今回は特に、世界観の説明として物理学や化学、光の見え方など語られることがほとんどで、それがドラマ部分にあまり関わって来ず、理解しなくても読めるようになっている。そのため、他の書籍に比べて、読み方がこの2つの派に分かれやすいというのはあったのだと思う。

自己紹介時に社会派小説とハードSFの融合と称した方がいたが、言いえて妙だと思う。どちらをメインに読んでも間違いはないはずだ。

また、今回は自分たちの宇宙とは少し違うというところで、より混乱しやすいというのもある。少し違うが何が違うのがよくわからん、解説もわからん、解説の解説が欲しい、という話もあった。

ある方は、エンジンについての記述で、自分がある程度知っているテクノロジーが全く違う仕組みをしていて混乱してしまったという話をしていた。

この話を聞いた時、昔、知人のガチ理系で私よりはるかに物理も数学も知っている方が、イーガンの長編(タイトルは失念した)を読んで「気が狂うかと思ってやめた」という話をしていたので、逆に微妙に知っていると混乱する部分も出てくるのではないかとは思う。

結局、娯楽作品もマジで考えるから面白いみたいな人と、娯楽なのだからマジである必要はないと考える人と別れるのかなという気はする。

この考え方に関して喧嘩してもあまりに無益なので、結局のところ、途中である参加者が言った、「(わかんなくて面白くないと思うのだったら)勉強するしかないよ」という言葉しかないと思う。

私はイーガンで物理面白い、SF面白いと初めて思って、一般向けの物理学や数学の新書をちょっとずつ読むようになったんだよね。新書なんて一生買わんと思っていたのだが(物語以外に一切興味がない人生だった)

今でも作中のグラフや方程式も、意味わかんないなりに「へえーおもしれえー」と思っている。学生の頃には一つも面白くなかったのにね。

そんなわけで、作中世界の相対性理論がひっくり返っていることや、時間と空間が等価というところは、昔読んだ新書を開いてみたり、ネットで色々調べたりして、比較的分かったような気になってる。まあどうせわかってないんだろうけど……。

しかしそうやって読むと、無限の速さで動くロケットに乗ったら故郷の時間が進まないから科学を進歩させてなんとかするというエウセビオの発想で「て…天才か…!?」となって、「それでクロックワーク・ロケットなの!?タイトル回収鮮やかすぎだろ!」となる。

実際、前回カルロ・ロヴェッリの「すごい物理学講義」を勧めてくれた参加者も、山が飛ぶのが印象的なシーンだったと言っていたので、この方は多分私の気持ちを理解してくれているはず!

「すごい物理学講義」買ったので、ちびちび読んでます。量子論も勉強するんだぼくは(理解するとは言ってない)

しかし、私などが勉強したところで説明するとなると全く言葉が出なくて、きちんと説明ができないのは歯がゆい限りです。くやしみ。

イーガンの信徒として、ある程度、おはなしの面白みが分かる程度の説明ができればと思うのですが……。

全然関係ないのですが、最近仕事で高校生としゃべっていて、物理学面白いという話になり、「おばさんもさあー最近物理面白いと思って、昔勉強しときゃ良かったと思ってるのよね」とか言ってたら、「今からでも遅くないですよ!」と言われました。

今からでも遅くないですかね?

 

議論が紛糾した後は、序盤から中盤にかけての、彼らの生態が徐々にわかってくるのが面白かったという意見から、ヤルダたちの生態についての話に移っていった。

解説ではヒューマノイドのイメージと書かれている方もおり、ツイッターで書かれたイラストを見せてくれる方も。

「頭なさそうじゃない?」という意見もあり、バーバパパのような姿かたちや、丸っこいのに手足が生えているのではという意見もあった。私はバーバパパ派です。

ちなみにピクシブにはクロロケのイラストはないようです。探したんだ……。

出産が死につながるというのが衝撃的だったのは、全員頷くところだったろうと思う。イーガンはそこから、この生物のジェンダーまでおはなしを持っていくからすごい。

現在の私たちのジェンダー観は哺乳類的な考え方であり、この生物の立場だったらジェンダー観はこうなるよなと思った、という意見に、みんなで頷く。

個人的には、別生命体のジェンダーを描きながら、現代社会の問題点も浮き彫りになる仕組みにしているイーガンの手腕は見事だと思います。

そしてこの生物、遺伝とかどうなってるの?老化とかあるの?という話でも議論になった。

結局交雑をしないので、クローンをたくさん作りだしているという意見に、いや男性がなんかしているのでは、いやそれは出産を誘発するだけなんじゃない?などなど。

そこから樹精は昔ヤルダ達の祖先から分かれた近親みたいな話もあり、やはり遺伝はあるのでは、という意見から、いや時々突然変異っぽいのが生まれるからそれで分かれて進化していったのでは……

ついでに、常に熱を発生させていて、空気で冷やしているという設定に対し、それなら爆発さえしなければ、自身でエネルギーを作り出せるから食料はいらないのでは、という意見もあってハッとした。

この生物、消化管しかない関係上、たんぱく質やビタミンとかはなく、小麦の光エネルギーで生きているような感じなんだよね……。

と思って、会が終わってから少し読み返したら、生命維持に栄養が必要とは書いてありましたね。一応エネルギーを発生させる源が必要のようです。

この熱発生に関して、死ぬときに爆発した祖父の印象が強いという意見も上がっていた。そして、「ロケットで爆発したら大変じゃない?」という話も。確かに!めっちゃ迷惑!この辺ってどうしてるんですかね、イーガン先生。

出産が四分裂だから、めっちゃ増えていかない?という意見も。そこに対して、でも二人は死ぬからまあ、という意見も。ここに関しては、続編を知っている人はにやりとしたんじゃなかったかな。

広い地上では増えすぎることはないけれども、さて、ロケットの中ではどうかな?

この生命体、記憶力凄い良いよね!という話にもなった。本は一応あるようだけど、基本的には胸にシンボルを描いて意思疎通をする関係上、知識は頭?に蓄えられていなければならない。

ここから外部ツールがなかったころの昔の人間も頭良かったからねえ、という話にもなり、この作品は19世紀的なアナログ社会で問題をなんとかしていくところに面白みがあるよね、という話にもなった。確かに!クロックワーク、だし!

しかしよくもまあ、こんな細かく謎生命体の生態を考えたもんだと思います。ネズミの子育てマップとか、細かいネタがいちいち面白いんだよね。興奮するとブンブンするの、単純にかわいくて好きです。

 

わかりやすいと評判高かった人間ドラマ部分に関しても、もちろん多数意見が上がった。

ベネデッタの着地失敗やニノに読み書きを教えようというシーンは、イーガンの知性に対する信頼性の高さを感じ入った人が多く、印象的なシーンとして挙がった。

ベネデッタが講演が終わったヤルダを追いかけるシーンが良かったという人もおり、そこから仲間が徐々に集まっていくシーンは私もすごく好き。

しかし、ベネデッタはすぐ死んじゃうんだよねえ……。この死のシーンでの「それでも知識があれば」というヤルダの独白が私はいつ読んでも好きだし、泣いてしまうのだ。スクショして時々読んでます。

ニノに関しては、ラスト付近で弱っているニノとヤルダに抗議するファティマに対して、私はニノは結局教育を受け付けなかったという風に読んでいたのだが、同じことの繰り返しとか気が狂うでしょという意見もあって面白かった。

確かに、ヤルダは助けたくせにアフターケアが甘すぎるきらいはあり、そりゃファティマも怒るわ、という気にもなる。一番身近なサーガを使えば色々な物事に興味を持ってくれるんではという考え方は、単純に教育方法として浅すぎる。

