かみむらさんの独り言

面白いことを探して生きる三十路越え不良看護師。主に読書感想や批評を書いています。たまに映画やゲームも扱っています。SFが好き。

「アイの歌声を聴かせて」が弊機過ぎた件(ネタバレあり感想)

この記事には、現在公開中の映画「アイの歌声を聴かせて」のネタバレが多数含まれております。また、弊機こと「マーダーボット・ダイアリー」シリーズのネタバレも多少含まれております。未視聴・未読の方はご注意ください。

 

アイの歌声を聴かせて、めちゃ良かったです。非常に良くできたエンターテイメントで、何回見ても飽きが来ない。いやあ、サカサマのパテマから8年も待ったかいがあったってもんです。

丁寧に伏線を張り、きちんと回収する完成度の高さには脱帽。冒頭から詩音の正体は何か?という問題を、しかしあえて注目させ過ぎることなく提示し、徐々に明かしていくミステリ仕立てのストーリーが素晴らしい。

全体的なストーリーだけでなく、細やかな、たとえば、

要所要所で表情を曇らせるごっちゃん⇒後に自身が器用貧乏なことを悩んでいると打ち明けるシーンがある

主人公親子、旅行の話をする⇒物語ラストで親子がちゃんとネズミの国的なところに行っている写真が挟まれる

全世界のAIが詩音になる可能性の提示⇒実際に他のAIが詩音を応援して音楽を流す

みたいな、小さな伏線とその回収も非常に緻密で嫌味なく展開される。上記はほんの一例で、もっとたくさんあるので、それを確認するだけでも楽しい。

吉浦監督がイヴの時間のころから得意としている、AIと人間の、何だかうまくいかないのに、結果的にうまくいってしまう交流も良かった。

子どもだからこそ笑って受け入れているけれども、詩音という存在は冷静に考えたら結構怖い。その怖さを隠すことなく描写しながらも、世界はもっと優しいはずだという、吉浦監督の変わらない価値観は、楽観的ともいえるかもしれないけれども、うつくしいものであると思います。

キャラクターの成長がしっかりと描かれているのも、ジュブナイルSFとしてはポイント高い。典型的なオタク少年だった十真が、好きな女の子を守るために頼りがいのある男になっていくのは、ベタベタお約束だけど、なんだかんだそういうのが一番面白くて好きです。肩を丸めて縮こまっていた序盤から、だんだん背筋が伸びて背中広くなっていく感じは正直トキメキを感じる。

詩音がいなかったら仲良くなりようがなかった5人の少年少女が、手を取り合いかけがえのない親友同士になっていくのも、見ていて気持ちがいい。ぼくだってこんな友達がほしかった。ていうか、みんなほしかったでしょ?

眉村卓先生のジュブナイルSFを思い出させる、古き良き王道お約束シナリオなので、最近良質なジュブナイルないな~というひとに程見て欲しいです。心が洗われるよ。

普段地獄のような作品の海に浸かっている私ですが、たまにこういうストレートな癒しの物語に触れると、打ちのめされて浄化されていい感じになる気がします。

 

とまあこんなね、大絶賛した記事なんて他にいくらでもあるし、たぶん吉浦監督の欠点とかも浮き彫りになった作品ではあると思うんで、その手の記事もいくらでもあると思うんですよ。

欠点に関しては、私もいくつか挙げられるんだけど、私は絶賛したい組なので言わない。監督には気持ちよく次作を作ってほしいし、これ読んでくれた私の周囲の人も、気持ちよく吉浦監督作品を視聴してほしいので。

さて、今回記事にしようと思ったのは、最近話題のSF小説「マーダーボット・ダイアリー」こと「弊機(主人公の一人称)」に面白いほど似た部分があるということである。

パクリとかではない。というか、翻訳もされていないのにパクったのなら逆にすごい。

ちなみにオマージュした作品は楳図かずおの「わたしは真吾」と監督自身も(作品名こそ出さないが)認めているみたいです。未読なので今度読みます。

単純にたまたま描き方が似通ってしまったという話だと思うんだが、何が似ているか、それが何を意味するのか、ちょっと語ってみようと思う。

 

まず、AIである詩音の人間観が、デ●ズニープリンセス映画「ムーンプリンセス」から来ていること。そこから人間同士のコミュニケーションに歌と踊りが入り込む。この映画におけるミュージカルシーンは、正しいミュージカルではなく、ミュージカル映画の真似だからこそ意味を持つ。

ムーンプリンセスに描かれない、複雑な人間の感情は詩音にはわからない。冗談を真に受け、何もかも言葉通りに受け取り、そのために他者の感情を勝手に推し量ったり、傷つけたりする。

また、作中ではっきりとは描かれないが、詩音自身がムーンプリンセス憧れを抱いているのではないか?暗に示されるシーンもある。人間=悟美を理解するためのものだった「ムーンプリンセス」だが、詩音がAIとして成長し、人格を持つ過程に深く食い込んでくるようになっている。

詩音は、何年も前の十真からの命令「悟美を幸せにすること」という命令を確実に実行しようとする。自律型のAIであり、人間を超越した頭脳と身体能力を手にしながら、意図して人間を傷つけることはなかった。比較的序盤に緊急停止装置も外され、なんでもできたにも関わらず、彼女が行うことはムーンプリンセスの歌と踊りで悟美(とついでにその友達)を幸せにすることだけなのである。

「マーダーボット・ダイアリー」を読了した諸君は気が付くであろう。

弊機ことマーダーボットくん(ちゃん?)も、ほぼ同じなのである。

弊機は人工物と有機組織が融合している存在(警備ボット)であるため、完全にAIとは呼べないのだが、人間の役に立つことを目的として作られ、統制モジュールによって思考や行動を管理されている部分は似たようなものである、と考える。どれくらい生体脳があるかとかよくわからないし。

弊機は人間など比にならないほどの頭脳と身体能力を持ち、そのうえ統制モジュールをハッキングして、自らフリーに動ける状態である。しかし彼(女の子かもしれないけど便宜的に)がやっているのはたくさんドラマを見ながら警備のお仕事をがんばることである。

過去にマルウェア攻撃を受けて人間を殺戮してしまったという事件から、彼は自身をマーダーボットと呼ぶが、それは明らかな自虐であり、後悔がある。彼自身は人間の役に立つのが根本的に好き(文句は言うけれども)、自身が好ましく感じる人間の役に立つのはより大好き(表立っては認めないけれども)なのである。

ちなみに新作の「ネットワーク・エフェクト」では弊機と同じ警備ボットの存在も示されるが、やっぱり彼も人間の役に立ちたいと望んでいた。この感覚は弊機だけが特別ではないようである。

彼はたくさんのドラマから人間や人間社会について学び、(自分では決して認めないだろうが)ドラマティックな演出や人間関係に憧れている。

 

簡単にまとめると、詩音も、弊機も、人間の役に立つために生まれ、人間の役に立つのを好み、人間の作った作品から学び、憧れ、成長していく。

彼らは人間に復讐しない。下等な者と断じて殺戮したりもしない。弊機の方は命令と状況如何では人間も殺すけれども、顧客の利益と慎重な判断のもとに行っているし、無闇に殺すのは躊躇っている(殺した方がいいとか殺すとかは心中で言ってるけど)

AIってこういうのだっけ?とあんまりSFたくさん読んでない私なんかは、思うわけである。

マーダーボット・ダイアリー初読の時、弊機ちゃんと彼を簡単に受け入れる人たちを見て、優しい世界過ぎん?と思った。アイの歌声を聴かせても、成長したAIが存在し続けることに対して、一歩間違えば大惨事になるんじゃないか?とホラーみを感じる人のツイートが比較的多かった。

私は一般人なので、AIが人格や感情を得たとき、人間を支配するのではないか?という感覚が結構ある。実際、AIをネタにしたおはなしでは、人間になりたいと願ったり、人間に使われるのは嫌だと反旗を翻したり、が正統なものだと思っていた。

グーグルで検索をかけると、サジェストで支配とか危険とか出てくるので、割と一般的に通用する感覚だと思う。

しかし今回、あまりに優しいAI(とそこに準ずる存在)を見て一つ思ったのが、私のこの感覚って、ロボットの中に人間の脳が入っているんじゃないか?というところに起因するよね、ということ。

