かみむらさんの独り言

面白いことを探して生きる三十路越え不良看護師。主に読書感想や批評を書いています。たまに映画やゲームも扱っています。SFが好き。

ボーダレス・アートミュージアムNO-MAの「静かな夜にことばを浮かべる」展について書く

結局、あんまり話したくないことを書くことにした。

真面目くさったことを言うのが嫌いだし、自分の仕事に関わることを表立って言うのは恥ずかしいというか、マジになっちゃっている自分がなんだか妙に恥ずかしい。

たとえ私を知る人の全員に私の生真面目さがバレているとしても、むしろだからこそ、不真面目なフリをしていたい。無理なのわかってるけど……。

それでもここ数年、自分の考えを話すことを諦めないようにしようキャンペーンを自分の中でやっているので、少し思い切って書くことにする。

というわけで、先週の旅行楽しかった話ではなく、ボーダレス・アートミュージアムNO-MAに行ってきた感想をブログに残そうと思います。

旅行はまじで楽しかったス。遊んでくれた人、どうもありがとうございました。コミュ障な私にとって友人というのは貴重なので、大変かけがえのない時間でした。

初めて琵琶湖を見たり、大阪城に行ったり、キーウィとウォンバットを見たり、めちゃめちゃ楽しかった。一人で鮒寿司(思ったより酒飲みのおやつだった)で飲んだくれたり、近江牛を堪能したりも良かったけれども、友人と楽しむ食事はやはり格別でした。

そんな中で、単に面白かったとばかり言えない展示で、ずっと心に引っかかっていたのが、前述した、ボーダレス・アートミュージアムNO-MAの「静かな夜にことばを浮かべる」という展示。

www.no-ma.jp

実はこちらを観に行ったわけではなく、林田嶺一の特別展があるというので喜び勇んで行ったのだった。たまたま同時開催だったので、ふーんこっちも見ていくか、くらいの気持ちだった。空いてたし。

衝撃だった。

こみ上げるものを堪えきれず、2階にちょうど休憩スペースがあったので、とりあえず座り込み、わけもわからずしくしく泣いた。

近年涙腺が緩んでいる(年ですね、わかります)が、それにしても、こんなに身も世もなくさめざめと泣いたのは久しぶりだったと思う。

落ち着くまで結構かかった。林田さんの展示を見るどころじゃなかった。

誰もいなかったので良かった……けど、逆になんで誰もいなかったんだ……。静かな~の方はちょいちょい人入ってたのに。一緒に見ていけよ。300円やぞ。

立ち直ってから林田さんの展示も楽しくじっくり見させていただいた。こちらは期待通り、たいへん面白かった。作品の裏側に残るメモや、彼とやり取りした手紙なども鑑賞できて、以前青森で見た時よりも解像度高く楽しめた。

そういえば林田さん、最近お亡くなりになったようで、ご冥福をお祈りいたします。

芸術としても歴史的資料としても、大変価値のある作品だと思うので、今後もいろいろなところで展示されていってほしいところ。

 

さて「静かな夜にことばを浮かべる」、とても詩的でエモいタイトルが付けられているが、これは決して詩的表現ではない。

静かな夜というのは、盲ろう、つまり、見えない・聞こえない方の世界を指している。

この展示は、盲ろうの方と支援者が、立体的に描かれた絵画作品を対話しながら鑑賞するというものになっている。

作品は3つある。動きを表現するため、たくさん足やしっぽがある犬。真っ白な猫が眠っている姿。ムンクの叫びのレプリカ。これらはカーテンに隠した状態で置いてある。

鑑賞者は、VR機器を装着し、目が見えない状態で係員に手を引かれ、カーテンの中へと入っていく。係員さんが「怖いですよね~」など逐一声かけてくれる。優しい。

そして、目の前にあるらしい絵画作品に手を置き、VRにて映像がスタート。

映像と言っても、対話の文章が目の前に浮かび、その読み上げが聞こえてくるだけである。つまり、鑑賞者は、対話の中の盲ろう者側と同じ経験をすることになるのだ。

しかし、同じ経験が、同じ想像、同じ言葉を生み出すことはない。

私は正直、3つの作品とも、何が描かれているのかさっぱりわからなかった。対話を聞いてすら想像ができない。VR機器を外して、初めて、ああこういうものだったのか、と思う。