まあヤルダは牢獄で一人で世界の真理に辿り着いた人だからなあ……。ちょっとニノにも期待してて、でもダメだった……、と私は読んでしまうんだよなあ。

私としては、自分の教育を理解してくれなかったニノに、それでも未来を託すという部分で切なる願いを感じてウウ…ヤルダ…となっていたのだけど、ニノを選ぶことで、女性が男性を選択するという前例を作り、政治的にうまくやったと捉えている人もいて、目から鱗だった。

トゥリアまわりの話が印象に残っている人も多かった。

体が勝手に自己分裂してしまうという部分が悲しくて印象に残っているという意見もあったし、単者クラブの女たちで子育て編が面白かったという意見もあった。子供が全然かわいくないという話で笑ってしまった。あまりにかわいくない。

今作は百合SFといわれるが、百合じゃないと思うんだけど…、という意見も。

百合に見えないというのは、おそらく関係性というより個人の生き方や選択をメインで描いているからだろう、と私は思う。

ヤルダの中に、トゥリアへの思いはあれど、トゥリアに依存した考え方はあまり描かれないので、あまり恋愛っぽい感じにならないのではないか。

イーガン作品は、やはり高潔に自由意思を求め続けるというのが一つ軸としてあるよね、とも話し合った。今作では出産で個人の自由が奪われる苦しみを描き、時間と空間が等価な世界で個人の意志や選択について考えを巡らせている。

ジェンダーの話だと思って読んでいたが、読み返したら個々の自由の在り方を描いているのだと気づいた」と語る方もいて、ほんとにそうよね、と思う。

まあでも私は百合だと思うけどね!自分の子どもにトゥリアって名前つけるあたりとか、自分のかたわらを歩いているトゥリアを思い描いていたとか……。

イーガンの他の作品と違って、あからさまに嫌な奴が出てくる、というところも話に上がった。より人間社会っぽい感じになっている、という指摘も。

この辺りは、イーガンの難民問題への取り組みから人間観が深まったのではないかという指摘があり、これは私もそう思う。

初期イーガンは田舎のおばちゃんも理性的だったりするし、知性の低さと宗教的なものを組み合わせて描きがちな感じがあり、それが今作に至り、かなり現実的な人物描写に落とし込んでいる感じ。

イーガン自身の経験(それが挫折なのか、成功だったのかわからないが)が生きてきて、より真に迫った描写が描けるようになったというのもあるのだろう。

イーガンの目線が人間社会に降りてきたという意見もあり、ちょっと苦笑してしまった。まあ、頭のいい人はまわりも頭がいいと思いがちだからね。

 

相変わらず報告なのに長くなってしまいましたが、もっと書きたいことがあるくらい、今回も色々な議論が展開されました。2時間じゃ足りない!

大好きな作品に、賛も否?も含め、たくさんの意見が交わされたのは嬉しいことです。読み直してもう一回くらいやりたいですね。

今後はとりあえず、継続して「エターナル・フレイム」「アロウズ・オブ・タイム」と進んでいく予定です。難しいけど、私も可能な限り勉強しながらやっていきたいと思いますので、頑張って彼らの旅の終わりを見届けましょう。

今回参加できなかったという方も、続編から読むのは全くお勧めしませんので、良かったら今作も一緒に読んだ上でご参加ください。初めましての方も大歓迎です!

と、その前に、SFマガジン12月号にイーガンの新作短編が公開され、年末年始もやってくるというわけで、新春特別編をやろうということになりました。

来る2024年1月7日(日)15時から、SFマガジン12月号の「堅実性」について語り合えたらなと思います。

日程が急なので、集まれるメンバーでまったりイーガンの面白さについて語れたらと思います。さほど長い作品ではないですが、イーガンの良さが詰まっている短編ですので、年末年始にサクッと読んで、ぜひご参加ください!参加しなくても読んでください。

新春特別編を経てから、正式な次回、栄えある10回目の読書会は4月ごろ!課題本は「エターナル・フレイム」です。まだ先ですが、こちらもよろしくお願いします!

今回ご参加いただいた方々、本当にありがとうございました!特別編含め、次回以降も、どうぞよろしくお願いします。

異なる宇宙に行く前に、数万年後の不滅の人類に思いを馳せる(イーガン読書会⑧「シルトの梯子」報告)

クローズドの頃から数えて、ついに8回目のイーガン読書会になりました!

参加者の方からは、1年半で8冊イーガンを読むのは凄すぎるのでは??という発言もあり、大いに笑った次第です。

まあ私なんかはこれに加えて直交も読み終えてますからね。誇っても良いと思う。

完全にイーガンのトリガーハッピー状態で過ごしています。劉慈欣もバリバリ読んでるのでみんな推しの二人をよろしくな!!

そんなわけで、今回はイーガン長編の中では翻訳最新作となる「シルトの梯子」。

日本では本作品がなかなか翻訳されなかったため、ディアスポラから白熱光で急にメインプレイヤーが人間から異生物に移ってしまったという印象があるとのこと。

参加者の一人が言うには、「シルトの梯子」でイーガンの人間存在への探求や、アイデンティティというテーマが終了したのではないかということだった。実際、ゼンデギや直交三部作は、テーマが社会問題に移っているようにも思える。

作中で父に説明されるシルトの梯子の図は、まさにイーガン作品におけるアイデンティティの考え方を体現している印象も受けるしね。

個人的には、今まで比較的幅の広い量子論がある程度定まってきた影響で、好き勝手びっくり理論を立てられなくなったから、新しい宇宙を作る方向にイーガンの興味が移っていったのかなあとも思う。

それはともかく。翻訳に時間がかかったということは、つまりそれだけ難解なわけで……。

今回集まってくれた精鋭参加者は、私含め7名。うち、初読2名、再読5名。

シルトが初イーガン長編という方もいらっしゃって、個人的には大歓迎ワッショイと、こんなオタクの会合に巻き込んでゴメンナサイという両方の気持ちがあり……。

しかしシルトを読み終えられるということは、イーガンを読む才能に溢れていると思うので、オタクどもが楽しんでいる部分はこういうところなんだな!と思いながら他の作品にも挑戦してほしい次第です。

最初に自己紹介がてら好きなキャラクターを聞いてみたのだけど、ラスマーやヤンが人気なのかな?と思っていたけど、案外皆さんバラバラ。ツールキットという回答も出てきて、たしかに!となったよね。

中には、イーガン作品においてはキャラクターは全員同じ感覚で読んでいる、あまり人格を気にしないという方も。

確かに、イーガン作品はある程度決まった人間(じゃないことも多いけど)のパターンがあるようにも思います。容姿もあまり描写されないし、そもそもデータだったり体は容れ物だったりするということもあるしね。今回は性別もないし。

そんなもんで、人間の形でイメージして読んでいないよね、という話も。確かに。

そこから、それでも人間的な感覚や本能が残っていて面白いよねという話に。肉体が形作られるときに感じる、機械を叩き壊したくなるような衝動や、治療できる傷をあえて体に残す所なんかは面白いという話が多かった。

ラスマーに対して若さを感じるのも、人間的な感覚だよね。

そういえば、4000歳差かー、と話したときに、主観時間の問題があるから、実際は感覚的にはそんなに年が経ってないという指摘があって、そりゃそうだ!となった(私はあんまり考えてなかった)

低速化や凍結が当たり前の社会で、それでも若さや老いの概念があるというのは普通に面白い。この辺りは他の短編などでも描かれているし、イーガンとしてもテーマの一つなんだと思う。

死がないから、死生観は全然違うよね、という意見も。

そもそも、宇宙の危機という王道ネタなのに、人類はデータ化して人類全体に滅びの危機はないというのが面白い。

この人たちにとっての死は停止であり、私たちにとっての眠りと似たようなものなのかもしれない、という話や、コピーが死ぬのはただの記憶喪失という感覚もあるし、バックアップがなくなってしまうことが死では?という話が上がった。

読書会が終わった今も考えていたけれども、自分のコピーや分岐が無数に存在することを考えると、宇宙の終わりがこの人たちのほんとうの死なのかなあ、とも思う。宇宙が存在する限り自分は不滅なのかもしれない。凄いな。

 

量子論の部分はかなり難解だけれども、優秀な解説が味方に付いてくれているので、なんとなく理解できるようなできないような。猫がカワイイ。

わからない単語を検索するとわからない単語で説明されている状況を嘆く参加者もいれば、わからないところはわからないと割り切っている参加者も(ぼくです!)

