かみむらさんの独り言

面白いことを探して生きる三十路越え不良看護師。主に読書感想や批評を書いています。たまに映画やゲームも扱っています。SFが好き。

ばけものになれないわたしたち(あるいは映画「来る」における人間とばけものについて)

この記事では映画「来る」および原作「ぼぎわんが、来る」のネタバレが多数含まれております。未読・未視聴の方はご注意ください。

 

三十路を過ぎてもおばけが怖い。

と思っていたけれど、よく考えたら怖いのは理不尽だったり、不可解な死の方かもしれない。

そうなると、ばけものも幽霊も、サイコパス殺人鬼も、自分の子供を虐待の末に殺してしまう親も、あまり変わりがないかもしれない。

世の中怖いことばかりである。

というわけで年末に「来る」を見まして、原作「ぼぎわんが、来る」の方も読了しました。

どちらもめちゃめちゃ面白かったし怖かったのだけれども、映画化するにあたって、ほぼ別ものに変わっているというのがまた面白かった。賛否両論あるみたいだけども、私は圧倒的に賛の立場かな。

個人的には人物造詣と展開・演出で魅せる映画と、怪異とストーリーで魅せる小説というような感じ。

 

ぼぎわんが来るか来ないかとか、怪異の説明があるかないかとか、香奈の描写と生死が違うとか、映画だけラスト付近急に少年漫画になるとか、違いはいろんな感想ブログでも言われているのであえて書くことはしない。

今回私が書きたいのは、人物造詣の差とその意味するところについてだ。

原作「ぼぎわんが、来る」の人物造詣は、大変シンプルでわかりやすいものになっている。それはひとえにストーリーのテンポを保つためであり、明らかに人間よりも怪異の恐怖とその真実部分に焦点が当てられている。

乱暴な言い方をすると、ストーリーが大変面白いので、人間たちはある程度テンプレ的な行動を取っていた方が作者にとっても読者にとっても都合が良いのだ。

たとえば、第一の主人公田原秀樹は、第一部のうちは良い夫、父親のように振る舞っているが、第二部で鈍感でモラハラを繰り返すクズだったとわかる。家族を守ろうとした思いは本物にせよ、自身のモラハラを省みることは無い。

その妻香奈は、第二部の主人公を務めるが、終始引っ込み思案で弱気な性格のまま、人を憎むことを知らない。モラハラに耐えられずお守りを切り裂く瞬間こそあれ、それもすぐに後悔している。最後には夫は家族を守ろうとしていたんだ!私も頑張らなきゃと奮闘する姿さえある。

第三の主人公野崎も、離婚歴のあるオカルトライターというだけで、ほかに大きな闇はない。無精子症で、それを自身の欠落のように感じて辛がっているが、真琴と知紗に関わる理由付けにはなっても、その内面の成長が語られるわけではない。真琴を心から愛する普通の良い男である。

対して映画「来る」はどうだろうか。

田原秀樹は最初から他者の気持ちに鈍感で見栄っ張りな男として描かれている。家庭崩壊していく様に気付きつつも、どうしていいかわからず、ブログに逃げ込む様が嫌というほど描写される。たびたび友人が多いことを見せ付けるが、真に頼れる友人はおらず、友人からもしらけた目で見られることが多い。原作から大きな乖離はないものの、より現実にいそうな人間になっている。何より怪異より日常描写が長いし痛い。

香奈は気も心も弱い女性かと思いきや、明らかに精神的な障害を持ってそうな母親に育てられたことや、借金のことが語られ、ん?と思っていると「私は秀樹が死んで嬉しかった」と語り戦慄させられる。子供を真琴に預けて不倫三昧である。エピソードだけ取ると、原作から一番変わったキャラクターと言える。

野崎は無精子症ではなく、パートナーに中絶させた過去に変わっている。それ以外はあまり変化ないが、とにかくその過去がトラウマ化しており、たびたび苦しむ様子は、もう許してやれよという気持ちになる。

