かみむらさんの独り言

面白いことを探して生きる三十路越え不良看護師。主に読書感想や批評を書いています。たまに映画やゲームも扱っています。SFが好き。

才ある人間は真実を見抜く(映画「ジョーカー」考察&解説)

※本記事は映画「ジョーカー」のネタバレを含んでいます。未視聴の方はご注意ください。

 

前回、映画「ジョーカー」の主人公アーサーは、軽度知的障害、あるいは境界性知能ではないかという考察を挙げた。幼いころの虐待から、不安・恐怖を感じると笑ってしまう障害があることも付け加えた。

前回の話では触れなかったが、映画「ジョーカー」には妄想と現実の区別がつかなくなるような場面が存在する。が、私はこれをもってアーサーが妄想性障害や統合失調症と考えてはいない。

なぜなら、アーサーが作中で、妄想と現実がごちゃごちゃになったために、混乱したり、激怒したりする場面がないからである。警察に対して怯えるシーンもないしね。アーサーの「こうだったらいいのにな」という想像を、視聴者たる我々が一緒に楽しんでいるだけ、と考えても辻褄が合うように作られているのが、この映画の巧妙なところなのである。

前回の補足を入れたところで、もし前回の記事を読まれていない方は、そちらから読んでいただけるとありがたいです。アーサーという人間が何故こんなにも生き辛く、困難を抱えているかが少しわかるかもしれない。

この解釈をもってすると、映画「ジョーカー」の冒頭部分、ピエロ営業の雇用主に呼び出されるシーンに、一見しては見えないものが見えてくる。

 

と、この解説をする前に、私が看護師として知的障害者を支援する際に、彼らを理解する方法として考えていることを教えておきたい。

前回の記事でも少し触れたが、私は英語ができない。といっても簡単な単語や文なら理解できる。絵や表情があると理解しやすい。ただ、長文になると読めない。まじでわからない。難しい単語が増えたり、文型が複雑になるとその時点で放り投げてしまう。パニックだ。

若干難聴気味でもあるので、当然リスニングも壊滅的だ。言葉の情報がわからないのに、音の情報なぞ理解できるわけもない。ヘッドホンから英語が流れてくると今でも恐怖に打ち震える。

他の教科は比較的できたほうだったので、高校生の頃は劣等感や不安感に苛まれて、とてもつらかった。いや、今でもつらい。英語が怖すぎて海外に行きたいのに行けず、30歳を過ぎてしまった(そしてコロナで行けなくなった。がーん)

よく、英語が苦手でもジェスチャーや簡単な単語で乗り切れるよ、と言われる。

無理だ。

なぜなら、みっともないからだ。私の中で、そのみっともなさがどうしても、どうしても許さないからだ。

馬鹿の癖に何を言ってるんだと笑う人もいるだろう。その通りだ。

でも、それは私の性格であり、性分で、これはもう受け入れざるを得ない事実だ。泣くほど悔しいけど、私は英語を得意になることはできないし、苦手だからと笑って積極的に非言語コミュニケーションをとることはできない。

だから英語はできるだけ避けるようにしてきた。英会話などもってのほかである。怖いことはしたくない。

私は、これが、普段の生活、普通の会話で起こっているのが知的障害の方の世界なのだと思うようにしている。これが正しい理解かどうかはわからない。そもそも私の場合は多少プライドが高すぎるきらいがあるが……。

まあそれはともかく。こう考えると、彼らの不安感や辛さ、大変さがなんとなくわかるような気がするので、そうしている。

長い文章が理解できない、内容や単語が複雑になるとパニックになってしまう、たくさんの情報があるとキャパオーバーでなにもわからなくなってしまう。これが続いた結果、わからない、パニック、怖いから、コミュニケーションを避けるようになる。

皆さんも、もし英語が苦手なら、想像してほしい。英語が得意な人は、数学が周りに満ち満ちているような状況とか想像してほしい。

滅茶苦茶頭がよくてわからないって人は、グレッグ・イーガンの「シルトの梯子」あたりを読んでいただいて、その内容が世界に満ちていると想像してくれ。

そしてそれを、周りの人は難なく理解し、何故理解できないのだと折々に問いかけてくる。あなたはそれに耐えられるだろうか?