自分だったらこの状況は辛いから復讐するとか、自分だったら下等な人間は殺してやるとか、人間になりたいとか人間として認められたいと思うだろうとか。

でも実際、それは違うんじゃないかと、詩音と弊機を見てて思った。彼らの人格や感情は、人間と似てこそいるが、人間のように進化するわけではないのではないか。

だいたい、人間の発達や思考様式だけがこの世の全てではないはずだし、人間が作ったからと言って、必ずしも人間のレプリカではないはずである。

AIは、与えられた命令を遂行するというのと、多様な人格や感情を持ち、自分の考えを持って行動するというのと、それを同時に抱えて成長していくというのは、必ずしも矛盾するものではないのではないか。

弊機であれば、人間を警備する・守るをしながら自分のやりたいことを見つける、だし、詩音であれば、悟美を幸せにするをしながら自分自身の幸せを見つける。

今、技術発展が進み、AIが身近になったことから、AIに対する価値観の変換を迎えているのじゃなかろうか。だからこそ、弊機や詩音は同時期に世に出て、好評を得ているのではないか。

彼らがまるで人間のように考え、人間たちを支配するとか反旗を翻すとかホラーとか考えるのは、あまりにも人間中心主義であり、彼らに対する侮辱なのでは?という気さえする。

そのうち彼らのようなAIものが主流になるんじゃないか、また、いつか、彼らの物語が、優しい妄想の世界ではなく、当然の世界になる時代が、来るのではないか、なんて考えてしまった。

まあ実際のAI開発についてはまるで無知なので、もしなんか考え方が間違っていたら有識者の方教えてください。

それでも、AIの一つの可能性を示す、似たような物語が、海外でも日本でも同時期に発売されているのは、価値観が変わってきているのかなあ、なんだか面白いなあと思うのです。

 

アイの歌声を聴かせて、と、マーダーボット・ダイアリー、他にも演出面で似ているところが結構あるので、その類似性も単純に見てて面白いと思います。

監視カメラをハッキングして理想のデータを送ったりとか、画面の左下にムーンプリンセスがずっと再生されていたりとか、これ弊機で見た!ってやつが多い。ほんとにパクリじゃないのか?(違います)

弊機がアニメ化されたら、こんな風に小気味よい演出を使ってほしい……けど、アニメ化はしないだろうなあ。アニメーションにしたら絶対面白いと思うんだけど。

ここまで読んでくださった方、もし時間があれば両方の作品を見ていただいて、架空の弊機のアニメについてでも語り合いましょう。

また東方をやるしかなくなっている近況報告

先月あたりから鬱々していて、ツキイチくらいで書いていこうと思っていたブログもなにも書くことがない。

本もあまり読めなくなった。物語があまり受け付けない。目が滑る。

今月の読書会は、大好きなイーガンの祈りの海で良かった。祈りの海なら大体昔考え尽くしているので、言えることが色々ある。直交三部作とかだったら怪しかった。

あ、でも友人たちと見たミッドサマーは楽しかったです。

アリアスター氏は、ジョーカーの監督と同じく、なんか本質が見えてしまう作家なんだろうなあと感じる。

ヘレディタリーもそうだけど、奇抜な物語なのに、人間のコミュニケーションで辛かったりもどかしかったりする部分(つまり多くの人から共感できる部分だよね)を見事に貫いてくるので、我々から凄く近い物語のように感じるんだよね。

そういえば、最近鬱々ながらもこの辺のことをぼんやりと考えている。

私は舞城王太郎が大好きなんだけれども、舞城フォロワーのアマチュアが尽く成功していないのを、昔は舞城は日常描写が秀逸だからと思っていたんだが、これは微妙に違ったんだなあと最近思う。

突飛でなんかヤベエ物語が面白くなるかつまらなくなるかの分かれ目って、そのヤバさが死ぬほど面白いのは大前提として、入口として読者が共感できる描写(心情とか、日常動作とか)をいかに入れ込むかなんだろうと思う。

ちょっと頓挫しているけど、最近傑作選を買ったラファティもそんな感じがする。基本イカレているのに、完全に狂っていないというか、先の入口描写がしっかりしていて、いつの間にか物語に入り込める。

このへん、うまいことまとまったらブログに書いてみたいと思います。

 

話がそれた。

なんで鬱々しているかというと、季節の変わり目というのが一つあるが、とにかく夜勤が多いのがだいぶキている気がする。

日勤5連勤をしているよりはだいぶ体は楽なんだが(それも変な話である)、さすがに月半分夜勤になってしまうと、私のつよつよイキリ自律神経もいかれてくるようである。楽な仕事ばかりじゃないしね。

夜勤できる人が増えたらもう少し夜勤を減らしてもらおうかなあと思うんだけど、また年度末にかけて怒涛の退職ラッシュっぽいのでそれも憂鬱である。ついに仲の良かった同期が辞めてしまうのもかなしい。お局様にいじめられてたから仕方ないんだけど…。

新しく入ってくる人もまともなのがあまりおらず、短期間で辞めるのであてにならない。こないだも2週間で辞めた。

普通に考えると、こんな離職者の多い職場は辞めるべきなんだけれども、仕事自体は楽しくてやりたかったことで、似た仕事ができる職場は遠くにしかないから辞めずに職場改善したいという気持ちがどうしてもあるからというのがある。

後、お局様たちともそこそこ仲良くやれているのと、上司とも仲良くしていて高く評価されてもらっているのもある。基本給はともかく、ボーナスは割増されている感が凄いのでそんなにお金に困っていない…。

大体看護師なんて、どこに行っても極悪ブラック底辺の限界に挑戦!みたいな感じでおおむね人権がない職業なのである。

ここから離れようとする人たちは、大学院に行くとか、企業看護師やら訪問看護ステーション立ち上げやら保健師やらへランクアップするんだけれども、なんたってあたくし研究や営業など向いていなさすぎて考えただけで死んでしまいそうなのである。

看護師としては無駄に学歴があるけど、優秀な看護師さんっぽいキャリアの積み方ができない…いろんな意味で…。

かねてから競争が嫌いすぎて受験もままならず、学力はそこそこ高かったものの、受験勉強はほぼセンター対策しかしていない。二次対策は大好きな現代文の先生と大好きな現代文赤本を死ぬほどやってて、過去一楽しい日々だった(それもどうなの)

国語だけ偏差値がバカ高かったが、かといって文系に行くのは親に許されなかったため、なんか看護師になってしまった。医学はそこそこ好きだったので。

今となってみれば、看護師は性に合っていたし、自律神経と体力は強かったので、悪い選択ではなかったと思うのだけど、時々ものすごく沈む時がある。

幸せな人間の不幸探しと言えばそれまでだけれども、これからの人生、何に狂えることもなく消化試合を続けていくのだと思うと、つまんねえなあと思うわけである。

自分の性質的にもうランクアップはなく、管理職にランクアップすればほぼ仕事の生活になるだろうし(それはいやだ…)、かといってもう子供は望めない(望まないし育てられない/虐待する自信すらある)

ただただのんびり老いていくだけである。

せつない。

私だって何かになりたかったんだよな。

でも人間には限界があるので、できないことはできないのですわ。

そんなわけで落ち込んでます。人生的に。

さてそんなときは……。

 

そんなときは、東方をやろう!大天才ZUNの音楽でトリップしようぜ!

