あまり聖地巡礼というものに興味がない。
漫画や映画といった絵や映像のメディアを見ていてさえ、ここのゴハン美味しそう、この場所綺麗そうとか、実はそんなになかった。というか、いろんな人と交流していてやっと、そういう楽しみもあるのかあ、なんて思う程度だった。
私にとって、フィクションは現実ではないものだ。たとえロケーションが同じでも、世界が違うので、聖地と言われても、だから何?となってしまう。
空港の間近にあり、ラブホテルが乱立し、果樹園に塗れて、変なお山がある。ひと気の少ない、駅でさえ無人の田舎町。
そんな町の中を、夏の暑い日、三十路を迎えたばかりの女がたったひとり、レンタサイクルで駆け抜ける。バカでかい空港の敷地に、辺鄙なラブホテルに、何の変哲もない道路に、小さな交番に、小学校近くの本屋(跡地)に、たぶん立ち入り禁止の山の中(虫しかいなかったのですぐ出ました。許してください)に、血走った眼でスマホのカメラを向ける。
完全にイッちゃったひとであった。
いいのである。私は確かにその日、阿部和重の神町サーガの世界の中にイッちゃっていたのだから。主にシンセミアのおはなしの渦中に。
神町サーガとは、シンセミア、ピストルズ、オーガ(ニ)ズムの三部作で構成されるシリーズのことだ。おはなしの流れを汲むと、グランド・フィナーレやミステリアス・セッティング、ニッポニア・ニッポンなどもシリーズに関わっているといえる。
サーガというからには神話である。神話とは、ぶっ飛んだ架空のおはなしで、そして現実で真実であるからそう言われる。異論は受け付けない。(嘘。ちゃんと神話を研究してる人、ごめんなさい)
私にとって、神町サーガは現実にとても近い。
さすがに現実だと断ずるほど気が狂ってはいないが、パラレルワールドで実際に起きた出来事ですと言われたら頷いてしまう。私は、ピカチュウの尻尾が黒かった世界線を未だに信じているひとなので(ぜったい黒かったよね?)
ここまで書くと、神町サーガというのは如何に現実的なおはなしなのか、と思われるひともいるだろう。
そんなことない。めっちゃくちゃである。
シンセミアはまだ現実感がある。パン屋とヤクザとロリコンの不良警官と盗撮好きのレンタルビデオ屋とその他大勢が、抗争と洪水と赤い巨石で大騒ぎして、人も町も文字通り滅茶苦茶になるおはなしである。
ピストルズになると少し様相が変わる。菖蒲家という、代々続く呪われた家系の末娘が、人心を操る秘術(アヤメ・メソッド)を習得するための修行の末、超能力に覚醒するおはなしである。
オーガ(ニ)ズムに至っては、東京が壊滅したせいで首都が神町に移った後の世界で、主人公は、まさかの作者阿部和重だ。三歳の子どもを抱えた阿部は、瀕死のCIAケースオフィサーと出会い、菖蒲家の陰謀から世界を守るため、立ち上がることになる…!
断っておくが私は正気である。神町を探訪していた私はイッちゃっていたかもしれないが、今は真顔でこの三作のあらすじを書いている。間違ったことは何一つ書いていない。
伝わらないのは仕方ない。私自身、書いていて、え、ナニコレ?どうする?という感じである。
私が言えるのはただ、このとんでもなく荒唐無稽なおはなしを、現実の出来事と見紛うほどに描く阿部和重の筆力はものすげえということだけである。
ここまでで阿部和重ちょっと興味ある~とか思った人は今すぐこんなブログなんか閉じて本屋に走ってほしい。電子書籍でもいい。とりあえずシンセミアを読もう。文庫上下巻で900ページくらいあるけど、たぶんすぐ読めるので。
ちなみに阿部和重、神町サーガを書き終えて間もなく、新刊を出したので、そちらでもいいです。しかし、途轍もない筆の速さだ。
ブラック・チェンバー・ミュージック。ドチャクソ面白いラブストーリーだった。
そして、この作品も、神町サーガに負けず劣らず現実だったので、私は今度は柏崎マリーナと浅草花やしきに行かなければならなくなった。
ちなみに、まさかの故郷新潟の登場に胸を躍らせたものの、数えるほどしか行ったことがない柏崎だったのでちょっとしょんぼりした。
大丈夫です。ぼくもベンチに座って密航船を待ちます。できれば、冬の夜に。コメダ珈琲でシロノワールを食べてから。たぶんまた、ひとりで。
映えもエモみもないけれど、愛だけあります。
しかし、阿部和重作品はどうしてそんなに現実なのだろうか?