有識者よりカルロ・ロヴェッリの「すごい物理学講義」という本をご紹介いただきました。作中の量子グラフ理論(サルンペト則)は、こちらで解説されている量子ループ理論をもとにイーガンが作った架空理論らしい。

読みます!まあ理解できる気はしないけど……。今ちょっと調べただけでめまいがしたけど……。

まあ、難しい量子論を解き明かすための読書会ではないので、そこまで詳しい話はしなかったのだけれども(有識者のイーガンオタクの参加はいつでもお待ちしています)、やはり理解できないと面白くない!という参加者もおりました。

理解ってどこまでわかったら理解できるのか?という話も。

イーガンの意図した通りに伝わっていれば理解なのでは?という意見や、自分なりに楽しめればいいのでは?という意見も。

個人的には、別に面白がれれば何でもいいじゃんというところなのだけど、イーガン世界の面白さって現実の理論を下敷きに作られている理論や世界の面白さという部分もあるので、初心者向けの副読本を読みながら「なるほど、わからん」となるのもとても楽しい体験なので良いと思う。

私は仕事関係以外では、漫画と小説以外の本をほぼ読まない性質なのだけれども、イーガンを読んでから、数学や物理や宇宙工学にちょっと興味が湧いて、科学雑誌や新書を読むようになった。

今回も、第1部でキャスがやろうとして(大変なことになった)たのはビッグバン・シミュレーションでは?という意見があり、今現在現実でも行われているらしいと知って、ちょっと調べてみようかなと思ったよ。

 

私は今回再読してみて、おはなし全体として見ると、割とシンプルな構成だなあと思った。初読時は全体の流れがよくわからず、細部を面白がっていた記憶がある。

再読で全体を見てみると、結局プランク・ワームどうにもなってない問題とか、チカヤが最初から最後まで流されっぱなしでそれでいいのか!とか、色々気になる部分もあった。

この辺、イーガン長編初の参加者も同意してくれて、パッとしないオチに対して「読み方を間違えたのかと思いました」と話してくれた。

ここに関しては、イーガン作品は大体いつもオチをあまり重視していないのでは?という意見や、トラウマ解消はできているのでチカヤとマリアマの関係性としては完結しているのでは?という意見が話された。

チカヤ流されっぱなしに対しては、自分とか自我に拘る私ならではの感じ方では?という意見も戴いて、確かにその場その場で自分を(良い方向に)変えていくのも一つの生き方だよなあとも思った。マリアマあまり好きじゃないけど、自分の人生にこだわりを持って突き進む部分は、私が目指す所に近い。

結局キャスの物語に戻ってオチているのでは?という意見もあって、確かにキャスの話としてはちゃんとオチが付いているなとも思った。

それはそれとして、新真空内の生物があまりに人間的過ぎないか?意思疎通が普通に取れるのはどうなのよ?という声も。

新真空は人間が作ったものだから中の生物も人間っぽくなったのでは、という意見もあったけれども、そういうのはつまらんよ~という意見もあった。

ここに関しては、スタニスワフ・レムと比較する話も出た。実際、よく比較されることが多い作家だ。

どんな生物とも比較的意思疎通が可能なイーガンとは違い、レムはほんとうの意味で理解できない生物とのコンタクトについて描いている。それがとても好みという参加者もいて、イーガンと比較してしまうようだ。

私の好みはどちらかというとイーガン寄りだけど、レムはこのコンセプトで物語をちゃんと書いているというのが凄いし魅力的だと思っている。ソラリスはちゃんとラブストーリーだしね。

レムといえば「ソラリス」だが、参加者の一人が「エデン」という作品も紹介してくれた。難しいことは何も書いていないのに、全く情景が浮かばない、理解ができない作品とのことで、とても面白そう。

 

さて、当読書会でも何度も話されるけれども、イーガンは知性に対する信頼がとても厚い。知性を突き詰めると似たような境地に行くのだと確信をもって描いている部分があるのは、イーガンオタクたちには周知の事実だ。

だから、宇宙生命体も人間の知性の延長線上にいるし、知性を阻害する宗教は悪しざまに描かれるし、アナクロノーツの描き方も愚か極まりない。思考停止への忌避感が強いという指摘もあった。

そのため、今までのイーガン作品では、敵が自然災害や新しい理論だったり、知性ある人間集団の中での戦いだったりした。

ただ、今回はアナクロノーツという言っちゃ悪いが下等な存在が、最新技術を駆使して敵として立ち向かってくるのが面白い、ということが話題に上がった。

今までつくり話をして、ペットのように扱っていたのにね。これも、以前に正しいことを言ったらろくな事にならなかったからそうなったのでは、と意見があった。まあ、そうだと思う。

そこから、知性あるはずの防御派の人間が、比較的多い割合でアナクロノーツ達に加担していたのも面白いよね、という話も上がった。

知性がないはずの人間が、知性を味方につけて世界を脅かすのである。

この部分は、あまり詳しく話すと燃えそうなので言わないが、昨今の情勢や有名な事件などを思い起こす人も多いだろうと思った。

イーガンは、シルトの梯子から白熱光まで、休筆している期間がある。この期間、イーガンは難民支援に関わっていたという。

冒頭でも話したが、再度筆を執ってから、作品のテーマが徐々に変化している。この難民支援の経験が、イーガンの人生観に大きく影響したのだろうな、と私は思う。

そうなると、ちょうどシルトくらいから、知性のなさが案外大きなことを引き起こすのでは、と考えたのかなあ、などと思いを馳せる。現実は知性ある者が必ずしも勝たないのよね……。

こうやって考えると、単に小説が上手くなっただけではなく、イーガン自身の変化が人間ドラマにも深みを与えたのかなと思います。

参加者の中には、トンデモ理論と人間ドラマの塩梅が良い「シルトの梯子」がいちばん好きという意見もありました。うーん過渡期の傑作!

 

介在者やクァスプに関しても、もちろん多くの意見が上がった。

介在者が欲しい!今後必要になるはず、という主張に対して、いやそこから零れ落ちるものの方が大切では?という意見もあり、私は便利だし欲しい派だったが、確かにな…という気もした。

実際、作中でコミュニケーションが完璧に成り立っているかといえばそうでもなく、それが人間ドラマを白熱させている。あくまでも補助ツールであることは忘れちゃいけないよねえ。

介在者に似たものとして、ALSの方が視線でキーボードを打てる機械を挙げる方もおり、ある程度は現実でも可能になってきているし今後もそうなるのでは、という話も。

この話を聞いていて、翻訳アプリもかなりの精度になってきているらしいことを思い出しました。はやく言語を勉強せずともコミュニケーション取れるようにしてくれ。

クァスプに関しては、環境から影響を受けずに自己決定を行う、という部分に魅力を感じる参加者はあまりいなかったイメージ。

結局自己決定というのは環境から影響を受けるのが自然、という意見もあり、まあそらそうよね、という感じもした。

解説でも潔癖すぎるのでは?と指摘があるくらいだし。

ちなみにこの辺り、あまり時間がなくて深められなかったのだけれど、私はそれが自分だと確信できる選択を自分で行えるというところでは、クァスプはかなり魅力的だと思っている。上手く説明できなくて言えなかったけど。

私はイーガンの知性の数%も持っていないけど、イーガンがクァスプなんかを作り出した原動力はちょっと理解できる気がするのよね。

まあ、クァスプの詳細は「ひとりっ子」に書いてあるとのことなので、今後「ひとりっ子」も課題本として取り上げていきたい次第です。

 

いやあ、今回も楽しい読書会になりました。イーガン作品はそれぞれ楽しみ方が違うので、色々話し合い、出し合うのがとても楽しい。

何回読んでも新たな発見があるので、何回読書会やってもいいですね。白熱光とかそろそろ忘れてるし、また読み直したい。

毎回初参加の方もいらっしゃって嬉しい限りです。今後もよろしくお願いします。

次回はそろそろ私の我慢が効かなくなってきたので、直交三部作にしたいと思います!