ということで、また東方シリーズに嵌っている日々である。

先日やっと星蓮船のEx(本編ノーマル難易度よりやや難しい面)をクリアして、達成感と喜びに満ち溢れていました。

今年東方虹龍洞という新作も出ていて、そちらも楽しく遊ばせてもらっています。

東方と書いてマインドフルネスと読む。マインドフルネスとは、最近心理学業界で流行っている「今ここ」を感じる体験のことですな。ちょっと前は私も心理かじってた仕事だったんでヨガとかやってみましたが、全然マインドフルにならんかった。

しかしシューティングはちがう。シューティングは全身全霊で遊べるジャンル。

そして叫ぶ!悪態をつく!近所迷惑だが気にしない!素晴らしいストレス発散。努力の果てに見える達成感。積み重ねると確実に上手くなる技術。東方シリーズは女の子も可愛い。ウェイ

今は神霊廟地霊殿のExチャレンジしてます。むずかしいです。

書いてたらだんだん元気になってきたので、来月は何かしら面白い論考が書けると良いなあと思います。本読めるようになりたいよーあと紅葉狩り行きたい。

明日(も夜勤)からまたブラック企業戦士がんばります。

才ある人間は真実を見抜く(映画「ジョーカー」考察&解説)

※本記事は映画「ジョーカー」のネタバレを含んでいます。未視聴の方はご注意ください。

 

前回、映画「ジョーカー」の主人公アーサーは、軽度知的障害、あるいは境界性知能ではないかという考察を挙げた。幼いころの虐待から、不安・恐怖を感じると笑ってしまう障害があることも付け加えた。

前回の話では触れなかったが、映画「ジョーカー」には妄想と現実の区別がつかなくなるような場面が存在する。が、私はこれをもってアーサーが妄想性障害や統合失調症と考えてはいない。

なぜなら、アーサーが作中で、妄想と現実がごちゃごちゃになったために、混乱したり、激怒したりする場面がないからである。警察に対して怯えるシーンもないしね。アーサーの「こうだったらいいのにな」という想像を、視聴者たる我々が一緒に楽しんでいるだけ、と考えても辻褄が合うように作られているのが、この映画の巧妙なところなのである。

前回の補足を入れたところで、もし前回の記事を読まれていない方は、そちらから読んでいただけるとありがたいです。アーサーという人間が何故こんなにも生き辛く、困難を抱えているかが少しわかるかもしれない。

この解釈をもってすると、映画「ジョーカー」の冒頭部分、ピエロ営業の雇用主に呼び出されるシーンに、一見しては見えないものが見えてくる。

 

と、この解説をする前に、私が看護師として知的障害者を支援する際に、彼らを理解する方法として考えていることを教えておきたい。

前回の記事でも少し触れたが、私は英語ができない。といっても簡単な単語や文なら理解できる。絵や表情があると理解しやすい。ただ、長文になると読めない。まじでわからない。難しい単語が増えたり、文型が複雑になるとその時点で放り投げてしまう。パニックだ。

若干難聴気味でもあるので、当然リスニングも壊滅的だ。言葉の情報がわからないのに、音の情報なぞ理解できるわけもない。ヘッドホンから英語が流れてくると今でも恐怖に打ち震える。

他の教科は比較的できたほうだったので、高校生の頃は劣等感や不安感に苛まれて、とてもつらかった。いや、今でもつらい。英語が怖すぎて海外に行きたいのに行けず、30歳を過ぎてしまった(そしてコロナで行けなくなった。がーん)

よく、英語が苦手でもジェスチャーや簡単な単語で乗り切れるよ、と言われる。

無理だ。

なぜなら、みっともないからだ。私の中で、そのみっともなさがどうしても、どうしても許さないからだ。

馬鹿の癖に何を言ってるんだと笑う人もいるだろう。その通りだ。

でも、それは私の性格であり、性分で、これはもう受け入れざるを得ない事実だ。泣くほど悔しいけど、私は英語を得意になることはできないし、苦手だからと笑って積極的に非言語コミュニケーションをとることはできない。

だから英語はできるだけ避けるようにしてきた。英会話などもってのほかである。怖いことはしたくない。

私は、これが、普段の生活、普通の会話で起こっているのが知的障害の方の世界なのだと思うようにしている。これが正しい理解かどうかはわからない。そもそも私の場合は多少プライドが高すぎるきらいがあるが……。

まあそれはともかく。こう考えると、彼らの不安感や辛さ、大変さがなんとなくわかるような気がするので、そうしている。

長い文章が理解できない、内容や単語が複雑になるとパニックになってしまう、たくさんの情報があるとキャパオーバーでなにもわからなくなってしまう。これが続いた結果、わからない、パニック、怖いから、コミュニケーションを避けるようになる。

皆さんも、もし英語が苦手なら、想像してほしい。英語が得意な人は、数学が周りに満ち満ちているような状況とか想像してほしい。

滅茶苦茶頭がよくてわからないって人は、グレッグ・イーガンの「シルトの梯子」あたりを読んでいただいて、その内容が世界に満ちていると想像してくれ。

そしてそれを、周りの人は難なく理解し、何故理解できないのだと折々に問いかけてくる。あなたはそれに耐えられるだろうか?

知的障害と診断がついていれば、比較的支援してくれる機関も多いのだが、軽度知的障害や境界性知能の方は見つからずにいることが多い。普通学級に入れられてしまい、劣等生として扱われ、鬱病などの二次障害を抱えてはじめてわかるというケースが大変多いのだ。

長くなったが、一旦これを念頭に置いて私の考察あるいは解説を聞いてほしい。

 

さて、アーサーが、雇用主に呼び出されるシーンを思い出してほしい。突然の呼び出しを受け、アーサーはまず、こう言われる。

「コメディアンになれたか?」そしてこう続ける。「君はいいやつだ。不気味だというやつもいるが」ここまで前置きをして、「それはともかくまたしくじったな」と告げる。そうして、看板盗んだことを責めるのだ。

アーサーの視点から見た我々には、雇用主に状況を理解してもらえない、絶望的で辛いシーンに映る。こんなにも辛い思いをしたのに、温情を掛けてくれない社会の冷たさ!そんな風に見える。

しかし、これはアーサーから見た一方的な視点だ。

雇用主の言うことをよく聞いてみよう。

「楽器屋がカンカンだ。君は仕事場から消え、看板も返していない」

おそらく、雇用主は、仕事中に逃亡し、看板を奪ったとしか聞いていない。

我々は直前のシーンで、「襲われたって?」と慰められるシーンを見ているから、アーサーの状況は伝わっているはず、と思い込む。しかしこのシーンは、銃をもらうところまで含めて明らかにヘンなシーンなのだ。

まあ、アーサーが銃をもらったかどうかは、解釈の余地があるのでここでは触れない。

ただ、このシーンの前にアーサーが看板を盗まれてリンチされたことを誰かに話したシーンが一つもないこと、そもそもアーサーと他のピエロたちがまともにコミュニケーションをとっているシーンがないこと(優しくしてくれたのは、あの小人症の男性だけ)を考えると、アーサーがあの大男のピエロに慰められるというのは妙な話である。

加えて、母の看護の際に傍で慰めてくれた恋人がまるっと妄想であったこと(劇中で妄想が妄想と示されるのはこの恋人の一件のみである)から考えると、このシーンはアーサーの妄想、あるいは、こうだったら楽しいのにいう想像と考える方が自然だ。

アーサーの状況を理解していない雇用主がアーサーを叱るのは当たり前だろう。

雇用主に、アーサーはどう映るだろう。仕事を台無しにしたくせにしらを切る、不届きな奴である。

では、アーサーは何故状況を説明しなかったのか?

伝わっていなかったのなら、説明すればいいだけだ。悪い子どもたちにからかわれた挙句看板を取られ、自身も暴力を受けて伸びていた。とてもつらい出来事で、仕事に戻ることができなかった。彼はただ、そう説明すればよかったはずだ。

しかしアーサーは、「盗まれたんです。聞いてない?」としか言わない。なぜか。

解答は一つしかない。

無理だった。

彼には、説明するだけの能力がなかった。そして、自分のおかれている現状を理解することもできず、雇用主が何を求めているのかわからない。とても辛いが、辛いと認識してそれを表現する能力がない。ただ、自分は怒られている。馬鹿にされているかもしれない。それはわかる。というよりむしろ敏感に察知する。

彼は、相手の雰囲気や態度は比較的読める人間だ。笑いの発作が起こった時、これはマズイと理解している(口を押えたり、カードを渡したり)。マレーの番組で自分が取り上げられた時も、瞬時に自分は馬鹿にされているのだと気づいている。

ただ、相手の言葉の内容を理解し、意図を読み取ることはできない。これは前回の記事で詳しく書いているので参照してほしい。

では、つらい、苦しいと泣き喚けば良いのでは。

無理だ。

彼は自己愛が強い。これは監督も述べている。日常ではほとんど喋らないくせ、妄想あるいは想像のなかではとにかくカッコつけてキメている。

母にさえ、カウンセラーにさえ、彼は辛いとか怖いとか、言うことができないのだ。

長い文章が理解できない、内容や単語が複雑になるとパニックになってしまう、たくさんの情報があるとキャパオーバーでなにもわからなくなってしまう。これが続いた結果、わからない、パニック、怖いから、コミュニケーションを避けるようになる。

 