知的障害と診断がついていれば、比較的支援してくれる機関も多いのだが、軽度知的障害や境界性知能の方は見つからずにいることが多い。普通学級に入れられてしまい、劣等生として扱われ、鬱病などの二次障害を抱えてはじめてわかるというケースが大変多いのだ。

長くなったが、一旦これを念頭に置いて私の考察あるいは解説を聞いてほしい。

 

さて、アーサーが、雇用主に呼び出されるシーンを思い出してほしい。突然の呼び出しを受け、アーサーはまず、こう言われる。

「コメディアンになれたか?」そしてこう続ける。「君はいいやつだ。不気味だというやつもいるが」ここまで前置きをして、「それはともかくまたしくじったな」と告げる。そうして、看板盗んだことを責めるのだ。

アーサーの視点から見た我々には、雇用主に状況を理解してもらえない、絶望的で辛いシーンに映る。こんなにも辛い思いをしたのに、温情を掛けてくれない社会の冷たさ!そんな風に見える。

しかし、これはアーサーから見た一方的な視点だ。

雇用主の言うことをよく聞いてみよう。

「楽器屋がカンカンだ。君は仕事場から消え、看板も返していない」

おそらく、雇用主は、仕事中に逃亡し、看板を奪ったとしか聞いていない。

我々は直前のシーンで、「襲われたって?」と慰められるシーンを見ているから、アーサーの状況は伝わっているはず、と思い込む。しかしこのシーンは、銃をもらうところまで含めて明らかにヘンなシーンなのだ。

まあ、アーサーが銃をもらったかどうかは、解釈の余地があるのでここでは触れない。

ただ、このシーンの前にアーサーが看板を盗まれてリンチされたことを誰かに話したシーンが一つもないこと、そもそもアーサーと他のピエロたちがまともにコミュニケーションをとっているシーンがないこと(優しくしてくれたのは、あの小人症の男性だけ)を考えると、アーサーがあの大男のピエロに慰められるというのは妙な話である。

加えて、母の看護の際に傍で慰めてくれた恋人がまるっと妄想であったこと(劇中で妄想が妄想と示されるのはこの恋人の一件のみである)から考えると、このシーンはアーサーの妄想、あるいは、こうだったら楽しいのにいう想像と考える方が自然だ。

アーサーの状況を理解していない雇用主がアーサーを叱るのは当たり前だろう。

雇用主に、アーサーはどう映るだろう。仕事を台無しにしたくせにしらを切る、不届きな奴である。

では、アーサーは何故状況を説明しなかったのか?

伝わっていなかったのなら、説明すればいいだけだ。悪い子どもたちにからかわれた挙句看板を取られ、自身も暴力を受けて伸びていた。とてもつらい出来事で、仕事に戻ることができなかった。彼はただ、そう説明すればよかったはずだ。

しかしアーサーは、「盗まれたんです。聞いてない?」としか言わない。なぜか。

解答は一つしかない。

無理だった。

彼には、説明するだけの能力がなかった。そして、自分のおかれている現状を理解することもできず、雇用主が何を求めているのかわからない。とても辛いが、辛いと認識してそれを表現する能力がない。ただ、自分は怒られている。馬鹿にされているかもしれない。それはわかる。というよりむしろ敏感に察知する。

彼は、相手の雰囲気や態度は比較的読める人間だ。笑いの発作が起こった時、これはマズイと理解している(口を押えたり、カードを渡したり)。マレーの番組で自分が取り上げられた時も、瞬時に自分は馬鹿にされているのだと気づいている。

ただ、相手の言葉の内容を理解し、意図を読み取ることはできない。これは前回の記事で詳しく書いているので参照してほしい。

では、つらい、苦しいと泣き喚けば良いのでは。

無理だ。

彼は自己愛が強い。これは監督も述べている。日常ではほとんど喋らないくせ、妄想あるいは想像のなかではとにかくカッコつけてキメている。

母にさえ、カウンセラーにさえ、彼は辛いとか怖いとか、言うことができないのだ。

長い文章が理解できない、内容や単語が複雑になるとパニックになってしまう、たくさんの情報があるとキャパオーバーでなにもわからなくなってしまう。これが続いた結果、わからない、パニック、怖いから、コミュニケーションを避けるようになる。

 

他者とコミュニケーションが取れなくなった結果、誰にも理解してもらえない。寂しさを妄想/想像で埋めるしかない。

これが彼の世界だ。

そして、雇用主は、たぶん、善良な人間だ。

アーサーの状況がわかれば、力になってくれたはずなのだ。

重ねて言うが、雇用主は、口こそ悪いものの、こんな状況においてもアーサーのコメディアンという夢を馬鹿にしないし、「君はいいやつだ」と言っている。そのうえ、「力になりたいんだ」とまで言う。アーサーは聞いちゃいないのだが。

さらに言うと、こんなことがあった後もアーサーを雇い続け、小児病棟の仕事を任せている。不気味だと周囲からクレームがついている、へまばかりやってにやにやしている男をだ。少なくともこの時点では、アーサーにわずかなりとも好意的な感情を向け、ほんとうに力になってやろうと思っていたはずなのだ。

