かみむらさんの独り言

面白いことを探して生きる三十路越え不良看護師。主に読書感想や批評を書いています。たまに映画やゲームも扱っています。SFが好き。

ばけものになれないわたしたち(あるいは映画「来る」における人間とばけものについて)

この記事では映画「来る」および原作「ぼぎわんが、来る」のネタバレが多数含まれております。未読・未視聴の方はご注意ください。

 

三十路を過ぎてもおばけが怖い。

と思っていたけれど、よく考えたら怖いのは理不尽だったり、不可解な死の方かもしれない。

そうなると、ばけものも幽霊も、サイコパス殺人鬼も、自分の子供を虐待の末に殺してしまう親も、あまり変わりがないかもしれない。

世の中怖いことばかりである。

というわけで年末に「来る」を見まして、原作「ぼぎわんが、来る」の方も読了しました。

どちらもめちゃめちゃ面白かったし怖かったのだけれども、映画化するにあたって、ほぼ別ものに変わっているというのがまた面白かった。賛否両論あるみたいだけども、私は圧倒的に賛の立場かな。

個人的には人物造詣と展開・演出で魅せる映画と、怪異とストーリーで魅せる小説というような感じ。

 

ぼぎわんが来るか来ないかとか、怪異の説明があるかないかとか、香奈の描写と生死が違うとか、映画だけラスト付近急に少年漫画になるとか、違いはいろんな感想ブログでも言われているのであえて書くことはしない。

今回私が書きたいのは、人物造詣の差とその意味するところについてだ。

原作「ぼぎわんが、来る」の人物造詣は、大変シンプルでわかりやすいものになっている。それはひとえにストーリーのテンポを保つためであり、明らかに人間よりも怪異の恐怖とその真実部分に焦点が当てられている。

乱暴な言い方をすると、ストーリーが大変面白いので、人間たちはある程度テンプレ的な行動を取っていた方が作者にとっても読者にとっても都合が良いのだ。

たとえば、第一の主人公田原秀樹は、第一部のうちは良い夫、父親のように振る舞っているが、第二部で鈍感でモラハラを繰り返すクズだったとわかる。家族を守ろうとした思いは本物にせよ、自身のモラハラを省みることは無い。

その妻香奈は、第二部の主人公を務めるが、終始引っ込み思案で弱気な性格のまま、人を憎むことを知らない。モラハラに耐えられずお守りを切り裂く瞬間こそあれ、それもすぐに後悔している。最後には夫は家族を守ろうとしていたんだ!私も頑張らなきゃと奮闘する姿さえある。

第三の主人公野崎も、離婚歴のあるオカルトライターというだけで、ほかに大きな闇はない。無精子症で、それを自身の欠落のように感じて辛がっているが、真琴と知紗に関わる理由付けにはなっても、その内面の成長が語られるわけではない。真琴を心から愛する普通の良い男である。

対して映画「来る」はどうだろうか。

田原秀樹は最初から他者の気持ちに鈍感で見栄っ張りな男として描かれている。家庭崩壊していく様に気付きつつも、どうしていいかわからず、ブログに逃げ込む様が嫌というほど描写される。たびたび友人が多いことを見せ付けるが、真に頼れる友人はおらず、友人からもしらけた目で見られることが多い。原作から大きな乖離はないものの、より現実にいそうな人間になっている。何より怪異より日常描写が長いし痛い。

香奈は気も心も弱い女性かと思いきや、明らかに精神的な障害を持ってそうな母親に育てられたことや、借金のことが語られ、ん?と思っていると「私は秀樹が死んで嬉しかった」と語り戦慄させられる。子供を真琴に預けて不倫三昧である。エピソードだけ取ると、原作から一番変わったキャラクターと言える。

野崎は無精子症ではなく、パートナーに中絶させた過去に変わっている。それ以外はあまり変化ないが、とにかくその過去がトラウマ化しており、たびたび苦しむ様子は、もう許してやれよという気持ちになる。

三人に付け加え、知紗の話もしておきたい。原作では怪異に目をつけられた子どもというだけだった知紗だが、精神的虐待やネグレクトにより、自罰行為を行っている。ラスト付近で琴子が怪異を手なづけていた、とも話しており、意識的か無意識的か、父母や世間への恨みを利用されて今回の事態に至ったとも読み取れる。

たった三人+αだけのキャラクターを見るだけで、原作→映画で人間味を増し、現実にいそうな人物造詣に変わっているのがわかる。怪異に関係ない演出、エピソードは原作の倍以上だろう。

怪異よりも人間ドラマのほうが怖いという感想は珍しくない。モラハラ夫やそれに耐えられない妻のあり様にダメージを受けた人も多いに違いない。私も中盤くらいまではこれ何の映画だっけ?と思っていた。

明らかにホラーを犠牲にしている。何故こんなことをしたのか?