当然、三部作全部一気にやったら何時間あっても喋り切れない(そもそも一気に読み切れない)ので、一作ずつ。

始めは「クロックワーク・ロケット」。タイトルの意味が分かった瞬間に脳汁出まくりの逸品なので、みなさんぜひ、よろしく!

おはなしとしても素晴らしく、私は未だに酒を飲むと主人公ヤルダについて喋りまくり、果ては泣き出す作品。ジェンダーSFとしても最高!

何回も何回も言ってるのですが、イーガン読書会は直交三部作をみんなで読みたくて始めた会です。ついに次回本懐を遂げられるということで、幸せの極み。

それでは、今回もご参加いただいたみなさん、ありがとうございました!よろしければ、次回もよろしくお願いします!

新しイーガンの洗練された短編集は、長編を読んでいればいるほど面白い(イーガン読書会⑦「ビット・プレイヤー」報告)

イーガン読書会、ついに第7回。オープンにしてからは2回目。

今回も適度に参加者が集まって……と思って前日の深夜(すでに当日)にTwitterを開くと、参加者が3人増えて総勢10人になっていて、酔いが一気に醒めた(酔っぱらって寝てた)

おおう、どうしよう……定員は決めてなかったけれども、こんな大人数で読書会とかやったことないよ。さすがイーガンパワー。

しかし、一人くらいはこれが最初のイーガンというひともいるんじゃないだろうか……

なんて思っていたわけだけど、蓋を開けてみたら、今回もイーガンファンの楽しい集いになっていた。

というわけで、私も楽しかったです。ありがとう!

結局当日病欠が一人出て、参加人数は9名。3名が初見の方。前回からのリピーターさんもいて嬉しい。

課題本は「ビット・プレイヤー」。日本では一番新しい短編集、新しイーガン。

初読は3名だけ。私も再読組です。刊行当初にニコニコ買った記憶があります。

自己紹介時に好きな短編は?と聞いてみたら、圧倒的に「孤児惑星」が大人気。後は「失われた大陸」以外に1票ずつ入る感じだった。

私は圧倒的に「七色覚」が好きだったのだけども、全然人気なくて驚いたわ。

さて、イーガンを前期・後期に分かれるなら、後期に分類される作品(執筆休止期間を区切りとする)ということで、現代の新しい言葉(ネットフリックスなど)も入っているのが面白い、読みやすいとのっけから話が弾んだ。

イーガン後期は政治的な作品が多い、という意見から、「万物理論」は政治的な部分が面白かったという声に、後期イーガンはより体験に根差した政治が描かれているという意見も。

個人的にも後期イーガンは、解決が困難な社会事情や解決に乗り出す人間たちの争いが、昔に比べて深く描かれているような気がする。この辺は、直交三部作を読んだ後のほうが語りやすいので、今回はあえて議論としては深めなかった。

「ビット・プレイヤー」の読書会だからね??

当たり前のようにイーガンの他の長編の話になっているので、イーガンファンってすごい……と思います(他人事のように)

 

「七色覚」は、私は非常に好きな短編なのだけど、驚きの新技術でもなければ、広いスケールの話でもなく、物足りないという意見がまず上がった。

私は、イーガンというひとは、人類をデータ化して宇宙に上らせるために、まず人間の能力(身体能力も知的能力も)を画一化しようとしていると思っていて、まず障害というものを無くすことに取り組んでいるのだと思っている。

この話も、視力や色覚の差を無くすための技術の過渡期の話だと思っていて、そこが面白いと思う。

また、七色覚になった人たちの絆は、障害者当事者会の絆と似ているような気がして、自分と同じ世界を見ている人たちの絆って良いよな、という話をした。

それに対して、イーガンはディアスポラなどで生命に関わる重大な場面で、人間のアップデートを迫ってきたため、そのあたりの罪悪感から、人命に関わらない楽しみとしてのアップデートの話を書いたのでは、という意見もあり、なるほどなあと思った。

そこから、このアプリ使いたい?という話にもなり、割とやりたくない派が多い印象。成長期にしか使えない不可逆な技術ということで、不安過ぎる、という声もあった。気が狂う人もいそうだよね、という意見も。最もだと思う。

イーガンのおはなし特有の、人生上手くいかないけどなんとかやっていく、ドラマとしての面白さを指摘する人もいた。これは「不気味の谷」や「鰐乗り」なんかもそうだと思う。

今回は深められなかったが、新しい芸術の話では、という話もあった。イーガンと芸術については、改めてどこかでイーガンファンたちと語ってみたいですね。「ディアスポラ」でも芸術についての言及あったしね。

 

不気味の谷」は中々評判が良かった一作。

「ゼンデギ」を読んでいるとより理解しやすいね、という話が当然上がる。「ゼンデギ」で不完全だった部分が、「不気味の谷」や「失われた大陸」で補完された感じが強い。

「ゼンデギ」では、サイドローディングされたデータには自我がないような書き方をされていたが、「不気味の谷」ではめちゃくちゃ自我あるじゃん!という話も上がった。

体験のない記憶に振り回され、最終的には振り回された体験を自我として、自分の人生に向かっていく希望で〆るドラマ部分に感動した人も多かった。

そこからAIや自我についての、それぞれの参加者の価値観などの話にもなり、たいへん面白かった。AIの進化は心や自我の芽生えがあってこそという意見もあり、自我とはそもそもただの現象という考え方もあり……。

この辺りは話しても話し切れない部分であり、どうせイーガン作品を読むにあたっては切り離せない部分なので、継続的に議論出来ていけたらいいですね。

そういえば、今作は話のオチの理解が難しい作品でもあり、感想サイトでも「なんか最後よくわからなかった」と書かれることが多かった。

私もオチが理解できず、3回くらい読み直したうえで、「結局これって、恋人のほうが殺してたってオチでいいんだよね?」と聞いたくらい。そのうえで、「えっ主人公が殺したんじゃないの?」という返答もあった。

話し合って、やっぱり恋人が殺したという理解でよかったらしいのだが、核心的なところをサラッとしか書いてないのでわかりづらい。

と、これは、作中でも語られている映画の「エンゼル・ハート」と同じネタなんだよと参加者の一人が教えてくれる。大ネタバレだが、古い大作なのでウィキペディアに全部内容が載っていた。

確かにおはなしの構造がそっくりである。これが下敷きだとわかっているとおはなしがたいへん理解しやすそうだ。気になる方は見てみてください。

 

そして表題作の「ビット・プレイヤー」だが、イーガンが書くなろう系だ、異世界転生だとみんなのテンションの高い作品だった。

世界は雑なのに、その世界を形作る機械が非常に高性能だと分かる作りで面白い、という意見が印象的。三文小説もイーガンが書くとSFになってしまうのですよ、と笑い合った。

飛浩隆の「グラン・ヴァカンス」を思い起こさせるという話もあった。

ただ、このような作品の中ではAIが弱者になりがちだが、イーガンの書くAIは主体的に行動し始め、自ら実験し始めるというのが面白い。世界に疑問を持つのが早すぎるだろ!という意見もあり、みんなで笑った。