アーサーは、しかし、その好意も助力も受けることができなかった。雇用主の意図も言葉も理解ができなかったから。自分の気持ちが表現できなかったから。

このシーンは、アーサーが知的障害であったことから、説明もできず、相手の言い分も理解できず、それ故に、事情さえわかれば優しくしてくれるかもしれなかった相手に気味悪く思われてしまう、という、とても切ないシーンだったことがわかる。

 

私は、ここまで考えた後、自分が見聞きした親子の状況が、これにほとんどそっくりだったことを思い出した。

その子は、実は境界性知能であったのだが、一見わからなかったため、普通学級に通っていた。しかしどうもいじめを受けている様子だった。しかし、親がいくら学校のことを聞いても、子は答えない。ぼんやりと笑っているようなありさまだったため、親はなんだか気味の悪い、変な子だと思っていた。

しかし次第に引きこもるようになってしまい、児童精神科に連れていった結果、知的障害と抑うつが診断される。実際は子は大変つらい思いを抱えていたが、それを説明したり、表現したりする術がなかったのだ。

個人情報を漏らすわけにはいかないので、こんなふんわりした情報しか書けないのだが、それでもアーサーと雇用主の状況によく似てはいないだろうか。

折々、思うのだが、知的障害者の障害とは、知的に問題があることではない。そんなことよりも、他者の無理解や、劣等生というレッテル、コミュニケーションの不全などのほうが、よっぽど彼の障害になり得るのである。

 

監督である、トッド・フィリップスはドキュメンタリー作家としても働いていたのだそうだが、その時に知的障害の取材でもしたのだろうか?

その取材が入念だったから、私が看護師として何年も見、関わって考えてきた見解と一致するのだろうか。

それとも、こんなのは私の思い込みで、偶然にも真実を映し出すおはなしを作ってしまったのだろうか。

きっと、そうではないのだろう。

取材はあったのかもしれない。しかし優れたクリエイターというのは、得てして真実が見えてしまうものだ。と私は思う。

それは、細かい様々なシーンに現れている。

アーサーが精神科に入院させられた時、ドアの窓で頭をゴンゴンと叩く一瞬のシーン。あの一瞬のシーンで、アーサーの自己愛と寂しさを見事に表現している。というのは、何年も精神科にいた私だからわかる。

あれは自罰行為でも、自傷行為でもない。自己愛が強く、自分を見て欲しい、認めて欲しい、アピール行動がやめられない患者の切ない行動だ。彼らはわざわざ医療者から見えるところに頭を打ち付ける。見えるように傷を作り、見せてくる。

もう一つ。エレベーターの中で、暴れる患者の傍に医療スタッフと警察官がスンッとした顔で待機している。これが精神科に行きますよという表現だ。これまた素晴らしい観察眼だと思った。

暴れる患者は典型的な精神疾患の表現だが、病棟の中ではなく、外から搬送中であることがまず素晴らしい。病棟内では暴れる患者は周囲から隔離されるので、面会客には見えない。見えるとしたら搬送中の状態なのだ。警察官が逮捕して連れてくるのも、割とあるあるである。在職中は(患者が)お世話になりました。

付き添う医療スタッフが、スンッとして、患者に何かを語りかけたりしないのも、良く見えていると思う。私もあの状況であれば、スンッとしていると思う。

まず、あんな状態になった患者にはコミュニケーションが通じないというのが一つ、そして、周囲を不安にさせないよう、何かあったら対応できますよ大丈夫ですよアピールが一つ、あとは、ああ…この患者を今から面倒見るんだ、大変だ…という疲労感が一つ。

この二つのシーンは、よく見ていなければわからない、普通だったら見逃しがちな景色だ。数年働いた私がやっと思いつくアイデアだ。

まあ、必ずしも監督のアイデアとは限らない。医療関係者から助言があったのかもしれない、とも思う。けれども、様々なアイデアの中で、これを選び取ったのは、やはり慧眼と言わざるを得ない。

こんなにも真実が見えてしまう目で、作った映画に、偶然というのは考えづらい。考えれば考えるほど、良く練り込まれた、現実を映す鏡のような映画だ。

私は積極的に映画を見る方ではないのだが、この監督の映画は時間はかかれどちゃんと見たいなと思う。

とは言っても、ジョーカー2を出すとかいう話もあって、それは若干心配ではあるんだけど……。そのうちまた凄いものが見られるといいな。

それまでは、自分も目を養っておかなきゃなあ。凡人なのでなんとも難しいけれど、真実めいた何かが、自分に見えたら人生少し満ち足りたものになりやしないかと、時々思います。