他者とコミュニケーションが取れなくなった結果、誰にも理解してもらえない。寂しさを妄想/想像で埋めるしかない。

これが彼の世界だ。

そして、雇用主は、たぶん、善良な人間だ。

アーサーの状況がわかれば、力になってくれたはずなのだ。

重ねて言うが、雇用主は、口こそ悪いものの、こんな状況においてもアーサーのコメディアンという夢を馬鹿にしないし、「君はいいやつだ」と言っている。そのうえ、「力になりたいんだ」とまで言う。アーサーは聞いちゃいないのだが。

さらに言うと、こんなことがあった後もアーサーを雇い続け、小児病棟の仕事を任せている。不気味だと周囲からクレームがついている、へまばかりやってにやにやしている男をだ。少なくともこの時点では、アーサーにわずかなりとも好意的な感情を向け、ほんとうに力になってやろうと思っていたはずなのだ。

アーサーは、しかし、その好意も助力も受けることができなかった。雇用主の意図も言葉も理解ができなかったから。自分の気持ちが表現できなかったから。

このシーンは、アーサーが知的障害であったことから、説明もできず、相手の言い分も理解できず、それ故に、事情さえわかれば優しくしてくれるかもしれなかった相手に気味悪く思われてしまう、という、とても切ないシーンだったことがわかる。

 

私は、ここまで考えた後、自分が見聞きした親子の状況が、これにほとんどそっくりだったことを思い出した。

その子は、実は境界性知能であったのだが、一見わからなかったため、普通学級に通っていた。しかしどうもいじめを受けている様子だった。しかし、親がいくら学校のことを聞いても、子は答えない。ぼんやりと笑っているようなありさまだったため、親はなんだか気味の悪い、変な子だと思っていた。

しかし次第に引きこもるようになってしまい、児童精神科に連れていった結果、知的障害と抑うつが診断される。実際は子は大変つらい思いを抱えていたが、それを説明したり、表現したりする術がなかったのだ。

個人情報を漏らすわけにはいかないので、こんなふんわりした情報しか書けないのだが、それでもアーサーと雇用主の状況によく似てはいないだろうか。

折々、思うのだが、知的障害者の障害とは、知的に問題があることではない。そんなことよりも、他者の無理解や、劣等生というレッテル、コミュニケーションの不全などのほうが、よっぽど彼の障害になり得るのである。

 

監督である、トッド・フィリップスはドキュメンタリー作家としても働いていたのだそうだが、その時に知的障害の取材でもしたのだろうか?

その取材が入念だったから、私が看護師として何年も見、関わって考えてきた見解と一致するのだろうか。

それとも、こんなのは私の思い込みで、偶然にも真実を映し出すおはなしを作ってしまったのだろうか。

きっと、そうではないのだろう。

取材はあったのかもしれない。しかし優れたクリエイターというのは、得てして真実が見えてしまうものだ。と私は思う。

それは、細かい様々なシーンに現れている。

アーサーが精神科に入院させられた時、ドアの窓で頭をゴンゴンと叩く一瞬のシーン。あの一瞬のシーンで、アーサーの自己愛と寂しさを見事に表現している。というのは、何年も精神科にいた私だからわかる。

あれは自罰行為でも、自傷行為でもない。自己愛が強く、自分を見て欲しい、認めて欲しい、アピール行動がやめられない患者の切ない行動だ。彼らはわざわざ医療者から見えるところに頭を打ち付ける。見えるように傷を作り、見せてくる。

もう一つ。エレベーターの中で、暴れる患者の傍に医療スタッフと警察官がスンッとした顔で待機している。これが精神科に行きますよという表現だ。これまた素晴らしい観察眼だと思った。

暴れる患者は典型的な精神疾患の表現だが、病棟の中ではなく、外から搬送中であることがまず素晴らしい。病棟内では暴れる患者は周囲から隔離されるので、面会客には見えない。見えるとしたら搬送中の状態なのだ。警察官が逮捕して連れてくるのも、割とあるあるである。在職中は(患者が)お世話になりました。

付き添う医療スタッフが、スンッとして、患者に何かを語りかけたりしないのも、良く見えていると思う。私もあの状況であれば、スンッとしていると思う。

まず、あんな状態になった患者にはコミュニケーションが通じないというのが一つ、そして、周囲を不安にさせないよう、何かあったら対応できますよ大丈夫ですよアピールが一つ、あとは、ああ…この患者を今から面倒見るんだ、大変だ…という疲労感が一つ。

この二つのシーンは、よく見ていなければわからない、普通だったら見逃しがちな景色だ。数年働いた私がやっと思いつくアイデアだ。

まあ、必ずしも監督のアイデアとは限らない。医療関係者から助言があったのかもしれない、とも思う。けれども、様々なアイデアの中で、これを選び取ったのは、やはり慧眼と言わざるを得ない。

こんなにも真実が見えてしまう目で、作った映画に、偶然というのは考えづらい。考えれば考えるほど、良く練り込まれた、現実を映す鏡のような映画だ。

私は積極的に映画を見る方ではないのだが、この監督の映画は時間はかかれどちゃんと見たいなと思う。

とは言っても、ジョーカー2を出すとかいう話もあって、それは若干心配ではあるんだけど……。そのうちまた凄いものが見られるといいな。

それまでは、自分も目を養っておかなきゃなあ。凡人なのでなんとも難しいけれど、真実めいた何かが、自分に見えたら人生少し満ち足りたものになりやしないかと、時々思います。

アーサーとは「何」だったのか?(映画「ジョーカー」考察&解説)

※本記事は映画「ジョーカー」のネタバレを含んでいます。未視聴の方はご注意ください。

 

最近岡田斗司夫ゼミにだだハマりしてしまって、片っ端から動画を見る日々が続いている。恋愛観とか理解できない部分はあるのだけれど、様々な作品の見方を教えてくれる動画として非常に価値が高いと思う。

というわけで、「ジョーカー」を見たいと思ったのも、この動画きっかけなんだよね。

 


www.youtube.com

 

非常にわかりやすく素晴らしい解説なので、もし興味がある方がいたら、こんなブログなんか読んでないでとりあえず見てみて欲しい。

さて、この解説の中で、「主人公アーサーのメモは誤字脱字だらけ、それは教育の問題ではなく、知的障害があることを表すもの」と語られている。そして「知的障害だから彼は友達がおらず、まともな仕事もない」と。

ここに私はちょっとひっかかった。というのも、誤字脱字だらけ、字が下手であることは、必ずしも知的障害にはつながらないからである。たとえば、発達障害で非常に知能が高い人間は、自身の頭の回転にペンが追い付かず(発達障害では手先が不器用というのが症状としてある方も多いため)、結果的に雑で誤字脱字だらけのメモを残すこともあるのだ。

実際、コメント欄でも、アーサーは知的障害ではないのでは、というコメントも見られた。数多ある「ジョーカー」の感想ブログでも意見は分かれているようだった。

と、いうわけで、実際に、アーサーは知的障害なのか?という目線で本映画を見てみることにした。

 

結論としては、アーサーには軽度知的障害があると感じた。ただし、一見してそう見えない程度のものである。

私は医師ではないから、当然診断はできない身なので、個人的な所感でしかないのだが、おそらく彼は境界性知能、つまり、健常と障害の間、グレーゾーンにいる方ではないかと思う。

私が見つけた限りでは、三点証拠がある。三点もあれば十分だろう。ということで、今回はこれについて話していきたい。

 

・手帳が誤字脱字だらけ

これは岡田斗司夫氏が語っていたことであり、作中でも目立つように描写されている部分である。前述したとおり、私は英語が読めないので字幕を頼りにするしかないが、字幕でも誤字が強調されていた。

また、いくつか巡ったブログによれば、アーサーが使用する単語は易しいものが多く、幼稚であるということだった。何度も言って自分で傷ついているのだが、作中の英文を読もうとしても(字の汚さもあって)読めなかったので、もし間違っていたら申し訳ない。

さて、これはもう製作者が強調していることなので、特に語る必要はない。

 

・ニュースやラジオを見聞きするシーンはあれど、アーサーが社会情勢を把握しているシーンが一つもない

作中のゴッサムシティは清掃業者のストやピエロの殺人があり、結構世紀末な状況になっている。その件に触れたニュースやラジオ、新聞もたびたび登場する。

しかし、ラジオやニュースはたびたび声が遠くなる演出が入ったり、シーンがカットされたりして消えてしまう。触れられるのは主に簡単な状況と街の人の感想、市長のお気持ち表明くらいだ。新聞も基本的に見出ししか写されず、アーサーが内容を読むシーンは一度も映されない。