監督はホラーが作りたかったわけではないかもと述べていた。それでは何がしたかったのか?原作をほっちゃ投げて人間ドラマが作りたかったのか?

私はそれは違うと思う。

映画「来る」がやりたかったのは、理不尽で強大な怪異に対して、普通の人間が人間としていかに抗うかだったのではないか。

えっこの映画って霊能者とばけものの少年ジャンプ的決戦がやりたかったんじゃないの?と思われた方もいると思う。うん、それはそれで間違いなく正解だろう。あれほど大規模な祓いの儀式、見る方が楽しいのはもちろん、作る方も絶対に楽しかったはずだ。

ただ、この映画はかっこいい奴らが怖いばけものを異界へシュゥーッ!超エキサイティン!というだけの映画ではない。それならば原作からこれほどキャラクターと展開を変える意味はない。

前半の痛々しい人間ドラマがあるからこそのカタルシスという見方もできるし、それはそうかもしれないが、

むしろ、かっこいい奴らがばけものを祓っていないからこそ面白い映画なのである。面白いかは人によるかもしれないけど。

 

ここで、逢坂セツ子について話をしたい。柴田理恵演ずる、むちゃむちゃカッコ良いキャラクターだ。映画「来る」の感想では必ずといって良いほど語られる。語らない奴はエアプである。

このキャラクターは、原作では腕をもがれてさっさと死んでしまう。そして、ばけもののことなど一切わからない家族が戸惑い嘆き悲しむシーンが語られて終わりだ。

しかし映画での彼女は隻腕となったものの復活を遂げ、ばけもの祓いの儀式に加わるとともに、霊となって彷徨う(ここに関しては諸説あるみたいだけども、私は地縛霊推し)秀樹を成仏させる役割すら担っている。

ほんとうにかっこいい。まさにヒーロー。

しかし彼女は人間か。

ここで私が言う人間とは、秀樹や、香奈のような、前半戦で語られる、心身共に弱く、ばけものに翻弄され、死んでしまった人々である。

明らかに彼らと同じようには逢坂セツ子は描かれていない。弱さを見せず、ばけものを恐れず、死も恐れない。

秀樹を成仏させるシーンは、田原モラハラ秀樹が知紗を愛していたことが伝わる良いシーンだが、彼女がやっているのは、突然ナイフを秀樹の手に突き刺し、彼が既に死んでいることに気付かせるだけだ。

秀樹の無念を汲むこともなく、秀樹の愛に感じ入ることもない。当然モラハラを責めることもない。

あるべきものをあるべき場所に返しただけであり、秀樹は悲鳴を上げながら消えていく。ほとんど、殺したといってもいいだろう。

ばけものは秀樹を理不尽な力で殺害し、逢坂セツ子もまた、理不尽な能力によって殺害する。

こう書いてしまうと、ばけものもセツ子もあまり変わらないともいえる。

セツ子以外の霊能者にも目を向けよう。彼らはやはり化け物や死を恐れない。仲間の死も悼まない。誰か一人くらい辿り着けると述べ、死にかねない儀式を前にして楽しそうにはしゃぐ。

彼らは皆、それぞれ理屈では語れない強力な力を備えている。

そして琴子がやろうとしている儀式は、知紗を犠牲にしてばけものを祓うことだ。

つまり、知紗を殺すことだ。知紗を殺すことを、霊能者たちは躊躇わない。たとえ死んでも悼まない。

彼らは確かにかっこいい。ヒーローだ。故に人間というよりも、どちらかというとばけものに近いものだという気がする。

儀式が成功すれば、怪異は去り、平和は訪れる。でも、秀樹が、香奈が守ろうとした知紗は死んでしまうのだ。それは、怪異によって知紗が連れ去られるのとどう違うというのか。

秀樹はモラハラクソ男だったかもしれない、香奈は不倫クズ女だったかもしれない。でも、二人とも最後は知紗を守ろうと奮闘した。ばけものになれない人間は、人間としてずっと戦ってきたのだ。