実際問題、ぜんぜん考察しきれておらず、納得できる答えはまだ持ち合わせていない。ぶっちゃけた話、文章と構成がバカ上手いからとしか言いようがない。
ただ、私のこの感覚、私だけではない様子。Twitterで流れてきたブラック・チェンバー・ミュージックのPOPに、「こんな突飛で危険な物語をここまでリアルに書ける作家はこの人しかいない」と書いてあったのだ。
やはりリアルさというのは、阿部和重作品を語る上では、避けて通れない大きな特徴なのだと思う。
が、そもそも、リアルさというのは、なんなのだろうか?小説において価値があるのものなのだろうか?
阿部和重の作品は情報量があまりに多く、緻密だ。読み慣れていないと、どれが重要な情報で、どれが意味のない情報なのか、と情報量に溺れてしまう人もいるだろうと思う。
そしてその情報は、ほとんどが実在の地名やモノの名前などの羅列であり、年月日時間まで詳細に指定することも多い。
その情報量が好きかと言えば好きだ。知っていればなんとなく嬉しいし、知らなければつい調べてしまう。基本的に、知識を得るのは好きだ。
考察している人の中には、一見無意味に見える情報の羅列の意味を発掘している人もいて、そういう裏設定みたいなものも含めて面白い。
けれども、だから阿部和重作品はリアルなのか?と聞かれると、首をかしげてしまう。そういう描写が多いから価値があるのか?と聞かれるとなおのこと悩んでしまう。
そもそも、神町をはじめ、基本的に行ったことのない場所の話を延々とされるので、ふつうに読み飛ばすし、ありありとその場が想像できるなんてこともない。シンセミアを初めて読んだ時、山形県には行ったこともなかったし。
ただ、私は阿部和重のそのくどいほどの詳細過ぎる描写を見るにつけ、そんなものが、そんなところがあるんだ、ああ行ってみたいな、真似してみたいな、と思うのだ。
聖地巡礼などほとんど考えたこともない私がである。観光地でもないのに。
いつのまにか、おはなしの中のできごとなのに、現実の世界と重ねて見ている。
さて、年月日時間の指定から想像できる人もいると思うが、阿部和重作品では、いわゆる時事ネタも取り扱い、しばしば現実の情報が提示される。
たとえば、ブラック・チェンバー・ミュージックでは、米朝首脳会談を控えたある日、ドナルド・トランプの隠し子を名乗る人物が北朝鮮に訪れることから物語が始まる。
割と時事ネタも好きだ。
では、現実の場面が描写されていることが、それがリアルなのか?
案外そうかもしれない。けれども、そのリアルは、イコール価値があると簡単に結べるものではない。現実であった出来事の大概は、どうでもいいか、あんまり面白くないことだからである。
トランプの隠し子問題とか痛切に考えているひとって、少なくとも一般の日本人ではそうそういないだろう。
それに、ノンフィクション作品とか、ぜんぜん私は好きでない。
ただ、阿部和重が扱うと、わくわくする。どう物語に絡んでくるんだろうか予想して、外れて、面食らう。
どんなホラが噴出してくるんだろう?と思っていると、もう物語に飲まれていて、それがホラでなく現実として浮き上がってくる。もちろん、今自分がいる世界とは別の現実だけれども。
混迷してきた。
ここまで考えてきて、やはり阿部和重作品は、リアルだから面白い、価値がある、という話をするのは難しい。難しいというより、それは違うのでは、としか言えない。
書いていてわかったのは、私の中で阿部和重作品は、現実が物語になっている感じではなく、物語が現実に投げ込まれているような感じなのだということ。
そしてその物語がはちゃめちゃに魅力的で面白いということ。
なんにもわかっていない。
あまりにもなにもわからないので反省したが、こういう混迷したブログ記事というのも悪くないのでは?と思い、公開することにする。
少なくとも、阿部和重作品の不思議な魅力を伝えるのには、ほんの少し貢献したと思う。
この記事を読んでくださった方、もしよければ阿部和重作品を一冊、いや、一冊と言わず五冊くらい読んでいただき、その世界やリアルさについて何か考察をしていただけたら、教えてください。