視聴者はアーサーの視点でしか物を見られないので、何故ストがあるのか、何故福祉サービスが閉鎖になってしまうのか、ピエロのデモはどんな規模で起こっているのか、などなど、なにもわからない。

アーサーが社会情勢について何か口に出すこともない。当然、誰かと意見交換することもない。せいぜい、ラスト、マレーに対して語る「誰もが大声で怒鳴り合ってる」とか「誰も他人のことを気に掛けない」とかそんなところだ。とても抽象的だ。

ここまで演出が徹底しているのは、一つには、どこまでが現実で、どこまでがアーサーの妄想かわからないようにするためでもあろう。また、よくわからないという状況を設定することで、一種ホラー的な面白さもある。

そしてもう一つ、アーサーがニュースなどの情報を理解していないということも示していると思う。

アーサーは、ニュースを見るし、新聞も買う。あの貧困の中で、彼は明らかに社会に興味を示している。しかし、彼には簡単な情報以外理解できない、と考えると、この演出の徹底ぶりが説明できるのではないか。

 

・アーサーはジョークを理解していない

監督はインタビューで、アーサーがほんとうに笑っているのはラストシーンのみと述べている。ということで、作中でジョークに対してアーサーが笑うシーンは、すべて作り笑いである。

ジョークライブでメモを取るシーンを思い出してほしい。アーサーの笑いは他の観客と完全にタイミングがずれている。そして、アーサーは懸命にメモを取っているのだが、それは「目を合わせる」「下ネタは受ける」ということだけだ。大学教授がどうのユダヤ名がどうのという、あの場で笑いのネタとなっている部分には(少なくとも字幕と私が懸命に読み取った英文では)触れられていない。

また、その少し前でマレー・フランクリンショーを見るシーンがあるが、ここではアーサーは妄想に耽ってしまい、マレーのジョークは一つも聞いていない。

さらに、アーサーが考えたジョークはジョークの体をなしておらず(これは各人の感覚もあるかもしれないが)全く面白くない。

ここから、アーサーはジョークを理解することができないと考えられる。他者と感覚がズレていて笑いの本質がわからないとも考えられるが、彼は「Dont forget to smile」のforget toを消す、タイムカードを打つ、硬貨な人生といった簡単なダジャレは解している。他者と大きく感覚がズレている、サイコパスのような状況とも考えづらい。ごく単純な笑いのツボは理解して押さえているのだ。

ただ、ライブで披露されるような複雑なジョークについては理解が及ばず、演者の動作や自分が理解できる部分の言葉だけしかとらえることができない。

これは少し想像が入った考察だが、手帳に貼られた数々のエッチな写真は下ネタジョークのつもり、ラスト、マレーの前で披露する酔っぱらいに息子がひかれたというのも不謹慎ジョークのつもりなのだろうと感じた。

彼は複雑なジョークがわからないため、どこかでウケていたネタの、自分が理解できる一部分だけを切り取って、自分のジョークにしたつもりだったのではないか。

 

この三つの証拠から、アーサーは軽度ではあれ、知的な障害を抱えていたということがうかがえる。

その原因としては、幼いころ受けた虐待による脳障害なのかもしれないし、虐待により発育が阻害された結果なのかもしれない。

不運にも生まれつき知的障害を患っていたために、虐待される結果となったのかもしれない。知的障害児、特に未診断の境界性知能の子供は虐待されるケースが多いと聞く。

虐待と言えば、アーサーの笑いの発作は脳障害ではなく、被虐待児が恐怖におののいているのに笑ってしまうという症状ではないかという考察があった。個人的には最も腑に落ちた考察である。

脳障害やトゥレット症候群(自身の意に添わず体が動く疾患)と捉えている感想もあったが、よくよく見るとアーサーが不安や恐怖を感じる(だろうと推察できる)場面でのみ発作が発動している。例えば、攻撃性の高い会社員と電車に同乗したときや、ジョークライブで観客の前に立たされた時である。

脳障害やトゥレット症候群では、場面と関係なく症状が起こるものであるため、可能性としては低いと思われる。

岡田斗司夫氏の解説にも、笑いの発作は脳障害ではなく、自身の感情を抑え込んでいるからでは、とあった。

被虐待児は、親を刺激しないためにできるだけ笑っていることがあると言われている。「ジョーカー」本編でも、母親が「あの子いつでも笑ってるの」という描写がある。このシーンはアーサーの妄想かもしれないが、たとえそうだとしても、アーサー自身、笑っていなくてはならなかった、という記憶があったのだと思われる。母に笑っていろと言われた記憶なのかもしれないが。

被虐待児の支援の論文で、対象児が他者との信頼関係を作ることができず、他者との繋がりたいという気持ちをにやにや笑いでしか表現できない子どもの論文を読んだこともある。

トーマス・ウェインや、福祉サービスのソーシャルワーカーとの会話時の笑いは、恐怖・不安とともに、繋がりたいという必死のアピールだったのかもしれない。

アーサーの発作的な笑いは、攻撃されないための処世術であり、他者と関係を築きたい気持ちの表現であると考えると、「ジョーカー」は、それがすべて裏目に出て台無しにされる、大変残酷な映画のようにも思える。

 

少し脱線したのでまとめると、アーサーは境界性知能の青年であり、幼いころの虐待が原因で不安や恐怖を感じると笑ってしまうという障害を持っている、ということで、ある程度この映画は理解しやすくなると感じる。

長くなったので一旦これで終了としたいと思う。岡田斗司夫氏の動画で感じた疑問点は説明できたし。

しかし、私が語りたいことはもう少し続くので、後日後編を上げたいと思う。

何か、前述したアーサーの状況を鑑みてこの映画を見ると、あるシーンの感じ方が驚くほどに変わってしまい、非常に切なくなったというのがある。しかし一見するだけだとわかりづらいので、私の(そこまで深くないけれども)精神科的な知識・経験を持って解説したいと思うのだ。

この考察を興味深く読んでいただけた方なら、おそらく心に響くと思うので、よければ、後編のほうもお付き合いしていただけると幸いです。頑張って書きます。

 

異常な行為に慣れるということ(リーガルダンジョンネタバレ感想+自分語り)

当記事はゲーム「リーガルダンジョン」のネタバレを含んでおります。未プレイの方はご注意ください。

 

先月紹介記事を書いたリーガルダンジョンが、ついにPS4とXboxでも発売されるようです。おめでとうございます。ぜひプレイ人口がもっと広がって、製作者のSOMIさんにはさらに面白いゲームを開発してほしいです。

 

というわけで、先月は触れられなかったリーガルダンジョンのネタバレ感想を書いていこうと思う。とは言っても、金槌を一人称にした叙述トリックに気付いたときのアハ体験が最高だったとか、暴行事件の犯人を起訴して表彰された実績が「証拠もなく先入観で犯罪者を捕えた」で超ぐさってきたとか、まあその辺は他のブログでもたくさん語られていると思うので割愛する。

私が今回語りたいのは、このゲームの主人公、あるいは同僚たちが、あまりに普通のひとたちであるという話だ。

先月の記事で、私はこのゲームを「ゲス」警察の「クサレ」お仕事ゲームと呼んだ。普通の人はゲスではないし、腐ってもいないというふうに思われる方もいるかもしれない。しかし、私は普通の人だからこそ、ゲスでクサレになってしまうのだと思うし、それを肌で知っている。

 

今回触れるのは、END13の話だ。

介抱ドロ「釣り」の事実と殺人をもみ消そうとした蒼の行為はすべてバレて緊急逮捕となる。「釣り」に使ったホームレスが殺されてしまったことをもみ消すため、架空の殺人事件を仕立て上げ、前科のある男に擦り付けたこと。また、最高点数の連続殺人にするため、その男には妻も殺してもらうよう暗躍したこと。蒼には殺人幇助、死体遺棄、職務放棄などの様々な罪状が下され、拘留される。

エピローグでは、ホームレスが賄賂の一万円で行方不明の孫の捜索ビラを作ろうとしていたことがわかり、それを知った蒼はさめざめと泣くところで終わっている。

END13はエピローグも含めて罪悪感MAXであり、まじで誰一人として幸せにならないのだが、しかし蒼が逮捕されたことで正義が果たされ、少しだけ気が晴れる。何ともいえぬ後味の不思議なエンディングであり、大体の心あるプレイヤーはここで蒼と共に泣き崩れたはずだ。泣かないやつは人の心か読解力がない。