先に触れた除霊の場面で、セツ子は痛みを信じろと語る。痛みとはまさに人間性ではないか。これこそは、ばけものにもヒーローにもない、人間にしかないものだ。

秀樹はモラハラとブログで、香奈は不倫で、痛みから目を背けようとしたが、そんなことでは人間はばけものになれない。彼らはずっと人間だった。

人間として大切な人を失う痛みに耐えきれず、守ろうと奮起した。それが実際には何の意味を持たないとしても、結果的に誰かを傷つけていようとも、その事実は変わらない。

前半の痛々しいほどしつこい人間描写は、彼らがばけものでなく、人間として生きていることの確かな証明であり、また、人間を超越した霊能者たちと比較するためである。

野崎もまた人間だった。だから人間としてばけものに立ち向かわなければならない。ばけものは怪異だけではない。霊能者たちにも立ち向かわなければならない。

それがあのラストなのである。彼は人間たちから受け継がれてきた、知紗を死なせたくないという思いあるいは我儘で儀式を阻害する。ばけものたちに反旗を翻すのだ。

それを甘んじて受け入れた琴子は、きっと完全なるばけもののではなかったのだろう。真琴への思いが、彼女に人間性を留まらせたのかもしれない。

そしてばけものたちは皆死に、人間たちは皆生き残る。琴子が生死不明なのは、ばけものでも人間でもあったからだろう。

ここのあたり、どうなったかという詳細な説明はない。琴子が倒したようにも見えるし、相打ちで終わったようにも見える。怪異が完全に去ったかどうかも定かではない。

個人的にはオムライスの夢を見て眠る知紗を見る限りでは、怪異はもういないのではないかという感じもする。原作ではラストでもまだ不穏な呪文を唱えていたので。

ただ、色々な解釈があるにせよ、これだけは定かなのではないか。人間はばけものに勝ったのだ。格好悪くゴネて、痛みにのたうち回って、それでも勝ったのである。

 

ここまで読んでいただいた方で、漫画ヘルシングの、ばけものを倒すのは人間でなくてはならないという言葉を思い出した人がいると嬉しいな。あれめちゃめちゃ好きなんです。

人間はどう考えても敵わない相手に立ち向かっていく時が一番カッコ良いと思う。

映画「来る」はついつい比嘉琴子や逢坂セツ子の霊能者たちをメインに語りがちだけど、基本は王道の人間がばけものに立ち向かう構造だったんだと思い、考察してみた。

実は、本記事を書くにあたってもう一回映画「来る」を見返そうと思ったんだけど、怖くて見られなかった。なので、リピーターの方々が見れば粗ばっかりの考察かもしれないと慄いている。

でもこう考えて面白かったなあというのを書くのは悪いことではないと思ったので、せっかくだからブログにしてみた。

こういう見方もあるのかと思っていただけたら幸いです。勇気と根性を貯蔵してそのうちもう一回見ようと思います

人生に疲れた看護師が東方Projectで救われた話

始めに言っておくけど、別に某疫病で疲れてるわけではない。どちらかというと介護福祉畑で仕事をしているので、まあクラスター化するとニュースになって地獄を見る可能性はあるけど、幸いにも今のところはみんな無事です。

疲れたというのは、自分の人生があまりに無価値な感じがするという、多分割とメジャーなやつである。最近30も過ぎたのに、未だになんか大学生にもなりきれないような感じでウダウダしている。

何年か前は物書きになろうとしていて、でも多分才能はなかった。それは文章を書く能力とかだけじゃなくて、人格も向いてなかった。

でも全然諦められてなくて、多分残りの人生は、この才能のなさを諦めるために使う人生なんだろうと思ってる。うわー無意味では…。

まあ全然人生は詰んでなくて、むしろ私は看護師としてはそこそこ優秀な方である。仕事自体もさほど嫌いでは無い。前職は臨床心理士にいじめられて辞めたので、暇で人間関係が重要な職場には向いていないけど、やることが多くて忙しい職場ではそれなりに上手くやれると思う。つまりはブラック企業で、つまりは病院や介護施設ですね。

自分で言うのもなんだが、昔から割と要領がいい。学生の頃、実習真っ最中に戦国ランスにハマって、無事合格した上にちゃんと全ルートもクリアした。と言えば有識者の方には伝わるだろうか。

でもそれがある意味では私の虚しさの理由でもある。

破滅的に何かにハマることなく生きてきた。前述した戦国ランス、あるいはランスシリーズも生きる希望にしてきたほど大好きな作品だけど、結局は浅瀬でチャプチャプ楽しんで終わってしまった。