三人に付け加え、知紗の話もしておきたい。原作では怪異に目をつけられた子どもというだけだった知紗だが、精神的虐待やネグレクトにより、自罰行為を行っている。ラスト付近で琴子が怪異を手なづけていた、とも話しており、意識的か無意識的か、父母や世間への恨みを利用されて今回の事態に至ったとも読み取れる。

たった三人+αだけのキャラクターを見るだけで、原作→映画で人間味を増し、現実にいそうな人物造詣に変わっているのがわかる。怪異に関係ない演出、エピソードは原作の倍以上だろう。

怪異よりも人間ドラマのほうが怖いという感想は珍しくない。モラハラ夫やそれに耐えられない妻のあり様にダメージを受けた人も多いに違いない。私も中盤くらいまではこれ何の映画だっけ?と思っていた。

明らかにホラーを犠牲にしている。何故こんなことをしたのか?

監督はホラーが作りたかったわけではないかもと述べていた。それでは何がしたかったのか?原作をほっちゃ投げて人間ドラマが作りたかったのか?

私はそれは違うと思う。

映画「来る」がやりたかったのは、理不尽で強大な怪異に対して、普通の人間が人間としていかに抗うかだったのではないか。

えっこの映画って霊能者とばけものの少年ジャンプ的決戦がやりたかったんじゃないの?と思われた方もいると思う。うん、それはそれで間違いなく正解だろう。あれほど大規模な祓いの儀式、見る方が楽しいのはもちろん、作る方も絶対に楽しかったはずだ。

ただ、この映画はかっこいい奴らが怖いばけものを異界へシュゥーッ!超エキサイティン!というだけの映画ではない。それならば原作からこれほどキャラクターと展開を変える意味はない。

前半の痛々しい人間ドラマがあるからこそのカタルシスという見方もできるし、それはそうかもしれないが、

むしろ、かっこいい奴らがばけものを祓っていないからこそ面白い映画なのである。面白いかは人によるかもしれないけど。

 

ここで、逢坂セツ子について話をしたい。柴田理恵演ずる、むちゃむちゃカッコ良いキャラクターだ。映画「来る」の感想では必ずといって良いほど語られる。語らない奴はエアプである。

このキャラクターは、原作では腕をもがれてさっさと死んでしまう。そして、ばけもののことなど一切わからない家族が戸惑い嘆き悲しむシーンが語られて終わりだ。

しかし映画での彼女は隻腕となったものの復活を遂げ、ばけもの祓いの儀式に加わるとともに、霊となって彷徨う(ここに関しては諸説あるみたいだけども、私は地縛霊推し)秀樹を成仏させる役割すら担っている。

ほんとうにかっこいい。まさにヒーロー。

しかし彼女は人間か。

ここで私が言う人間とは、秀樹や、香奈のような、前半戦で語られる、心身共に弱く、ばけものに翻弄され、死んでしまった人々である。

明らかに彼らと同じようには逢坂セツ子は描かれていない。弱さを見せず、ばけものを恐れず、死も恐れない。

秀樹を成仏させるシーンは、田原モラハラ秀樹が知紗を愛していたことが伝わる良いシーンだが、彼女がやっているのは、突然ナイフを秀樹の手に突き刺し、彼が既に死んでいることに気付かせるだけだ。

秀樹の無念を汲むこともなく、秀樹の愛に感じ入ることもない。当然モラハラを責めることもない。

あるべきものをあるべき場所に返しただけであり、秀樹は悲鳴を上げながら消えていく。ほとんど、殺したといってもいいだろう。

ばけものは秀樹を理不尽な力で殺害し、逢坂セツ子もまた、理不尽な能力によって殺害する。

こう書いてしまうと、ばけものもセツ子もあまり変わらないともいえる。

セツ子以外の霊能者にも目を向けよう。彼らはやはり化け物や死を恐れない。仲間の死も悼まない。誰か一人くらい辿り着けると述べ、死にかねない儀式を前にして楽しそうにはしゃぐ。