END13は、私が最も好き、というか、こうあるべきと感じたエンディングである。

このエンディングを見てしまうと、END12で出世する蒼の姿は虚構にしか思えなくなってしまう。賢く立ち回り権力を得る冷たい女、それは単なる理想の姿で、普通の人である蒼に待ち受けているのは、本来END13でしかないはずだ。

ゲーム側の誘導に従うと、END12が最初に、END13が最後に見るような設計になっているのも、この考えを裏付けている。初めは心地よい幻想を見せつつも、そこから真実を掘り下げた結果、現実が見えてくるという設計なのではないか。

私は根っからの善人(自画自賛ではなく、どちらかというと自虐)なので、そうあってほしいだけなのかもしれない。冷徹に計画して出世を測る女は格好いいが、1万円のビラで孫を探そうとしたホームレスを想って泣く姿のほうが、私はずっと美しいと思う。

そう、蒼はホームレスを想って泣けたのだ。

おそらくビラの話を聞くまで、蒼はこの老人は人間と思っていなかったに違いない。無下に扱っても許される何か、どうなっても構わない存在として。だからこそ死体を冷蔵庫に保管し、金槌で殴り更に破壊し、その上燃やした。改めて書くとサイコパスともいえるような凶行である。この行為を、蒼は黙々と冷徹にこなしており、イカレ女とすら呼ばれている。

そのイカレ女が急に泣き出すのだから、よほどの価値観の転換があったはずだ。そしてそれは、渡した一万円を酒にも食糧にも使わず、孫のために大切に保管していたという、あまりに普通の人間の行為だった。

蒼はハタと気が付く。気が付いてしまった。この哀れな老人も、自らと同じ人間であるということに。ずっと見えぬようにしてきた罪悪感が、突如目の前に立ち現われ、彼女の偽の冷徹さを木っ端微塵に破壊してしまった。

一度行われた価値観の転換は、蒼の今までの仕事の内容をも変えてしまっただろう。この哀れな老人に始まり、彼女は様々な人間の人生をもてあそんでしまった。自身の点数のため、出世のために。真面目にやってきたお仕事は、ただのゲスでクサレな異常行為に成り下がってしまったのだ。

だからこそ、初めて、彼女はさめざめと泣く。泣くしかなかったのだ。

境界線が消えていく。あちらとこちらの境界線が

END13にたどり着くと、この言葉が語られる。

ここでいうあちらとこちらとは、物語の流れを汲めば、犯罪者と警察の境界についてのことだろうと推測できる。エリート警察官であった蒼が、呆気なく犯罪者に成り下がり、もはや境界がなくなったことを示している。

ただ、私にはこの言葉が、人間と人間でないものとして語られているように思えてならない。

人間でないから、非道な扱いをしても特に気にならなかった存在が、突如として境界線が消失し、同じ人間として浮かびあがってくる。というEND13のエピローグを表現しているような気がするのだ。

 

一人の人間に対し、しかし彼は同じ人間ではないと思い込むことは、日常であふれている。

あなたは、重度の障害で喋ることも動くこともままならない人を人間だと思っているか?精神を病んで妄想や幻覚から犯罪を犯した人を人間だと思っているか?汚れた服で町を徘徊するホームレスを、人間だと思っているか?

当然だと発言することは簡単にできる。

でも。私はそう簡単に言うやつは信じない。

ここからはしゃらくせえ自分語りも含むので、あらかじめ言っておく。でも、ここからが今回の記事で言いたいことなので、できれば引かずに読んでほしい。

私は冒頭で蒼やその同僚は普通の人間だと述べた。それは私もまた、普通の人間であり、殺人に関わってこそいないが、蒼と同じような価値観の転換を感じた経験があるからである。

数年前、私はある精神科病棟で看護師をしていた。急性期病棟だったので、病状が芳しくない方が多かった。殴られたり、蹴られたり、噛み付かれたり、引っ掻かれたり、暴言を吐かれたり、日常茶飯事であった。当然病院なので、それらはすべて症状として扱い、治療をするために身体拘束を行うことになる。

ニュースで見たことがある人も多いかもしれない。まあ、主に批判的な内容としてのニュースがほとんどだろうけれど。

断っておくが身体拘束はただ単に医療者側が殴られないためにあるのではない。患者の身体を保護し、病状からの犯罪など不利益から保護する。そして脳の鎮静を促し、症状の悪化を防ぐためにある。

とは言っても、ほとんどの方は身体拘束に対して、非道だと感じるかと思う。

私も初めはそうだった。人道に反していると思ったし、できる限り速やかに解除すべき行為だと思っていた。

ただ、日常的に暴力を受け、上手く対処しようと努力しつつ、身体拘束を行っているという状況が続くと、不思議なことにそれが当たり前になっていくのだ。

暴力も、身体拘束も、世間にとっては異常事態だということを忘れてしまう。人間というのはほんとうに不思議な生き物だと思う。どんな異常な行為にも、なんとなく慣れていくのだ。

リーガルダンジョンの話に戻るが、彼らが点数稼ぎのために介抱ドロ「釣り」を始めるのはあまりに醜悪な場面だ。けれども、彼らは点数を稼ぐための異常な行為に慣れ切っているだけの、ただ普通の人間なのである。点数を稼がなければ食い扶持が稼げなくなるし、何より釣るのは、何もせずともどこかで犯罪を犯すはずの人々なのである。

何より、犯罪者を捕まえるというのは立派な、褒められるべき行いなのだ。

蒼の行いは、ただ、異常な行為に慣れていった結果なのだ、と思う。

慣れとは恐ろしい。善悪の境界すら麻痺していく。やっていいこと、悪いことの判断がつかなくなっていく。人間を人間と思えなくなる。

私の職場でも、ニュースでよく見るような、必要のない長期の身体拘束が行われていた、こともあった。というのが私の判断だ。身バレ的にも、患者の個人情報保護のためにも、詳細を語ることはできないし、だからどうしたというのをやることはしない。

もちろん私たちは必死で医療を提供していたと信じている。ただ、異常な行為に慣れていた。慣れていて、わからなくなったこと、感じなくなってしまったことは、たぶん、たくさんあった。

私の価値観の転換は、身体拘束の患者をトイレにお連れして、再度拘束を行う際、「ありがとう」と言われたとき、突然起こった。

なんで私はトイレに行きたいと自ら希望し、医療者に感謝の言葉を掛ける人間を、平気な顔して縛りつけているんだ?と思った。

断っておくが、当然当初は病状が悪く、暴言暴力が著しいために身体拘束を行うしかなかったた方である。精神疾患の病状は一時的に改善したり、悪化したりが著しいため、身体拘束解除の評価はとても難しい。適当に拘束し、漫然と続けているわけでは断じてない。医療批判をする意志は一片もない。

私が言いたいのは、患者をトイレにお連れするのは日常であり、それに対して感謝を述べられることも全く珍しくないのに、今まで全くそれを異常だと感じていなかったことに混乱したということである。

私はその時、患者を人間として見ていなかったことに、ハタと気が付いたのだ。

私は看護師としては比較的有能であるつもりだったし、常に患者の権利を守ろうとしていた。

なんというか、いつだって真面目にお仕事をしていたのだ。それだけだった。それだけだったのに、いつの間にか大切な何かを失っていた。異常な行為に慣れてしまったがために。

その後いろいろあって精神科からは離れたのだが、未だにあの時の衝撃は覚えている。

仕事としては離れても、ニュースで取り上げられる精神科医療批判はいつも辛くなりながら見ている。普通の人が慣れの果てに犯罪を起こしてしまった、そんなことが今もあるのかもしれない。

結局どうすればいいかって、自分で傷ついて学んで自覚して、また忘れて思い出してってやるしかねえんだろうなあって思う。それはすごく大変だし、できることならやりたくないよなあ……。

でも、精神科とか警察とか、そういう特殊な環境じゃなくても、たぶん同じことはたくさん起こっていて、そのために被害を受ける人もいれば、無意識に加害者になっている人もいるんだと思うんだよなあ。

リーガルダンジョンのやるせない末路を見るにつけて、自身のお仕事を思い出さざるを得なかったという、これはそんなしゃらくせえ思い出話である。

 

とても長くなったし、正直コレ感想なの?って気もしてきたんだけど、あんまりない経験かもしれないし、せっかくなので置いておく。

重ねて断っておくけれども、精神科医療や身体拘束の批判をするつもりも、必死に努力している医療者を貶すつもりも全くありません。

もし読んでいただいて、似たような経験あるな~とか思っていただけたら嬉しいかもしれない。

あとリーガルダンジョンやってない人はやろうな。ネタバレを見てしまったとしてもまだ面白さの余地は残っているから、できればこれ以上ネタバレ見ずにやろうな。

みんなでやれば怖くない「リーガルダンジョン」(ネタバレなし紹介記事)

まあ、何も言わずにこれを見てくれ。

 


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たびたびツイッターで取り上げていたんだけど、これめっちゃかっこよくない?