多分これは私の人格的なもので、もう変わらないんだと思う。

それは悪いことじゃ無いことくらいわかっているし、大半の人間がそうだということもわかっている。シヴィライゼーションをやり過ぎて留年する人間は、はっきり言ってだめである。

でも身持ちを崩すほど何かにハマっているひとを見ると、無性に羨ましくなってしまう。

その人はその人で大変なんだろうけどね。

まとめると、夢を諦められず、人生を賭けるほどハマれるものも見つからない、ただ仕事だけは上手くやれているので、他に新しい挑戦もできなくなっちゃったんだよね。

たぶんよくある人生です。

 

これ以上人生を拗らせている話をしてもつまらないので、そろそろ東方の話をしようと思う。

私が東方Projectを知ったのは、10年以上前のころだ。面白いゲームあるよと友人に言われ、東方永夜抄を借りてプレイした。

面白かったけど、当時の私は結局ノーマルクリアすら出来なかった。もともとシューティングはほとんどプレイしていなかったし、苦手意識もあった。ついでに集中力もなく、情緒不安定で苛々しがちで、上手くいくわけがなかった。

上手いプレイヤーが近くにいたのもあり、こんなふうに出来ないならやらなくていいやと言う気持ちにもなった。

なので、当時よくいた人々のように、ぬるく東方アレンジを聴き、カラオケで歌って、にとりにちょっと萌えただけだった。

最近。某疫病であまり外に出ることがなくなった。やりたいこともハマれるものもなく、仕事は大変だがなんとなくこなせていて、友だちも大していない。

夫とのドライブ中に、東方風神録のBGMを流していて、ふとやりたくなった。奇しくもSteamで配信された直後であり、とりあえず買った。ついでに東方星蓮船も買った。

当然、全然クリアできねえ。神奈子様強え。星蓮船に至っては5面すらクリアできねえ。

でもなんとなくコツコツプレイしていた。

ハマったという感じもなく、毎日ちょっとずつ触れば上手くなるかな?と思った。のんびりやれればよくて、上手くなりたいとも思わなかった。

なんか、それは、祈りのようなものだったかもしれない。

なんとなく、いつのまにか、風神録がクリアできるようになった。

星蓮船の5面も無事脱し、フライングファンタスティカ(ラスト)まで行けるようになった。

YouTubeで攻略動画を見て研究するようになった。

他の作品も購入し、Steamが東方作品でいっぱいになった。

今では風神録星蓮船はノーマル全機体クリアしたし、紺珠伝以外は初心者向け機体でノーマルクリアにこぎつけたし、風神録はExステージもクリアした。

うれしい。新しく何かできるようになるとか、上手くやれるようになるとか、そんなことはもう無いと思っていた。

だってみんな10代20代のほうが優れてるっていうじゃん。

でも東方に関しては、私は今の方が優れているんだよね。それは多分若さ特有のエネルギー暴走みたいなのが無くなって集中力がついたのが一つ。昔はバーって弾が来るとパニックで自分から当たりに行っていたんだけど、流石に色々経験していて、パニックの中でもできることを模索できるようになったし、傾向と対策を冷静に考えられるようになった。

あとは、昔は気合で全部避けようとしてたけど、今はちゃんとパターンを組めるようになったかな。自分の避け力を把握して、無理を感じたらボムを撃つ判断力がついた。

いやこの二つは仕事で得た力だよなあという。なんとなく要領良くやってただけの仕事でも得たものが案外あったわけです。

別に東方ができるようになったからといって人生は薔薇色にはならないけど、力を入れずに楽しみ続けているとそこそこ上手くいって満足感があるっていうのと、無駄なように思えたこともそんなに無駄じゃないんだなあというのがわかったのは、自分にとっては結構救いだった。

たぶんそのうち飽きると思うけど、今はまだ祈りのように楽しんでます。星蓮船のExはまだクリアできないけど、最近鵺ちゃんには会えるようになりました。

三体、あるいは葉文潔の人生について②

当記事は三体及び三体2のネタバレを含んでいます。未読の方はご注意ください。

 

葉文潔が好きだ(2回目)

前回の記事では葉文潔の謎ポイントを解説してみた。みんな、葉文潔がただの地球滅ぼしたいウーマンではないことに気付いてくれたと信じている。

できれば三体を読み返して、私と一緒に葉文潔辛い…好き…になろう。

 