このおはなしが、いちばん救いがない、という意見も。

確かに、本短編集では、どうにか人生頑張っていく、という希望が描かれる作品が多い中、この作品だけ、未来に希望がぜんぜん見えない。抜け出し口がないのである。

ラストの「死んだ人は、全員飛びおりたんだ」という言葉からも、絶望が染み出ている。

しかし、これは読書会が終わった後に考えたのだが、個人的には「外部世界が文明的と言えるようになるのを待つの」は、イーガンの祈りみたいなものかなあと思う。

読書会では毎回、イーガンの考えとして、知性を突き詰めると最強になる感覚がある、他者への信頼感が篤い、と話が出るのだが(今回も出た)、その表れのようなラストなのかもしれない。

 

「失われた大陸」は、完成度が高いという部分では多く同意を得られる作品だったが、イーガンらしい/らしくないでは大きく意見が分かれた。

イーガンの人を人として尊重する考えがはっきりと表れていたり、ドラマ中のモブの知性が高く対話ができる、という部分では確かにイーガンらしい作品である。

個人的には、何の裏付けもなく、砂嵐に飛び込んで世界線を移動してしまうという部分でイーガンらしくなさを感じる部分があった。

ただまあ、主人公の設定と短編ということを考えれば、SF設定的な部分を描く余地がなかったというのもうなずける。

これも読書会の後に考えたのだが、この裏付けのない理不尽な感じが、リアルな難民の感じている辛さに繋がるのかもしれない。

難民に関しては、この現代日本でも入管難民法の問題など、否が応でも目にする大きな問題である。それを受けて、切実な問題として受け止めた参加者も多かったように思う。

 

「鰐乗り」は、なんだかんだで今回いちばん言及があった作品だったかもしれない。

まず、「白熱光」を読んでいないとこの作品、よくわからない。急に孤高世界と融合世界とか言われて、なにがどうした?となってしまう。

実際、私はこの作品は初見時に非常に印象的で、なぜかというと、全く何を言っているのかわからなかったからだ。それなのに、遠い遠い未来で夫婦が壮大な終活しようとしていて、なんかうまくいかなくて嫁の方だけスペシャルな施しを受けたというドラマ部分がわかる、という不思議な体験だった。

今回この短編集が再読できて、「白熱光」を経たうえで色々わかったのがとても良かった。イーガンは一生かけて読んでいきたい、その都度理解度が上がる、というのはある参加者の言葉だが、これには強く同意したい。何回も読もうぜイーガン。

個人的には、このおはなし、解像度が上がっていちばん思うのは、「リーラこのあと安心して死ねる?」問題。

いや死ねるでしょ、目的達成したし、という意見もあったが、私は、こんな一人だけスペシャルな施しを受けておいて、もっと関わりたくなったのでは?という意見。一緒に終活してたジャシムとも心が離れちゃったし……。

この辺は、たとえば飛行機を作りたいという夢を持った時に、飛行機の羽根部分を完成させて、「飛行機作る礎となって満足」派か「飛行機そのものは作れてないやんけ」派がいるよね~と思って、これも価値観の違いが大きく出て面白い話題だなと思った。

また、おはなし中盤で出てくる蛇型生命体がもふもふでカワイイ!なんか体でビビビとやってるのカワイイ!というキャラ萌え的な意見も面白かった。

静かに暮らしたいのに主人公たちが来て喜んじゃうとか、生きるための理由を探しているけどわからないとかが萌えポイントらしい。たしかに「わたしには見当もつきません、あなたがたとまったく同様に」は私もエモくて非常に好き。

この萌えを語っていた方は、私がイーガン沼に引きずり込んだ方なのだが、イーガン小説は変な生き物が出てくるところがすごく好き!とのことで、その話を聞くたびに、ヨッシャはやく直交行こうぜ、という気分になる。直交までぜひついてきてくれ。

しかしこの蛇さん、読者側から見たらカワイイ感じなのだが、主人公側から見たら怖いと描写されているのが面白いという意見もあった。歓迎されているのにちょっと引いてるしね。

蛇さんとのコンタクトに関しても、イーガン特有のコンプライアンスの高さがうかがえるということも話題に上った。主人公たちはコンタクトに臨むにあたって、彼らの歯の数すら調べており、その上で最適なコミュニケーションを選ぼうと努力する。

この辺のコミュニケーションが始まる前の事前準備をするところ、個人的には看護師のコミュニケーションと少し似ていて面白い。

イーガン先生、これは医療現場から学んだものなのかな?と思うと、妄想かもしれないけれども嬉しいんですよ。

ちなみに、私は、たびたびイーガン先生医療現場で学んだのかなシリーズの話をすることがあるのだけど、今回は参加者の一人がそれをたいそう面白がってくれて嬉しかった。

しかしイーガン先生の倫理観の高さには毎回舌を巻く。身が引き締まる思いである。

 

最後に、みんな大好き「孤児惑星」。たとえ一番好きな作品ではなくとも、これが嫌いなイーガンファンはいないだろう。イーガンの真骨頂だ。

まず、フェムトテクという謎のハイテクノロジーに心が躍る。人類に扱える限界はナノテクといわれており、その先を行くオーバーテクノロジーだそう。

あまりによくわからないので、参加者の中では、ミクロのさらにミクロという理解をしている、という人もいれば、なんかよくわからないすごいやつ!とニコニコして言うやつもいる。私です。

石油やレアメタルのメタファーという見方をしている人もいて面白かった。

宇宙に出ることで、元素や素粒子のようなものを再発見できるぞ!という話もあり、笑ってしまう。人類の欲深さ、無限大なり。

しかし、「白熱光」もそうだったけど、宇宙の法則を発見、修正、再発見みたいなのって、滅茶苦茶心躍りますよね。法則の内容ほとんど理解できなくても!

タルーラの派閥についても、テンションが上がる人が多かった印象。

しかも知性なく騒ぎ立てる派閥はなく、過激な派閥の中でも、ちゃんと「だれも死なない方がいい」と言える人がいるというこの冷静さ、倫理観。ここに良さを見出すイーガンファンたちである。

この派閥部分やラストの展開に、「シルトの梯子」を思い出す人が多く、私も随分昔の記憶だけれども、通ずるものが描かれていたのは覚えている。それがめちゃ面白かったことも。

データ化して、バックアップも得て、それでも帰りの保障の無い未知の場所へ向かうことへの重みがあるというのは、「ディアスポラ」でも描かれていたけれども、自分とは何か?自分らしい選択とは何か?という問いも相まって、個人的にはとても面白い。

 

そんなわけで、次回の課題本は「シルトの梯子」となりました。おそらく9月上旬ごろになるかと思います。

いやあ、今回も2時間ちょっとオーバーし、みっちり話し合うことができ、ほんとうによかった。面白かった。仕事が忙しくて心が弱ってたけど、完全に潤いましたね。イーガン好きと喋ることでしか得られない栄養がある。

人数が多かったけど、みなさん譲り合ってくれて、よくわからないことにならなかったので一安心。みんな長編読み過ぎてて、話題は広がりまくりだったけど……w

当読書会では、ラストで皆さんに感想を求めているのだけれども、イーガンの愛が伝わる話し合いでよかったとか、他の作品を読み直したくなったとか、良い感想を頂けてとても嬉しかった。

やはり考え方が人それぞれなので、同じ作品を読んでいても着眼点が全然違ったり、同じシーンでも感じ方が180度違ったりということが多く、その辺りを読書会で話し合えるのは非常に面白いなと思う。

同じイーガンファンでも、環境や価値観が違うと全然違うもんですね、当然だけど。

懇親会もたくさんの方が参加してくれて、イーガン以外の小説の話などもできて良かったなあ。今度イーガン好きによるイーガン好きのための、イーガン以外の小説紹介会とかもやりたいですね……。

今回参加してくれた方、ほんとうにありがとうございました。また、よろしくお願いします。

 

そういえば今回、間違えて「プランク・ダイヴ」を読んできた人(「ビット・プレイヤー」も昔読んでたのでそのまま参加してもらったけど)がいて、爆笑の渦だったのですが、改めて見ると表紙まじで似てますね……。

かわいそうなので、そのうち「プランク・ダイヴ」もやりたいと思います。あたいは「クリスタルの夜」が好きです。

無職中にワンピース全巻読んだのでだらだら語るぞ(ネタバレまくり注意)

4月から新しい仕事をしています。かみむらさんです。

相変わらず不良看護師さんをやっているのだけれども、縁あって少し毛色の違う業界の会社に勤めることとなり、毎日が不安いっぱい!ストレスフルフル!