同意してくれた方はこんな記事なんか読んでないで、今すぐSteamかSwitchで本ゲームを買ってください。そしてプレイして罪悪感と虚無感に苛まれてくれ。相当尾を引くぞ。

 

というわけで、今日はリーガルダンジョンがめちゃめちゃ面白かった話をしようと思う。ウマ娘で忘れかけていたけども、身近でプレイしたよって声が聞こえないので、みんなプレイしてくれよという思いを込めて書きます。

「リーガルダンジョン」は、Steamにて2019年5月に配信された韓国のインディーズゲーム。好評を博した結果、今年の2月にSwitchでも配信されることとなった。SOMIさんという方が制作しており、「罪悪感三部作」の二部に当たる。それぞれのゲームは独立しているため、どれからやっても楽しめる。私は一部のREPLICAと本作をプレイしており、三部の「THE WAKE」は今後プレイ予定です。

トレーラーを見てもらったらわかると思うけれども、RPG風のシステムこそあるものの、本筋は推理ゲームである。主人公である新米警察官「清崎蒼」の目を通して様々な事件の書類を読み解き、罪状を暴くことで物語が動いていく。

と聞くと、逆転裁判のように真相を暴いて正義を示すようなイメージを持つ方が多いかと思う。しかし、このゲームはそうではない。真相なんてどうでも良いのだ。

このゲームの目的は、様々な事件を紐解き、「点数」を稼ぐにはどうしたら良いかを推理することだ。他者の人生をこねくり回して引っ掻き回し、所属の警察署が評価されるための「点数」に変える。

「善行の美談は0.5点。窃盗は2点。殺人は15点。」

たびたびゲーム中で突きつけられるフレーズだ。プレイすればするほど、この言葉は重く、苦しく、のしかかってくる。

頭の良い方はお気づきかもしれない。正義か悪かというゲームではない。このゲームは、「ゲス」警官の「クサレ」お仕事ゲームなのである。

このゲームでは、フリーペーパーを持ち去ったホームレスの老人を「窃盗」として訴え、2点を稼ぐ。さらに窃盗団のリーダーに仕立て上げれば、5点になる。さて近くに孫がいたようだが、どうしたものか?

点数が稼げなければゲームオーバー、あるいは特殊なバッドエンドへ直行するようになっている。それをハッピーエンドと呼ぶのは自由だが、物語は終わってしまい、先には進めない。

先を見るには、プレイヤー、そして「清崎蒼」は点数を稼ぐ覚悟をしなければならないのだ。

さて、ここまでで、このゲームがどうやって「罪悪感」を感じさせようとするかはわかったと思う。私は、このあたりですでに不愉快になっている方にこそ、本作をやっていただきたい。だって、あなたは世界の汚さをきっと知っているから。

 

ただし、このゲームはめちゃめちゃ難易度が高いのでそこが玉に瑕だ。まあ、ボリューム自体はそれほどないゲームなので、躓いて考えている時間が一番充実していて面白いともいえる。それはプレイヤーの考え方によるだろう。

ちなみに私は割と推理ゲームをやるし、推理小説も読む方だと思うが、夫と一緒に睨めっこして相当イライラしながら(私はこの手のゲームで本気でイライラする人です)、やっとの思いでクリアした。しかし私がゲーム慣れし過ぎていて、難所の一か所を何の情報もなく偶然解いてしまったので、ガチで推理してたらもっとかかったと思う。ただ、あれはちゃんと推理したかったと今でも悔やんでいる。

まあ、詰まったら攻略記事を読めばいいと思うだろう。そうじゃないのだよ。

このゲーム、クリアした後もストーリーを推理しないとわからない仕組みになっている。ただ攻略を当てはめてクリアするだけでは意味がわからないのである。苦労したくない人は、攻略記事を読んで、さらに考察記事を読まなければならない。逆に面倒くさくないか?それ。

なので本作は、ゲーム好きというよりは、推理小説好きで読書慣れしている人向けにできている。ターゲットが狭すぎるようなきらいもあるが、その分、ハマる人にとってはめちゃくちゃに面白い。

私はがっつりハマってしまったし、プレイしてからもう1か月以上経つのに未だにふと思い出しては結構落ち込むし、考え込んでしまう。

断っておくが、理不尽な難易度ではなく、ヒントは明確に作中に書いてあり、順序だてて推理していけば、推理パートもストーリーパートもちゃんと謎が解けるようになっている。ルート分岐も明示されているので、実はかなり親切設計なのである。ムズゲーではあるが、クソゲーではないので、あしからず。

いやーほんとうにストーリーが凝ってて最高なんだよ。ハチャメチャにえぐいけど、ほんとうに面白い。ローカライズも秀逸だし(有名なゲーム「グノーシア」の開発者さんがやってくれました)、人物同士の繋がりや実績のタイトルだったり、細かな部分もこだわっていて、アハ体験と罪悪感が終わらないんだ。

 

広く同意してもらえるとは思わないが、個人的に評価している部分の一つに、主人公が女性ということがある。警察、しかも腐った警察のストーリーで女性を主人公に据えるというのは、ちょっと新しかった。しかもこの主人公、若くして課長を務めるエリートで、部下はヒラのおっさんたちなのである。

ただ、私は最初女性が主人公ということで身構えた部分があった。

近年、全世界的にフェミニズム作品が流行している。韓国も例外ではなく、「82年生まれ、キム・ジヨン」をはじめとしたフェミニズム文学は高い評価を得ている。

でも、ぼく、正直苦手なんですよ、フェミニズム作品。

私はマイノリティでなく、普通に女性をやっているので、当然共感もできるし、痛くて辛くなってしまう部分だってある。フェミニズム作品の台頭に意義だって感じている。

ただ、それがストーリーの肝になってしまうと、私はどうしても面白みを感じるのが難しいんです。メッセージを必要以上に強く受け取ってしまって、そこばっかり記憶に残ってしまう。そしてストーリー上の山場や良いシーンをちゃんと受け止められなくなってしまう。

私は、本作もそんなかんじで、フェミニズム的な要素が用意されているのではないかと思ってしまったのだ。

でもそんなことはなかった。主人公は「化粧でも直してきな」や「いいとこのお嬢ちゃんが」など女性を揶揄される部分はあるが、女性であることを馬鹿にされたり、不当に差別されたりすることはない。先に触れた揶揄する部分も、主人公は女性だぞ、とプレイヤーに示す以外の意図はないように思う。

個人的には、フェミニズムの理想の在り方の一つだよなとも思った。「クサレ」警察ではあれど、女性が男性と同じように扱われ、ミスしたら責められるし、点数を稼げば出世できるのである。

話が逸れたので元に戻そう。

私は単にフェミニズム作品の要素がないから評価をしているわけではない。

ネタバレになるので詳細は伏せるが、ただ、主人公が女性である意味は、クリアするとわかるようになっている。女性でなければ成し得ないストーリー、とまではいかないかもしれないが、少なくとも私はその意味に気が付いてちょっとぞっとした。

女性が有能でかっこいいストーリーはやっぱり好きなんだよな。

女性と男性って身体も違うし、生きてきた文化や考え方はやはり少し違うように思う。この違いを無くしたいと私は思わないし、無くなることが男女平等だとも思わない。この違いに優劣をつけずに尊重することが大切なんじゃなかろうか。

男性と同じことができることがかっこいいんじゃない。女性であることを生かしたかっこよさ、潔さが、グッとくるんですよ。まあ、「クサレ」警官なので純粋なかっこよさじゃないんだけども、それでもやっぱり、うーん、カッコいいんだよ~

ちょっと変な話にはなったけど、単純に主人公が有能でカッコいい女だからそういうの好きな人はぜひやってくれという話です。

 

長くなってしまったが、この記事を読んで少しでも琴線に触れるポイントがあれば、ぜひ、すぐに、今からダウンロードして、プレイしてほしい。そしてこの罪悪感と虚無感を共有してほしい。詰まって投げそうになったら相談してくれればなんとかしてやるから。絶対ネタバレ見るんじゃないぞアハ体験が薄れるから。

私ももう一回記憶を無くしてプレイしたいよ~。まだプレイしていない人が羨ましくてならない。そのアドバンテージを生かしてすぐにダウンロードだ!