さて、前回、葉文潔はなぜ、「人生のほとんどを、これについて考えてきた」のかということを謎ポイント①に挙げた。「これ」とは宇宙社会学のことだ。

前回の記事を読んでいない人は、なんのことだかわからないと思うので、読んでから戻ってきていただきたい。

前回、この謎①への解答として、彼女は理想から外れた三体文明に立ち向かおうとしていたと挙げた。つまり宇宙社会学=三体文明に脅威を与える鍵ということだ。

しかし、実は、この解答には一つ突っ込みどころがある。それは、人生のほとんどというには短いんじゃないか?ということだ。

葉文潔が三体文明に立ち向かわなければならなかったのは、少なくとも三体協会の総帥になってしばらく後でなくてはならない。年月を追っていくと、三体協会が設立されたのは1986、7年くらいで、文潔は1943年生まれなので、43、4歳くらいである。

現在の文潔の年齢は不明であるが、1969年から40数年後ということで、大体70歳前後くらいかと推測される。ちなみに汪淼の見立てでは60代くらいだ。

私のようなアラサーが25,6年を人生のほとんどと言えば、まあそりゃそうだろうなという気がするが、60~70代のおばあさまが人生のほとんどというには、ちょっと無理があるのではないか?

この疑問に対して、宇宙社会学は地球外生命体探査に関わったころから考えていて、それがたまたま三体文明への脅威になる理論だったと解答を与えることは容易い。実際のところそうなのかもしれない。けれども、私には違う解答がある。

妄想乙と言われる隙が若干ある気がするけど、解決できるはずだ。

 

地球生命は、宇宙にあまたある偶然の中のひとつだと思った。宇宙は空っぽの大宮殿で、人類はその宮殿の中に、たった一匹だけいる小さな蟻。こういう考えは、わたしの後半生に、相矛盾する精神状態をもたらした。生命にははかりしれない価値があり、すべてが泰山のように重い存在だと思うこともあれば、人間なんかとるにたりないもので、そもそも価値のあるものなんかこの世に存在しないと思うこともあった。ともかく、わたしの人生は、この奇妙な感覚とともに、一日また一日と過ぎて行って、知らぬ間に年をとっていた……

葉文潔が汪淼に対し、自身の人生について語る場面だ。だが、彼女はここで嘘を吐いている。宇宙には人類の他に生命体がいることを彼女は既に知っているはずだし、おそらく宇宙社会学理論も築き上げているはずだ。

しかし、この言葉たち全てが嘘なのだろうか?

彼女の生命の価値に関わる発言は、もう一つある。

葉文潔 冷静でした。なんの感情も交えずに行動しました。わたしはついに、自分を捧げることのできる目標を見出したのです。自分であれ他人であれ、そのためにどんな代償を払うことになってもかまいませんでした。この目標のために、全人類が前代未聞の大きな代償を支払うことになるのもわかっていました。この一件は、そのごく小さなはじまりでしかなかったのです。

これは、文潔が雷志成と楊衛寧を殺した時、どんな感じがしたか聞かれた時の調書だ。目標と理想に燃えていた彼女の片鱗が垣間見える。しかし、彼女はこの感覚をずっと持っていられたのだろうか?三体文明が理想の文明でないと知るまで、彼女は殺人を後悔することがなかっただろうか?

仮に三体文明がまさに理想の文明だったなら、彼女は全く悩まず、殺人をものともせず突き進んでいけたのだろうか?

私はこの疑問に力強く、否!と答えたい。葉文潔は苦しみながら、傷つきながら生きた、優しいひとだった。理想に燃えつつも、決して盲目になることはなかった。だからこそ三体、そして三体Ⅱの物語は成立しえたのだ。

 文潔は仕事に没頭することで心を麻痺させ、過去を忘れようとつとめ、ある程度までそれに成功した。ある種の奇妙な自己防衛本能が働いて、過去を回想すること、かつて自分がおこなった異星文明との通信について考えることにストップがかかったのだった。

 紅岸基地を辞した文潔は、自身の行いは夢だったのではないかという思いを募らせる。そして、忘れようとつとめるのだ。これは、一片たりとも後悔のない人間の行動とはとても思えない。後悔しているからこそ、彼女は夢と思いたい、忘れたいと思ったのだ。

先に引用したような強固な信念を得てなお、彼女には後悔があった。

その後、再び理想に燃え、疑念を振り払う彼女の姿が描かれる。しかし、一度でも抱いた疑念を全く振り払うことは困難だったに違いない。実際、彼女は盲目的に三体文明を慕うことなく、三体文明に反旗を翻している。

