かみむらさんの独り言

面白いことを探して生きる三十路越え不良看護師。主に読書感想や批評を書いています。たまに映画やゲームも扱っています。SFが好き。

おまえはまだ、ソーセージ人が別世界に住んでいると思っているのか?(「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」ネタバレ考察)

「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」アカデミー作品賞および6冠おめでとうございます!!タイトル長いので以下エブエブ。

実は、オモコロの原宿さんが推しているということで、気になってアカデミー発表の前日に見に行っていた。

考えていたよりもド直球の、もはや愚直とも言えるほど真っ直ぐな作品で驚き、目まぐるしく動く映像と俳優陣に度肝を抜かれた。

正直、全体的な内容の緻密さは、ちょっと前に見に行った「イニシェリン島の精霊」があまりに出来が良かったのと、アカデミーが好みそうなテーマだったこともあり、賞を獲るのはこっちかなあ、などと思っていたのだが……。

いや、ぜんぜん、エブエブ旋風でしたね。

なんというか、作品の出来の良さとは別に、これにアカデミーあげないと人間として嘘だろ!みたいな気持ちが、アカデミー会員の中にあったのかもしれないな、と思う。ウィキペディアにも、がっつり必ずしも完成度では選ばれないって書いてあるしね。

しかし、このエブエブ、感激して帰ってきたはいいものの、日本ではなんか賛否両論がかなり激しい作品の様子。

確かに、私が見た回も何人か中盤で席を立ち、帰ってこなかった。近くにいたおじさんも、気が付いたらいなかった。それとともに、笑いや鼻を啜る音が聞こえたのも確かだ。終わった後に、良かったねと話し合う人たちもいた。

ふとTwitterを見たところによると、アメリカではどちらかというと絶賛の嵐らしく、日本の否の多さに驚く人も多いそうな。Twitter情報なので、全く信ぴょう性がないけれども、さもありなん、とは思った。

それに対して、岡田斗司夫氏が、日本人はアニメでこういうの見慣れているという話をしていて、確かになあとも思う。

映画のクレヨンしんちゃんを思い出した、という意見も多く見られた。下品なところも昔のクレしん映画と共通するところがある。そして昔のクレしん映画は、今映画とか見ている層なら、かなりの割合で見ていただろうし、なんならそれで育っていた。

そう考えると、もはや使い古されたテーマと手法ではある。

では、エブエブは金がかかったクレしん映画だからオスカーを取ったのか?といえば、私はそれもなんか違うと思うんだよね。

だいたい、監督のダニエルズも、有名なクレしん映画くらい見てると思うんだよな。と思ったら、案の定湯浅監督リスペクトだそうですよ。やはり足の臭い嗅がせるのはオトナ帝国のオマージュだったのか。

ちなみに宮崎駿今敏も好きだってさ。インプット多彩だなあ。

だから、ダニエルズの想定する新奇性や芸術性って、たぶんそこにはないんじゃないのかなあ、と思う。

じゃあ何が、と聞かれると、やはりそれは、ポリティカル・コレクトネスなんじゃないかと思うんだよ。

しかも、それは嫌われがちな言葉狩り的なものではなくて、かなり正しいポリコレなんじゃないかと思うのだ。

 

エブエブの世界には、指がソーセージの人類がいる宇宙がある。

ソーセージ人は大変そうに見える。指がつるつるしていて、ドアノブを捻れないし、涙を上手にぬぐえない。動かすたびにグチャア、と生理的に嫌な音がする。

なにより、見た目が、ソーセージ!

ソーセージ人の自分をインプットしたエヴリンは、手をキョンシーみたいにだらんとぶら下げて、戦えなくなってしまう。

ソーセージ人は、我々から見たら文化もあまりに異質だ。愛を交わす時に指ソーセージを食し、しかもなんか黄色いクリームっぽいものが溢れ出る。思わずエヴリンも顔をそむけてしまう。