基本操作がドロップ&ドラッグなので、SwitchよりPCでプレイした方がやりやすいと思いますので、個人的にはSteam版がお勧めです。でも内容は変わらないから、とりあえず持ってるハードでやろう。さあやろう。今すぐやろう。

 

ここまでネタバレなしで書いてたらストレスが溜まったので、次回はネタバレあり感想も書こうと思う。いつになるかわからないけど、良かったらプレイ後に読んでいただけたら嬉しい。

ウマ娘という神ゲーへのわずかな不安の話

3月はウマ娘と夜勤で溶けていった。いくらなんでも夜勤が多すぎやしないか?月の半分近く夜勤しているんだが。

ほんとうはリーガルダンジョンというクソ面白かったインディーゲーの紹介をしようと思っていたんだけど、ウマ娘から戻ってこられないので、来月にしようと思う。一応一月一記事はノルマにしていきたいので。

 

さて、ウマ娘である。

なんでこんなにハマってしまったのだろう。辞めたいのに辞められない。もともと1期は大好きなアニメで楽しく見ていたが、2年も経ってからまたハマるとは思っていなかった。

単純に育成が面白い。ナイスネイチャがとてもかわいい。基本男女決められるゲームは女性でやることにしているんだけど、ナイスネイチャの育成だけは男性トレーナーでやりたい。そして結婚する。

でも、こんなにハマり込んでいるのに、何故か課金戦車になる気が起きない(微課金はした)FGOは半ば惰性でやっているけど、やっぱり福袋の時と推しが来たら金を突っ込むというのに。

その理由は、もうナイスネイチャのストーリーは終わってしまったからである。3冠も取って固有レースイベントも見たし、有馬記念もURAも勝ったし、温泉旅行にも行った。勝負服も得てイベント全部見たし、Aランクも取った。

なんか、あたし、ウマ娘は先細りになるんじゃないの?と心配である。

今やらなかったらもうやらなくなってしまう、ゲームそのものの面白みが失われてしまうという恐怖感が常にある。今ウケてる内に強い推しのスクショをとらなければ、見向きもされなくなるのでは?と

いやはやこんなに金儲けまくっているゲームなのに??とゲームを知らない方は思うと思うんだが、ゲームやってるひとたちはなんとなく感じているんじゃないかと思う。

新規ウマ娘はなんぼでも出せる。活躍した馬はいくらでもいるし、ここまで影響力があるのならと許可を出す馬主の方もたくさんいるだろう。

ソシャゲは基本新規キャラクターを出せば売れるゲームである。そうなると、ストックが多いこのウマ娘は、いやあこれは安泰だとなる。

ほんとうにそうだろうか?

新規キャラクターを出しても、育成ゲームの基礎は変わりようがない。強いサポート、強い因子で強いキャラクターを作ってストーリーをクリアすると終わってしまう。あとはより強くしていくだけの作業ゲーとなる。今なってる。私なってるよ。

強いキャラクターは対人レースで使うが、自分で操作しないでレースを見ているだけなので、割と飽きる。運でお祈り要素が若干あるし、勝てない試合は勝てないし、買ってもご褒美が渋い。いくらレース画面が美しく躍動的でも、ずっと見ているのはちょっと…と思ってしまう。

RPGでないので、ゲームの環境を塗り替えるようなぶっ壊れキャラクターを出すわけにもいかない。このキャラクターを育てたら、あるいは因子を使ったら勝てますよとなったら、それこそこのゲームはクソゲー化する。推しの育成を頑張って勝たせるのがこのゲームの妙だ。

では育成難易度を上げるのか?という話になる。でもソシャゲで、そんなに難しい育成みんなやりたい?私はやりたくない…。

育成外の高難易度レースを多々盛り込んでいくという手もある。最近行われたレジェンドレースがこれだ。しかしこれも自分で操作するわけではないので、すぐに飽きが来る。

ソシャゲでありがちな季節イベントも、このゲームでは実装できない。なぜなら育成で全部やられているからである。水着の推しを引くために金を入れるという行為が成立しないのだ。

育成で新たなストーリーやイベントを追加する、これも難しくなってくる。何しろ史実があり、史実以上のことがしにくいように作ってある。ナイスネイチャでトリプルティアラを獲得するストーリーは「ない」のだ。史実馬のリスペクトも必要だしね。

こう、なんとなく色々考えていくと、現時点で魅力的なキャラクターはとにかく多いのに、すべて更新されようがない、使い捨てだということがわかってくる。各キャラクターのストーリーモードだけは異様に歩みが遅いので、推しを勝たせた後は作業ゲーをやりながらそこの更新を楽しみにするしかない。

そうなると、このゲームに課金させ続けようと思ったら、魅力的な新規キャラクターをバンバン出して、そのキャラクターごとの史実を元にした面白いストーリーを作り続けるしかないのだ。

でもそこにナイスネイチャはいないんだよな。

私はやっぱり、ストーリーが好きな人間なので、推しが語られるシーンが見たいんだよなあ。でもナイスネイチャに「その後」は「ない」し、他に活躍するレースも「ない」。新しいエンディングも「ない」。後はオリジナルレースで勝つか、トレーナーとの恋愛ADVにするしかない。めっちゃ見たいけど、でもちょっと違う気がしてしまう。

案外いけるのかもしれない。それこそ最初に述べたようにストックがたっぷりとあるのだから。レースをアップデートして、操作性を加えられる余地はあるし、対人レースでてっぺん取りたいという欲望から重課金戦車が続々と生まれる可能性もある。高難易度育成やレースに燃え上がって金を飛ばす人々も多数出るかもしれない。

でも、私の中でナイスネイチャはもうてっぺんに立ってしまっていて、ストーリーは終わってしまった。対人で勝つために金をかけてまでやる?と聞かれて、答えに窮してしまう。もういいかなーというのが、本音だったりする。

私は惰性で、いつまで、ウマ娘をやり続けるだろう。この果てしない作業ゲーを。最初はわくわくし通しだったレースも、正直飽きつつある。課金しないので育成で得られる成果もそろそろ頭打ちになりつつある。

ナイスネイチャと同じくらい魅力的なウマ娘が実装されたら(個人的にはゼンノロブロイが見たい)金を入れるかもしれない。サポートカードでSSRナイスネイチャが出て、魅力的なイベントが追加されるなら、うーん、金を入れるかもしれない。

金を入れるかどうのという話しかしてなくてうざいと思うんだけど、ソシャゲーはどれだけ無料で楽しく遊べるかが勝負のゲームじゃないんだよ。どれだけ財布の紐を緩ませ、毎月安定した稼ぎを得て、それを糧にさらに課金欲を沸かせるコンテンツを作るかが勝負のゲームなんだよ。

運営が金を得てサービスが続けられなければ、そこで終わってしまうものなんだ。

正直、なんで買い切りのゲームにしなかったんだという気持ちがすごく強い。買い切りだったら、ナイスネイチャが勝ったヤッター、推し、永遠なれ!で、ただただハッピーだったのに。

ツイッターを開くと、強いナイスネイチャがいっぱいいる。私もそこに並びたいという欲がある。でも並んだからなんだ?という自問もある。ナイスネイチャで〇〇レースに勝ちました!というのもやりたくはある。でも、育成のストーリーは終わったしもういいや、というのもある。

滅茶苦茶面白かったゲームなだけに、なんかこう、明るく楽しい未来はないもんかと思う。でも今後今より面白くなって、推しが輝く展開が見えない。

でも、こんなクソ独白をぶち殺すような楽しいイベントや新しい要素を次々盛り込んでくれることを期待している。ほんとうに期待しているんだ、サイゲームズ!

そんなわけで、しばらくしてめっちゃ課金してたら笑ってくれ。