彼らは皆、それぞれ理屈では語れない強力な力を備えている。

そして琴子がやろうとしている儀式は、知紗を犠牲にしてばけものを祓うことだ。

つまり、知紗を殺すことだ。知紗を殺すことを、霊能者たちは躊躇わない。たとえ死んでも悼まない。

彼らは確かにかっこいい。ヒーローだ。故に人間というよりも、どちらかというとばけものに近いものだという気がする。

儀式が成功すれば、怪異は去り、平和は訪れる。でも、秀樹が、香奈が守ろうとした知紗は死んでしまうのだ。それは、怪異によって知紗が連れ去られるのとどう違うというのか。

秀樹はモラハラクソ男だったかもしれない、香奈は不倫クズ女だったかもしれない。でも、二人とも最後は知紗を守ろうと奮闘した。ばけものになれない人間は、人間としてずっと戦ってきたのだ。

先に触れた除霊の場面で、セツ子は痛みを信じろと語る。痛みとはまさに人間性ではないか。これこそは、ばけものにもヒーローにもない、人間にしかないものだ。

秀樹はモラハラとブログで、香奈は不倫で、痛みから目を背けようとしたが、そんなことでは人間はばけものになれない。彼らはずっと人間だった。

人間として大切な人を失う痛みに耐えきれず、守ろうと奮起した。それが実際には何の意味を持たないとしても、結果的に誰かを傷つけていようとも、その事実は変わらない。

前半の痛々しいほどしつこい人間描写は、彼らがばけものでなく、人間として生きていることの確かな証明であり、また、人間を超越した霊能者たちと比較するためである。

野崎もまた人間だった。だから人間としてばけものに立ち向かわなければならない。ばけものは怪異だけではない。霊能者たちにも立ち向かわなければならない。

それがあのラストなのである。彼は人間たちから受け継がれてきた、知紗を死なせたくないという思いあるいは我儘で儀式を阻害する。ばけものたちに反旗を翻すのだ。

それを甘んじて受け入れた琴子は、きっと完全なるばけもののではなかったのだろう。真琴への思いが、彼女に人間性を留まらせたのかもしれない。

そしてばけものたちは皆死に、人間たちは皆生き残る。琴子が生死不明なのは、ばけものでも人間でもあったからだろう。

ここのあたり、どうなったかという詳細な説明はない。琴子が倒したようにも見えるし、相打ちで終わったようにも見える。怪異が完全に去ったかどうかも定かではない。

個人的にはオムライスの夢を見て眠る知紗を見る限りでは、怪異はもういないのではないかという感じもする。原作ではラストでもまだ不穏な呪文を唱えていたので。

ただ、色々な解釈があるにせよ、これだけは定かなのではないか。人間はばけものに勝ったのだ。格好悪くゴネて、痛みにのたうち回って、それでも勝ったのである。

 

ここまで読んでいただいた方で、漫画ヘルシングの、ばけものを倒すのは人間でなくてはならないという言葉を思い出した人がいると嬉しいな。あれめちゃめちゃ好きなんです。

人間はどう考えても敵わない相手に立ち向かっていく時が一番カッコ良いと思う。

映画「来る」はついつい比嘉琴子や逢坂セツ子の霊能者たちをメインに語りがちだけど、基本は王道の人間がばけものに立ち向かう構造だったんだと思い、考察してみた。

実は、本記事を書くにあたってもう一回映画「来る」を見返そうと思ったんだけど、怖くて見られなかった。なので、リピーターの方々が見れば粗ばっかりの考察かもしれないと慄いている。

でもこう考えて面白かったなあというのを書くのは悪いことではないと思ったので、せっかくだからブログにしてみた。

こういう見方もあるのかと思っていただけたら幸いです。勇気と根性を貯蔵してそのうちもう一回見ようと思います