対して、対話の中で盲ろう者の方は、「この耳は犬ですね?」とか「この絵には猫しかいないから、作者は猫好きでは」とか言っている。

彼はそのうえ、色や明るさにまで言及している。「この猫の模様は白と茶色だと思います」「ここは明るい。ここは暗い」

盲ろう者の語るものが、実際の絵と違う部分もある。そこを、支援者側が説明していく。そうやって、見える・聞こえる世界と、盲ろう者の世界を繋いでいくのだ。

ちなみに私もそれを聞きながら必死に作品を触ってみるが、脳内には!?しかない。なるほどここがしっぽ……などと思ってはみるものの、部分的にわかっても全体像がまるで見えない。最終的には諦めの境地である。そしてVR機器を取り外し、改めて、盲ろう者の理解の正確性に驚かされるのだ。

鑑賞しながら、ふと、盲者に色の感覚があるというのを、大学の講義で聞いたことがあることを思い出した。

講師として来てくれた盲の方は、自分にも好きな色があり、自分の服は自分で選んでいるという。時折、変な色合いになることがあり、友人から指摘を受けるという。

大分昔のことだが、衝撃だったので、よく覚えていた。

すごいなあ、と思ったのだった。その世界はどんなものだろうと思った。素直に。

よく覚えていたが、忘れていたのだった。この時まで。自分は見えるし、聞こえるので。

すべての展示が終了すると、主催者側の説明というか、思いが書かれた文章を見ることができる。そこでまた、さらに衝撃を受けた。

そこには、「もやもやしている」と書いてあった。この展示を通じて一つの正解に辿り着いたが、それでもこれが正しいのかわからない。主催側に優位性があるのは明らかだ。そんなことが滔々と述べられている。

ここまでのことをやってなお、主催者には苦悩があり、葛藤があるのだ。

また、その中で、通訳を通して伝えられる言葉の限界についても触れられているのも印象に残った。言葉の意味を直接伝えられないことがもどかしい。しかしここで諦めることは、盲ろう者に対して簡単な言葉しか使えなくなってしまうことだ、と。

これらを読みつつ、なんだかとても苦しくなってきてしまった。会場では鑑賞者が感想を書くメモも用意されていて、何かを書こうとも思ったのだが、結局書けずじまいになった。

動揺していたと思う。呆然と2階に上がり、座布団に座った瞬間に涙が溢れてきていた。なんで泣いているのか、自分でもよくわからずにいた。

うわあこんなん偽善者じゃん、と思った。こういうので泣くの格好悪いんじゃないか、と思った。それでも涙は止まらなくて、これを書いている今も涙ぐんでいる。

 

ブラックジャックによろしくという漫画に、かわいそうな人が好きなんでしょ、というセリフがある。

漫画の内容は結構忘れてしまったけれども、この一言だけは胸にこびりついて、離れない。

私は看護師である。大した実力もキャリアもないが、真面目にだけはやってきたはずだ。真面目さくらいしか取り柄がない私がいうのだから、確かなはずだ。

それでも、ときどき、かわいそうな患者・障碍者を助けている自分という快楽に酔っている時がある。看護的な支援が成功し、感謝されたことを、自分の手柄だと感じてしまう時がある。