ラストシーンでも、彼女はレーダー峰で自身の殺人現場に立ち、自身を暖かく迎えてくれた斉家屯をじっと見つめる。

文潔の心臓が苦しくなり、いまにも切れそうな琴の弦のように鳴り始めた。目の前に黒い霧がかかったような気がした。文潔は生命の最後のエネルギーをふりしぼってなんとか耐えた。すべてが永久に暗闇へ入ってしまう前に、もう一度、紅岸基地の日の入りを見たいと思った。

三体だけを読むと、このシーンは三体文明の真実を知って、自身の行いを後悔するシーンに読めるだろう。しかし、三体Ⅱを読破し、葉文潔の行動を理解した我々にとって、このシーンの意味は変わってくる。三体協会を崩壊させ、三体文明に脅威を与えた彼女は、立派に自身の責任を果たした彼女は、それでもなお、深い後悔に沈んでいる。

最初で引用した「相矛盾する精神状態」を語る部分。それは、嘘ではなく、真実だったのだと思う。彼女は、理想に燃え、人類を矯正したいという願いと、己の行動により犠牲にした、あるいは今後犠牲になる人々に対する悔恨の間で、苦しみ続ける人生を送っていたのだ。きっとそれは、三体文明が理想の文明だったとしても、同じことだったのだと私は信じている。

 

苦しみ傷ついた葉文潔はどうしたか。

たいていの人なら、こういう心の傷は、たぶん時間が癒してくれたかもしれない。文革のあいだに文潔のような目に遭った人間はおおぜいいたし、その多くと比べたら、文潔はまだしも幸運な方だった。しかし、文潔は、科学者としての習い性から、忘れることを拒絶し、自分を傷つけた狂気と憎しみを、理性の目をもって眺めようとした。 

考えたはずだ。文革の苦しみを考えた時のように、己の殺人について、理性的に考えようとしたはずだ。学問を考えるように……。

ところで、諸君は三体を読破したとき、葉文潔がなぜ雷志成を殺したか疑問に思わなかっただろうか?

私はわからなかった。三体Ⅱ読む前から文潔推しだったけど、急に文潔の世界から締め出された気がしたな。だって、殺す意味あんまりなかったようにしか思えなかったんだよね。

文潔はすでにメッセージに返信をし、人類への裏切りは果たしていた。雷の本心は異星文明の発見の第一人者になることと彼女は語っていたけれども、果たしてそれは殺人に繋がるのか?文潔は異星文明を地球に招いて人類を矯正したかったのであり、発見者になりたかったわけではないはずだ。

腹が立ったから殺した、憎かったから殺したというのも、文潔の人格からは考えにくい。案外こっちが真実なのかもしれないけど、個人的には除外したい。この論考終わっちゃうし。

そして、何より、彼女は雷の本心の推測や自身の理想は語っているが、肝心の殺した動機については語っていないのだ。えって思った人は読み直してくれ。書いてないから。

そもそも、雷と楊を殺した場面だけ、なぜ文潔の一人称で語られるのか?彼女が過去を語るとき、このシーン以外すべて三人称で語られていたのに。

しかし、この疑問を持って三体Ⅱを読み、黒暗森林理論の、猜疑連鎖の説明を羅輯から受けた時、霧が晴れたような感じがした。

葉文潔の殺人の動機は、これなんじゃないか。黒暗森林理論はあくまで宇宙の真理なので、簡単に地球上の出来事に結び付けることはできないが、葉文潔の置かれた環境は、この暗い宇宙に似ている状況にあったのではないかと思った。

羅は、くりかえし、人間同士はコミュニケーションが可能であり、猜疑連鎖が起こることはないと語っている。しかし、文潔は雷とコミュニケーションできただろうか?彼女は文革で完膚なきまでに痛めつけられ、人類に絶望している。夫である楊衛寧に対しても完全に心を開くことができず、ましてや雷は政治委員だ。この状況でコミュニケーションが取れると思う方がどうかしている。

そして彼女は、やっと生きたいと思ったのだ。生きるべき希望を見出したのだ。

雷はもしかしたら、言葉通り、ほんとうに文潔を助けてあげたいと思ったかもしれない。文潔を利用して自身の地位を高めようとしたのかもしれない。しかし、コミュニケーションできない彼女はそれを確かめる術を持たない。しかも、うかうかしていたら異星文明とコンタクトする術を奪われてしまいかねない。