早く職場と人間関係に慣れて、まあこれくらいならできるかな、くらいになってくると良いなあ。雨の日が最悪な仕事なので、なるべく雨が降らないよう毎日祈っとります。

ああ、無職のリラックスした時間がすでに懐かしい……。

とはいえ、仕事しないならしないで病んでいくタイプなので、今回の2か月弱の無職はいい感じに人生のお休み期間になったのかなと思います。

旅行も行けたし、人とも遊んだし、飲んだし、映画も見たし、動物園もたくさん行ったし……。

小説を全然読んでないのが心残りですけど(さすがに数冊は読んでるけど)、それには如何ともし難い理由があり……。

なんたって、1ヵ月ちょっとでワンピースを全巻読んだもんで。1巻から、105巻まで。

漫画を本カウントしてよいなら、そこそこの読書量ではないでしょうか。

流石に全巻購入するお金はなかった(実家に30巻くらいまであるし)ので、漫画喫茶で途中まで読み、61巻から105巻は購入しました。

いやー……

面白かったね!!(小並感)

今の子どもたちがジンベエの話とかするわけがわかったよ!やりたいよね海流一本背負い

最近ポリコレについて考えていたわけだけど、あれだけオカマやら過剰なボンキュボンを描きながらも、それを気にさせないだけの配慮があるというのは、腕が良い……という他ないなと。

しかも1巻から読んでいったので、時代を経て、さりげなく価値観をアップデートしていっているのが、尾田先生、人生何週目かな?という感じになる。

流石に今のゾロももう、「女だぞ」はやらない感じだよね(空島編/ちょうど20年前エピソード)

当時はゾロかっけえのう……と思った思い出があるけど、今読むと自分のフェミメーターに引っかかってドキッとしますな。

ただ、そこから、2年後くらいのウォーターセブン編の時点で、サンジの女を蹴らない理由が「そう叩きこまれて育ったから」なので、尾田先生自身、既存の価値観を疑う方向性は、もともとあったのかもしれないよね。

ここから、比較的新しい(といっても7,8年前)ホールケーキアイランド編の「恐竜の時代からの流儀だ」まで来ると、価値観の変化に合わせつつも、昭和の頑固親父も一つの多様性というのを示しているようにも思えるので、割と素直に読める。

ワノ国編まで来ると、LGBTQが自然にキャラクターに反映されているし、それをポリコレ配慮で人気取りがどうのこうのとか言い出す輩もいそうだけれども、私なんかは、ここまでの人気作家が素直に世界の価値観の変化を取り入れるというのは、すげえことだなと思う。

面白さは犠牲にしてないしな。

初期のワンピースの方が面白いとか言ってる人はとりあえず1巻から全巻読むと良いぞ。面白さも完成度も、実はそんなに変わってないよ。一つのエピソードが長くなって、描写が増えて複雑なやり取りが増えただけで、割とずっと同じことやってる。

初期ワンピースは完全にアーロン編が頭一つ抜けた傑作だと思っているけれども、ここでやろうとしていたことは、魚人島編やドレスローザ編で色々アップデートしてもう一回やってるかんね。

 

ワンピース読み返そう、というのは、20年以上前に死ぬほどハマっていたのをふと思い出したというのがある。

まあなんたって、ゾロサンが好きでね!!(腐ってた理由)

懐かしく思い出すわけです。

空島編でサンジにすね毛が描かれたときの業界の荒れようを……!いやあ、私自身、衝撃だったわけですよ。

当時はワンピースもゾロサンも業界ではかなりの大きな島でな……(といっても田舎の果てにいたので実際にはわからないけど)

尾田先生はアンチ腐女子だなんていう話が流れたりしてな。SBSの「サンジのすね毛止めてください」のお便り欄の回答からも、ひとしきり荒れてたな。

この当時の反響、わかってくれる人いねえかなあ~なつかしいな~

と、懐かしんでいたら、ワンピースフィルムREDでのローのすね毛で、また似たような有様になっていて(業界的に腐か夢かわからないけど)笑った。

時代は繰り返す。

とまあ、別に腐った話がしたいわけではないのですが、私は、10代のころは思い出したくもないくらいに不遇な時代だったのだけど、ワンピースを楽しく読めたことだけはよかったなあと今更思ったのです。

サンジが大好きでね。

私が手料理を作って食べさせることが最上級の愛だと思い込んでいるのも、割とサンジの影響だと思うのですよ。一緒に食べるというよりは、食べさせる方にどうしても寄っちゃうんだよね。

読み返してた時、バラティエ編のギンに賄い持ってきたところの「クソうめェだろ?」でやっぱり泣いちゃったからな。

私は優しい人が好きなんですよ、根本的に。

サンジさんは幼い自分にとって、ある種マザーテレサみたいな感じだったのね。

でもすごく危ういキャラクターだなってずっと思っていて、恩人のために普通に死のうとするし、仲間を助けるために普通に死のうとするし。

当時中学生くらいの私、「この人はいつか、オールブルーという夢よりも、自分を犠牲にして仲間を助けることが生きがいになっていそう」と本気で思っていた。

ええ、ええ、漫画のキャラクターに思いを寄せすぎるんですワタクシ。この宇宙や世界にいなくても、現実に存在していると思ってるからね。

そして近年。

なんかサンジといえば自己犠牲の優しい人になっていた。YOUTUBEのショート動画で「サンジさんはね……優しいんです」というブルックを見て驚愕ですよ。

何があった!?それは私しか知らないはず!!(そんなことはない)

と思ったら私の妄想が半ば真実になっていたことを知ったわけです。

先にも書いたけど、ホールケーキアイランド編のことね。今となっては、7,8年前のエピソードになっちゃいましたが、ずっとワンピースの業界から消えてたので、知ったのは最近。

というわけで、ずっとワンピース読み返したいなって思ってたんですよ。今回、念願叶って、ちゃんと読めて良かった。

というわけで、ホールケーキアイランド編はずっとニコニコして読んでました。雨の中ジッポライターを擦り続けてるの見ながら、ああおれは20年前からこれが読みたかったんやで……という気持ちになった。

しかもそこから、「助けてロビンちゃん!」ができるようになってて、やだ……私の妄想が作品になってる上に成長している……!!と感激してしまった。

ついでに心を失うかもしれない、という更なる曇らせからの、「もしおれが正気じゃなかったら、お前がおれを殺せ」ですよ。

私の妄想が作品になってる上に成長している上に、鬱展開のフラグまで立ってるわけですよ。

いやー、長く生きてると良いこともあるもんですね。生きてて良かったな。

正直、魚人島編が一発目でギャグなのか判別つかない鼻血で進むので、尾田先生サンジをどうしたいのだ……?と思ってたけど、読み通してよかったよ本当に。

そういえば、私の夢でなければ、数年前に尾田先生はサンジが嫌いなのでは?という旨のサンジ愛者の記事がバズった気がするんだけど、その方は今どういう気持ちでいるのだろう。

可能ならお話してみたい。

 