私はこれ、最初あまりに衝撃的で、笑いも出なかった。

そのうえ、その後、自分の人生は最悪だと伝えられた時のエヴリンの言葉が「指がソーセージの世界よりはマシよ」だったのに、さらに衝撃を受けた。

笑う人もいたし、おそらく、この世界線の主目的はコメディなんだろうと思う。

しかし、この言葉は映画本編中、ずっと私の中で引っかかっていた。

ある経験を思い出したのである。

昔、ヨガの教室に通っていた時の話だ。先生が「今の幸せに感謝しましょう」とか急に言い始めた。「五体満足でヨガをできることに感謝しましょう」

なんじゃそら、と思ったのを滅茶苦茶よく覚えている。

言いたいことはよく分かる。現状を苦しむのではなく、受け入れて感謝しようというのは理解できる。先生は別に悪い人じゃなかったし、普通の優しい人だった。

しかしなんで、例えば足が不自由な人と私の幸せを比べなきゃならんのだ。足が不自由だったらそれはもう不幸なのか?それってあまりに馬鹿にしていないか?

障がいがあることを不幸である、劣っていると無意識に思っているんじゃないか?

悪意のない発言だったのは間違いないし、気にする私の方が子供なのだろうな、と思っていた。だいたい、この手の発言は、世の中に溢れている。

「指がソーセージの世界よりはマシよ」の引っかかりは、私の中で、まさにこの「五体満足に感謝しましょう」だった。

エヴリン、それは遠くともお前のifの姿だぞ?生理的嫌悪感と攻撃に使えるスキルがない苦しみは、わかるけど、だからと言ってお前の方がマシと言えるのか?

だから、この映画が終盤で、「優しくなってくれ!」というウェイモンドの叫びを手に、突如ソーセージ人の世界に飛び、「足はとても器用!」とエヴリンが言って戦い出した時に、ほんとうに、馬鹿みたいに涙が出た。

考えてみれば当たり前の話である。手が使えないのであれば、細かい作業は足を使う方向で発達するのは自然だ。ドアノブだって足で捻れるはずだし、ピアノも弾ける。涙だって上手に拭けるのだ。

エヴリンは巡り巡って、そこに気がつく。何かよりマシな自分を求め、より強いスキルを求めることだけが戦いではない。

ソーセージ人だって戦える。ストレートに強くないかもしれない、勝つことはできないかもしれない。それなら、別の戦い方がある。

優しさという戦い方が。

そこにはよりマシな、という価値観はない。

元の世界のディアドラを抱きしめるときの「あなたは愛らしい!」が、ソーセージ世界のディアドラともオーバーラップする演出も素晴らしい。

そこから二人でソーセージの指をニコニコ食べ始めて、それがもうあまりに良くて、昨日2回目見てきたけどやっぱり馬鹿みたいに泣いた。

人にはそれぞれ異なる身体があり、異なる文化があり、できることとできないことがある。できることで戦えばいい、相手の土俵で相手を叩きのめす必要はない。

指がソーセージという嫌悪感ですら、人は愛で乗り越えられる。

なんて優しい、うつくしい世界観!愚直なまでに単純で陳腐だが、強烈に力強いメッセージだ。

 

必ずしも、ソーセージ人が障がい者のメタファー、という気はない。むしろ、もっと大きなものを描いているはずだ。

私は、指がソーセージの人類というのは、つまり、真正面から描けば深刻になる、婉曲に描けばギャグになってしまう人たちのことだと思っている。

そういう人たちが、この世には確実にいて、皆それぞれ戦っているんだという、監督の強い主張なのだと思う。

そこに何を見るかは個々人の背景に寄るところが大きい。セクシャルマイノリティルッキズム、移民のことと読むことも可能だろう。

私は、障がいを持つ方が身近なので、そう感じたというだけだ。もしかしたら、この話は突き詰めて考えていけば、どんな人にも当てはまるのかもしれない。それでも、だからこそ、この主張には意味がある。

日本にいると、ポリコレの重要性が希薄になるという実感がある。だからポリコレ配慮を嫌う人も多いと思う。っていうか、私も、自分が知っている範疇以外はよくわからない。

ポリコレ配慮が必要な人が見えにくい国だと思う。「ママ、あの人はなんで腕がないの?」「シーッ、見ちゃいけません」これは、なんだかんだ、日本人の精神性な気がしている。見て見ぬふりをし続けていると、ほんとうに見えなくなる。

だから、「五体満足である幸せに感謝しましょう」とかいうことになる。

なんというか、これは間違っているけれども、一つ優しさでもあるとは思うんだよね。見ないことによって、考えないから拒絶も嫌悪もない。別の世界に住んでいると思っていれば、安心できる。