彼女が確実に生き残り目標を達成するためには、雷を殺すしかなかったのだ。それは、彼女の意志というより、宇宙の原理に近い何かがあったのだという気がする。

ここでやっと本題に戻ってくる。彼女は自身の殺人について考え抜いたはずだ。そこから、猜疑連鎖という言葉が生まれた。そしてこの猜疑連鎖は、人間同士であるにもかかわらず全くコミュニケーションが成り立たなかった文革にも通ずるものがあった。

かくして彼女は、自身の殺人について、そして文革での悲惨な状況についても一つの解答を得、フェルミパラドックスの解答でもあることに気が付いたのだろう。

三体文明の真実を知るまで、三体文明が危機に瀕していたことを知らなかったと思うので、三体文明がなぜ全くコミュニケーションをしないままに侵略してきたのかという解答にもなったのかもしれない。

そして、三体文明に対抗する唯一の手段であることにも気が付いたのだろう。

自身の殺人の動機を語る際、明言を避けたのは、宇宙社会学を誰彼構わずに告げることができなかったからだと思う。羅にしか告げなかった、そして詳細な説明を避けたのは、それが対抗手段だと気づいていないふりをしなければならなかったからだ。

ここまで考えると、葉文潔こそが、真の面壁者だったのかもしれないと思えてくる。

さて、結論をまとめる。葉文潔は文革、そして自身の殺人について、人生のほとんどを使って考えてきた。その結果もたらされたのが、宇宙社会学だ。長くなったが、これで今回の疑問は解決となる。

 

ここまで読んでいただいた方、ほんとうにありがとうございます。

前回に引き続き何回も言うけど、この記事を読んで少しでも葉文潔を好きになってもらえたら嬉しい。また、当記事の考察について、反論や新解釈があればたくさん聞かせて欲しい。今回は前回と違って、少し私の妄想が入っている気もするが、これが今の私の精一杯だ。

今回の記事を書くにあたって葉文潔が出ている箇所をくまなくチェックしたつもりなのだけれども、抜け漏れがあったら教えて欲しい。もっと考えるから。むしろもっと考えたいのでみんなも一緒に考えて欲しい。自分でもこれ違うじゃんと思ったらまた新たな記事を上げようと思う。

 

余談だけども、三体のラストで、三体文明が危機に瀕して地球を求めていることを知った葉文潔が、宇宙社会学について疑問を感じて色々考えているからこそ喋らなくなってしまったのなら、なんかとても切ないな…と思いました。

何はともあれラストシーンは映像的で、うつくしくてとても好きです。

西の地平線の向こうでは、雲海の中へゆっくりと沈む夕日が、まるで溶けていくように見えた。雲とひとつになった太陽の光が、空の大きな一画を壮大な血の赤で染める。

「これが、人類の落日――」

三体、あるいは葉文潔の人生について

当記事は三体および三体2のネタバレを含んでいます。未読の方はご注意ください。

 

葉文潔が好きだ。ちなみにイェウェンジェという語感が大変気に入っているので、できればこっちの読み方をしてほしい。

三体、三体Ⅱ読み終えてからというもの、葉文潔の人生ってなんだったんだろうということをずっと考えている。

彼女の内面は読みにくく、多分に解釈の余地があるので、これはめっちゃ考察されているだろうと思ってネットの感想を漁ったが、ほとんどない。三体Ⅱが発売されて半年が過ぎたが、未だに葉文潔のことを詳細に語るひとはいない。

これは私の検索が悪いかもしれないんで、いたらまじで教えて欲しい。私一人で妄想しているのは正直つらい。

しょうがないので自分で書こうと思ってブログを作りました。まあ、これを機に葉文潔を愛してくれる人がいれば嬉しい。

 

まず、三体Ⅱのプロローグを思い出してほしい。

葉文潔と羅輯が出会い、文潔は羅に宇宙社会学の原理を解く。これが羅が三体文明に命を狙われるきっかけとなり、最終的に三体文明に打ち勝つカギになる出来事だ。新しい概念に興味を抱く羅に対して、文潔はこう言う。

人生のほとんどを、これについて考えて過ごしてきたから。ただ、このことをだれかにきちんと話したのは、いまがはじめてよ。どうして話してしまったのかしらね……

謎ポイントが二つもある。何故彼女は人生のほとんどを宇宙の真実に捧げてしまったのだろう?というのが一つ目。人生のほとんどを宇宙社会学について考えているような描写は無印三体にはない。と思う。

人類の不道徳や三体協会の行く末や三体文明の科学技術など、彼女が関わって考えるべきものは数多くあり、単純な科学的興味で探求するのに人生のほとんどは長すぎるのではないか?