サンジのこともだけど、もう一つ読み返してよかったことがある。

読み返して気付いたんだけど、自分は親子関係のことで、随分ワンピースに救われていた。

ワンピースでは頻繁に血の繋がらない家族が描かれる。

特に記憶に残っているのは、やっぱりアーロン編のベルメールさん。

「口先だけでも親になりたい あいつら……私の子でしょ」はあまりに名シーン過ぎる。これ、アニメでやってた時、私小学生だったんだよな……。衝撃だった。

サンジとゼフもそう。ホールケーキアイランド編で、「お前は俺の父親じゃねぇ!」ってはっきり実父に対して言えてよかったね……。

チョッパーとDr.ヒルルク、Dr.くれはもそうだよね。「行っといで、バカ息子……」も良いシーンだよねえ。

子どもの頃って、家族と学校が、だいたい世界のすべてじゃないですか。

だからそこが、あまり良い言い方ではないけど、「終わってる」と、世界全部、丸のまま「終わっちゃう」んですよ。

でもね、私は、母親を別で作れたんですよ。

それは塾の先生で、別に生活の世話をしてもらったわけではないのだけど、そこは私の気持ちの問題でね。その人に教えられたことを守って生きるようにしたおかげで、私はある種、まっとうに育てた側面があるわけです。

親が「終わってる」なら、他所で親を作ればいい、兄弟でもいい、家族を作ればいい、というのを、割と私はまじで思ってるんですが、ワンピースはそこにかなり影響しているな、と思います。

「この世に生まれて、一人ぼっちなんて事は 絶対にないんだで!!」ロビンの回想でのサウロの言葉だけど、尾田先生はこういう言葉で何人もの子どもたちを救ったのかもしれないよな~などと考える。

作家というのはほんとうに凄い存在だと思います。

まあ、ワンピースはこの辺バランス感覚がめちょ優れていて、感動的な親子話(ロビンの母とか、ワノ国のおでんとか)もしっかりあるのが良いところだなあとも思います。

ただ、読み直すと、ルフィ、エース、サボという物語のメイン級三人が、血縁関係の無い兄弟であったり、作中屈指の実力者である白ひげの、財宝ではなく家族が欲しかった、という願いと団員たちの親父!という叫びにかなりのページ数を注ぎ込んだりしている様を見ると、尾田先生の信念のようなものもあるのかなと。

仲間と家族と血縁と、色々な描き方があるのが魅力的なんだよな。

 

そんなわけで、だらだらと語ったわけだけれども、実はワンピースの極致みたいに言われている頂上戦争編はべつに~って感じだった私です。

とりあえずエースが死ぬのはみんな知ってる頂上戦争編ですね。ここで私はワンピースにあんまりバトル求めてないことに気付いた。少年漫画向いてないぞ。

私はなんといっても魚人島とホールケーキアイランド編が好き。ドレスローザもいいよね。

それにしても105巻もあって全然飽きないのは凄い。

読み直すの大変な人は、61巻から読むのはおススメです。

そういえば、今の子どもたちも流石に、最初から全部読んでるわけじゃない子が多いみたいで、「ナミはなぜみかん好きなのですか」みたいなお便りが時々あるのが面白いですね。

そろそろ終わりに向っていくらしいんで、終わりまで一緒に迎えられたらいいなあ、と思います。

しかしほんとうに終わるのか?

ま、その時に飽きてたら、それはそれということで。

おまえはまだ、ソーセージ人が別世界に住んでいると思っているのか?(「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」ネタバレ考察)

「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」アカデミー作品賞および6冠おめでとうございます!!タイトル長いので以下エブエブ。

実は、オモコロの原宿さんが推しているということで、気になってアカデミー発表の前日に見に行っていた。

考えていたよりもド直球の、もはや愚直とも言えるほど真っ直ぐな作品で驚き、目まぐるしく動く映像と俳優陣に度肝を抜かれた。

正直、全体的な内容の緻密さは、ちょっと前に見に行った「イニシェリン島の精霊」があまりに出来が良かったのと、アカデミーが好みそうなテーマだったこともあり、賞を獲るのはこっちかなあ、などと思っていたのだが……。

いや、ぜんぜん、エブエブ旋風でしたね。

なんというか、作品の出来の良さとは別に、これにアカデミーあげないと人間として嘘だろ!みたいな気持ちが、アカデミー会員の中にあったのかもしれないな、と思う。ウィキペディアにも、がっつり必ずしも完成度では選ばれないって書いてあるしね。

しかし、このエブエブ、感激して帰ってきたはいいものの、日本ではなんか賛否両論がかなり激しい作品の様子。

確かに、私が見た回も何人か中盤で席を立ち、帰ってこなかった。近くにいたおじさんも、気が付いたらいなかった。それとともに、笑いや鼻を啜る音が聞こえたのも確かだ。終わった後に、良かったねと話し合う人たちもいた。

ふとTwitterを見たところによると、アメリカではどちらかというと絶賛の嵐らしく、日本の否の多さに驚く人も多いそうな。Twitter情報なので、全く信ぴょう性がないけれども、さもありなん、とは思った。

それに対して、岡田斗司夫氏が、日本人はアニメでこういうの見慣れているという話をしていて、確かになあとも思う。

映画のクレヨンしんちゃんを思い出した、という意見も多く見られた。下品なところも昔のクレしん映画と共通するところがある。そして昔のクレしん映画は、今映画とか見ている層なら、かなりの割合で見ていただろうし、なんならそれで育っていた。

そう考えると、もはや使い古されたテーマと手法ではある。

では、エブエブは金がかかったクレしん映画だからオスカーを取ったのか?といえば、私はそれもなんか違うと思うんだよね。

だいたい、監督のダニエルズも、有名なクレしん映画くらい見てると思うんだよな。と思ったら、案の定湯浅監督リスペクトだそうですよ。やはり足の臭い嗅がせるのはオトナ帝国のオマージュだったのか。

ちなみに宮崎駿今敏も好きだってさ。インプット多彩だなあ。

だから、ダニエルズの想定する新奇性や芸術性って、たぶんそこにはないんじゃないのかなあ、と思う。

じゃあ何が、と聞かれると、やはりそれは、ポリティカル・コレクトネスなんじゃないかと思うんだよ。

しかも、それは嫌われがちな言葉狩り的なものではなくて、かなり正しいポリコレなんじゃないかと思うのだ。

 

エブエブの世界には、指がソーセージの人類がいる宇宙がある。

ソーセージ人は大変そうに見える。指がつるつるしていて、ドアノブを捻れないし、涙を上手にぬぐえない。動かすたびにグチャア、と生理的に嫌な音がする。

なにより、見た目が、ソーセージ!

ソーセージ人の自分をインプットしたエヴリンは、手をキョンシーみたいにだらんとぶら下げて、戦えなくなってしまう。

ソーセージ人は、我々から見たら文化もあまりに異質だ。愛を交わす時に指ソーセージを食し、しかもなんか黄色いクリームっぽいものが溢れ出る。思わずエヴリンも顔をそむけてしまう。

私はこれ、最初あまりに衝撃的で、笑いも出なかった。

そのうえ、その後、自分の人生は最悪だと伝えられた時のエヴリンの言葉が「指がソーセージの世界よりはマシよ」だったのに、さらに衝撃を受けた。

笑う人もいたし、おそらく、この世界線の主目的はコメディなんだろうと思う。

しかし、この言葉は映画本編中、ずっと私の中で引っかかっていた。

ある経験を思い出したのである。

昔、ヨガの教室に通っていた時の話だ。先生が「今の幸せに感謝しましょう」とか急に言い始めた。「五体満足でヨガをできることに感謝しましょう」

なんじゃそら、と思ったのを滅茶苦茶よく覚えている。

言いたいことはよく分かる。現状を苦しむのではなく、受け入れて感謝しようというのは理解できる。先生は別に悪い人じゃなかったし、普通の優しい人だった。

しかしなんで、例えば足が不自由な人と私の幸せを比べなきゃならんのだ。足が不自由だったらそれはもう不幸なのか?それってあまりに馬鹿にしていないか?