だから税金を払えるということもあると思うんですよ。

しかし、実際は隣のアパートにソーセージ人が住んでいるかもしれないわけで、というか、確実に徒歩十分圏内には住んでると思うんだ。

アメリカは、多民族社会だし、日本よりもソーセージ人が身近では、という気がする。隣のソーセージ人が明日戦いを挑んでくるかもしれないという。それはたぶん怖いし、攻撃したくもなるだろうし、でも、だから、優しくしてあげられるという人もいるのではないかな。

もしアメリカで絶賛されている率が日本より高いのであれば、この違いが表れているんじゃないか、と思う。あくまで私の感覚だけの話だけれどもね。

まあ欧米が~日本が~とか、私はあまり言いたくないタイプなので、この話は深掘りしない。

ただ、ソーセージ人、たぶんすぐ隣にいますよ!というのは、このブログを読んでくれた(数少ない)全員に呼びかけたいことではある。

彼らを評価したり、比較したりする必要はない。自分も彼らになり得たし、これからもずっとなり得る。

彼らに優しくすることで、彼らの戦いに参加することで、自分の何かも救われるかもしれない。

 

「いずれそのうちに、ほとんどすべての男女が、品物や食料やサービスやもっと多くの機会の生産者としても、また、経済学や工学や医学の分野の実用的なアイデア源としても、価値を失う時がやってくる。だから―――もしわれわれが、人間を人間だから大切にするという理由と方法を見つけられなければ、そこで、これまでにもたびたび提案されてきたように、彼らを抹殺したほうがいい、ということになるんです」

最近、カート・ヴォネガット・ジュニアの「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」を読んだ。これはその中の、とあるキャラクターのセリフである。

このキャラクターは、その後、こう続ける。

「耳新しいのは、ある人間がそういう種類の愛を、長期間にわたって与えつづけることができた、ということですよ。ひとりの人間にそれができたとすれば、たぶんほかの人間にもそれができるでしょう。(中略)エリオット・ローズウォーターという実例のおかげで、何百万、何千万の人びとが、目についた人間をだれでも愛し、助けることをまなぶでしょう」

引用が長くて済まぬ。エリオット・ローズウォーターは、この本の主人公のことです。

読み終えてから、これ、めちゃくちゃエブエブじゃね??と思ったら、パンフレットで、監督自ら「ヴォネガットの作品は僕らにとって経典だよ」と言っていた。

私はヴォネガットは「ローズウォーターさん~」と「スローターハウス5」しか読んでいないうえ、後者はこの間読書会で、イマイチだったみたいな話をしたばかりだった。

ただ、「ローズウォーターさん~」がエブエブと相まってめちゃめちゃ自分の中に響いたので、とりあえず作品一つずつ読んでいくか、という気持ちになっている。

まあなんだ、なぜこれを引用したのかと言えば、これがただ言いたかったんだよ。

エヴリンができたのだから、私にも、あなたにも、ソーセージ人を愛することができる。このおはなしは、そんな希望のおはなしなんだよ、ということ。

 

長くなったのだけど、エブエブでは実はもう一つ言いたいことがある。

この考察では、主にエブエブのテーマやメッセージについて語ったのだけれども……。

それとは別に、このおはなしは、母と娘の戦いのおはなしでもある。これはエブエブを語るときに外せない。エヴリンがめちゃくちゃ毒親でジョイはとても辛かった問題である。

愛と優しさに打ち震える私の隣に、毒親育ちで辛かった私というアイデンティティが延々と辛さを訴えてきていた。「あなたは太りすぎ」に関しては、あまりに辛過ぎて卒倒するかと思った。

私は今の人生で人の親になることはないと思うのだが、そういうことは絶対に言ってはいけないと思う。

「ブタがブタ食ってる」とか「アザラシが寝てるみたい」とかも言っちゃだめだからな!割と価値観が死ぬ。ブタもアザラシも可愛いと思うのに20年かかった。

……まあ、それについては別の形で記事に起こしたいと思う。

そちらのほうは恨みつらみ満載で嫌な記事になりそうなので、もしお付き合いしてくださる方はお気を付けを。