自分でそれに気付くときもある。昔はその方が多かったし、確かに悩んでいた。

でも、そこそこの年数を経て、気付くことが少なくなった。もはや、そもそも、考えないことも、多い。

私は病者を食い物にしていて、それに慣れていた。

大切なことを忘れていくことばかりだ。

最初は単純に、障碍者の、特に精神障碍者の方の世界が知りたいと思っていた。看護師になれば、何かが分かるような気がしていた。

彼らは何かできないことがあって苦しんでいたし、困っていた。それはかわいそうだから助けてあげたいと思った。

かわいそう、と思う気持ちを否定する人もいるが、私は大切な気持ちだと思う。支援とは、そこからしか始まらないからだ。

何かできないことや困ったことがある?でもそれが彼の世界だ。彼は彼で楽しいかもしれないし、かわいそうがるのは失礼だろう。

うん、そういう人もいる。それは一つの解決策で、正しい在り方なのかもしれない。尊重の形なのかもしれない。でも私はこれは一つの悪だと思う。なぜならそれは、容易に無関心に変わるから。何もしない人は、すぐにそういうことを言うから。

誰かを支援するとは、究極のところ、自分が良かれと思ったことを押し付けることである。それは自分にとって普通なこととか、楽しいことを享受してほしいという思いだ。

だからコミュニケーションが必要なのだ。相手の世界と自分の世界の擦り合わせは出来ているか?相手の求めるものに、自分の支援は合致しているか?

このコミュニケーションがなくなると、支援というのはたちまち自分勝手で邪悪なものに変わってしまう。かわいそう、という思いはかんたんに、ずっとかわいそうであって欲しい、つまり、思い通りに私を満たす存在であってほしいという気持ちに変わってしまう。これはやはり、悪だ。

私は、やっぱり、どちらの悪にもなりたくない。

でもそれはとても難しいことだ。なぜならそれは、ずっと苦しまなければならないから。苦しいのは嫌だ。だから忘れていく。

自分は他者になれない。他者の気持ちを知ることは、永遠にできない。ほんとうにこれで良かったのか?と自分に問い続けて、その答えは絶対に出ないのだ。これが苦しくないわけがない。何をしたって、ほんとうのことはわからないのだ。

私はたぶん、少しばかり悪だったし、それが楽だった。

「静かな夜にことばを浮かべる」で泣き腫らしたのは、この辺りのことを一気に考えて、あまりに誠実に立ち向かっている展示主催者たちに敬意と劣等感を感じて、辛くなってしまったからなんだろうなあ、と思う。

主催者側の、盲ろう者の世界の感じ方を知りたい、絵画について分かち合いたいという気持ち、そしてその正解を希求し、葛藤する思い。それは私が忘れていたもので、忘れたくないものだった。

かつて悪であった自分、そして、これから悪になりそうな自分が、私は泣くほどいやなのです。

 

自分の心のあり様を説明できて、少しスッキリした。

というわけで、心を入れ替えて苦しむかあ、と思った。その方が、いつか死ぬときに、後悔しない気がする。

結局、看護師以外の仕事をする気は、自分にはないのである。

4月からまたお仕事が始まるので、真面目にやっていきます。それしかできないし。

長々と書いてしまったが、興味を持ってくれた方がもしいたら、ぜひ自分で「静かな夜にことばを浮かべる」体験をしてほしい。

なんと無料である。同時開催の林田嶺一のポップ・ワールド展も、たった300円で見られる。ちょっとおかしい値段設定である。

近江八幡市という、関東民にはちょっとアクセスの悪いところにあるが、関西在住の方は割とすぐ行けると思うので、ぜひとも行ってほしい。気持ちが分かる人は、一緒に泣こう。

ボーダレス・アートミュージアムNO-MA、非常におすすめの美術館です。また絶対に行きます。よろしくお願いします。

そして、全国でコロナ対策という名で無くなってしまった「さわる」展示が、そろそろ復活しますように。アルコールでウィルスは死ぬ上、接触感染はメインの感染経路ではないので、対策は比較的容易かと思います。手を消毒して、みんなで鑑賞したいものです。