障がいがあることを不幸である、劣っていると無意識に思っているんじゃないか?

悪意のない発言だったのは間違いないし、気にする私の方が子供なのだろうな、と思っていた。だいたい、この手の発言は、世の中に溢れている。

「指がソーセージの世界よりはマシよ」の引っかかりは、私の中で、まさにこの「五体満足に感謝しましょう」だった。

エヴリン、それは遠くともお前のifの姿だぞ?生理的嫌悪感と攻撃に使えるスキルがない苦しみは、わかるけど、だからと言ってお前の方がマシと言えるのか?

だから、この映画が終盤で、「優しくなってくれ!」というウェイモンドの叫びを手に、突如ソーセージ人の世界に飛び、「足はとても器用!」とエヴリンが言って戦い出した時に、ほんとうに、馬鹿みたいに涙が出た。

考えてみれば当たり前の話である。手が使えないのであれば、細かい作業は足を使う方向で発達するのは自然だ。ドアノブだって足で捻れるはずだし、ピアノも弾ける。涙だって上手に拭けるのだ。

エヴリンは巡り巡って、そこに気がつく。何かよりマシな自分を求め、より強いスキルを求めることだけが戦いではない。

ソーセージ人だって戦える。ストレートに強くないかもしれない、勝つことはできないかもしれない。それなら、別の戦い方がある。

優しさという戦い方が。

そこにはよりマシな、という価値観はない。

元の世界のディアドラを抱きしめるときの「あなたは愛らしい!」が、ソーセージ世界のディアドラともオーバーラップする演出も素晴らしい。

そこから二人でソーセージの指をニコニコ食べ始めて、それがもうあまりに良くて、昨日2回目見てきたけどやっぱり馬鹿みたいに泣いた。

人にはそれぞれ異なる身体があり、異なる文化があり、できることとできないことがある。できることで戦えばいい、相手の土俵で相手を叩きのめす必要はない。

指がソーセージという嫌悪感ですら、人は愛で乗り越えられる。

なんて優しい、うつくしい世界観!愚直なまでに単純で陳腐だが、強烈に力強いメッセージだ。

 

必ずしも、ソーセージ人が障がい者のメタファー、という気はない。むしろ、もっと大きなものを描いているはずだ。

私は、指がソーセージの人類というのは、つまり、真正面から描けば深刻になる、婉曲に描けばギャグになってしまう人たちのことだと思っている。

そういう人たちが、この世には確実にいて、皆それぞれ戦っているんだという、監督の強い主張なのだと思う。

そこに何を見るかは個々人の背景に寄るところが大きい。セクシャルマイノリティルッキズム、移民のことと読むことも可能だろう。

私は、障がいを持つ方が身近なので、そう感じたというだけだ。もしかしたら、この話は突き詰めて考えていけば、どんな人にも当てはまるのかもしれない。それでも、だからこそ、この主張には意味がある。

日本にいると、ポリコレの重要性が希薄になるという実感がある。だからポリコレ配慮を嫌う人も多いと思う。っていうか、私も、自分が知っている範疇以外はよくわからない。

ポリコレ配慮が必要な人が見えにくい国だと思う。「ママ、あの人はなんで腕がないの?」「シーッ、見ちゃいけません」これは、なんだかんだ、日本人の精神性な気がしている。見て見ぬふりをし続けていると、ほんとうに見えなくなる。

だから、「五体満足である幸せに感謝しましょう」とかいうことになる。

なんというか、これは間違っているけれども、一つ優しさでもあるとは思うんだよね。見ないことによって、考えないから拒絶も嫌悪もない。別の世界に住んでいると思っていれば、安心できる。

だから税金を払えるということもあると思うんですよ。

しかし、実際は隣のアパートにソーセージ人が住んでいるかもしれないわけで、というか、確実に徒歩十分圏内には住んでると思うんだ。

アメリカは、多民族社会だし、日本よりもソーセージ人が身近では、という気がする。隣のソーセージ人が明日戦いを挑んでくるかもしれないという。それはたぶん怖いし、攻撃したくもなるだろうし、でも、だから、優しくしてあげられるという人もいるのではないかな。

もしアメリカで絶賛されている率が日本より高いのであれば、この違いが表れているんじゃないか、と思う。あくまで私の感覚だけの話だけれどもね。

まあ欧米が~日本が~とか、私はあまり言いたくないタイプなので、この話は深掘りしない。

ただ、ソーセージ人、たぶんすぐ隣にいますよ!というのは、このブログを読んでくれた(数少ない)全員に呼びかけたいことではある。

彼らを評価したり、比較したりする必要はない。自分も彼らになり得たし、これからもずっとなり得る。

彼らに優しくすることで、彼らの戦いに参加することで、自分の何かも救われるかもしれない。

 

「いずれそのうちに、ほとんどすべての男女が、品物や食料やサービスやもっと多くの機会の生産者としても、また、経済学や工学や医学の分野の実用的なアイデア源としても、価値を失う時がやってくる。だから―――もしわれわれが、人間を人間だから大切にするという理由と方法を見つけられなければ、そこで、これまでにもたびたび提案されてきたように、彼らを抹殺したほうがいい、ということになるんです」

最近、カート・ヴォネガット・ジュニアの「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」を読んだ。これはその中の、とあるキャラクターのセリフである。

このキャラクターは、その後、こう続ける。

「耳新しいのは、ある人間がそういう種類の愛を、長期間にわたって与えつづけることができた、ということですよ。ひとりの人間にそれができたとすれば、たぶんほかの人間にもそれができるでしょう。(中略)エリオット・ローズウォーターという実例のおかげで、何百万、何千万の人びとが、目についた人間をだれでも愛し、助けることをまなぶでしょう」

引用が長くて済まぬ。エリオット・ローズウォーターは、この本の主人公のことです。

読み終えてから、これ、めちゃくちゃエブエブじゃね??と思ったら、パンフレットで、監督自ら「ヴォネガットの作品は僕らにとって経典だよ」と言っていた。

私はヴォネガットは「ローズウォーターさん~」と「スローターハウス5」しか読んでいないうえ、後者はこの間読書会で、イマイチだったみたいな話をしたばかりだった。

ただ、「ローズウォーターさん~」がエブエブと相まってめちゃめちゃ自分の中に響いたので、とりあえず作品一つずつ読んでいくか、という気持ちになっている。

まあなんだ、なぜこれを引用したのかと言えば、これがただ言いたかったんだよ。

エヴリンができたのだから、私にも、あなたにも、ソーセージ人を愛することができる。このおはなしは、そんな希望のおはなしなんだよ、ということ。

 

長くなったのだけど、エブエブでは実はもう一つ言いたいことがある。

この考察では、主にエブエブのテーマやメッセージについて語ったのだけれども……。

それとは別に、このおはなしは、母と娘の戦いのおはなしでもある。これはエブエブを語るときに外せない。エヴリンがめちゃくちゃ毒親でジョイはとても辛かった問題である。

愛と優しさに打ち震える私の隣に、毒親育ちで辛かった私というアイデンティティが延々と辛さを訴えてきていた。「あなたは太りすぎ」に関しては、あまりに辛過ぎて卒倒するかと思った。

私は今の人生で人の親になることはないと思うのだが、そういうことは絶対に言ってはいけないと思う。

「ブタがブタ食ってる」とか「アザラシが寝てるみたい」とかも言っちゃだめだからな!割と価値観が死ぬ。ブタもアザラシも可愛いと思うのに20年かかった。

……まあ、それについては別の形で記事に起こしたいと思う。

そちらのほうは恨みつらみ満載で嫌な記事になりそうなので、もしお付き合いしてくださる方はお気を付けを。