そしてどうして話してしまったのか?それが彼女が主と崇め救いを求めた三体文明にとって、脅威であることはわかっていただろうに?

そしてまた先生に教えを請いたいという羅に対し、文潔はこう語る。

この先、たぶんもう、そんな機会はないわね……もし行き詰まるようなら、わたしが言ったことなんかぜんぶ忘れてしまってかまわない。どっちにしても、わたしはもう責任を果たしたから。

(中略)

葉文潔は夕暮れの中、彼女にとって最後の集会へと去っていった。

 責任って、何?そして彼女は何を果たしたのか?というのが三つ目の謎ポイント。

そして、この話は文潔が三体文明からのメッセージを聞く前に語られたことも謎だ。三体文明の真実を知った彼女が喋らなくなり、レーダー峰に登るというのが三体のラストシーンだけれども、これはそれよりもずっと前の話だ。そしてこの時点で彼女はもう羅に会えないことを予期している。

三体ラストの後なら、真実を知って三体文明へ復讐したいという気持ちが出るのはまあ自然だろう。しかし、まだ三体協会の総帥であったはずなのに、なぜ?

 

この四つの謎に、一つ一つ解答を与えていきたい。正直ちょっと強引かな?という部分も多々あるのだけれども、そこはご容赦願いたい。反論があれば大いに反論してほしいし、新解釈があれば嬉々として聞きます。お願いだからみんな葉文潔に興味を持ってくれ。頼むぞ。

まず、四つ目の謎の解答から行きたいと思う。

なぜ最後の集会に行く前に羅に宇宙社会学について話したのか?これはシンプルに、文潔は三体協会の総帥だったころから、三体文明に対する疑念を持っていたということだと思う。つまりは、三体文明は科学力と道徳を兼ね備えた理想の文明ではないということを、彼女は既に知っていた。

これは、最後の集会で葉文潔が捕まった後の調書を見るとわかる。

尋問者 あなたも三体世界を”主”と呼んでいます。これは、彼らに対して救済派のような宗教的な感情を抱いているか、もしくはすでに三体教に帰依していることを意味しているのでは?

葉文潔 いいえ。ただの習慣です。……それについてはもう話したくありません。

(中略)

葉文潔 ふたつの陽子が地球に到達した日は、人類の科学が滅んだ日である、ということです。

尋問者 それはあまりにも……突拍子がなさすぎる。どうしてそんなことがありうるんです?

葉文潔 わかりません。ほんとうにわからない。三体文明にとって、われわれは野蛮人にも値しない。ただの虫けらのようなものかもしれません。

主と呼ぶのはただの習慣、三体文明にとって人類は虫けらのようなもの、とは、三体文明を真に神と崇めていては出てこない言葉だろう。中略しているシーンで、文潔は自身の知る限りの三体文明の情報を語っており、ある程度は情報を与えられていたと推測できる。

その情報から、彼女は三体文明が自身の理想と異なることに気づいてしまったのだろう。聡明な彼女は夢を見ることができなかった。

葉文潔 もし彼らが恒星間宇宙を渡ってこの地球にやってこられるのなら、それは三体文明の科学がきわめて高い水準にあることの証拠になる、それだけの科学力を有する社会なら、必然的に、高度な文明と道徳水準を持っているはずです。

尋問者 その推論は、科学的なものだと思いますか?

葉文潔 (沈黙)

尋問者 これはわたしの推測ですが――あなたの父親は、科学だけが中国を救えるというあなたの祖父の信念に大きな影響を受けています。そしてあなたは、父親から大きな影響を受けている。

葉文潔 (静かにため息をついて)わかりません。 

これはジャッジメント・デイの襲撃シーンが終わった後の調書だ。引用していて泣きそうになってしまった。沈黙とため息は、文潔の絶望感を如実に示している。彼女は理想と異なること、そして自身の考えが科学的、論理的でないことに気づいているから沈黙するしかなかった。

ちょっと脱線するけど、葉文潔は、宇宙でもエイリアンでもなく、科学と父親に助けを求めていたのかなあと思うとほんとうにつらくなってしまう。父親はもういないし、科学ももう発展しない。

三体文明は、文潔の理想とする文明ではなかった。そのうえ、三体協会も彼女の理想とするものではなくなっていた。初期の三体協会の綱領は、彼女の理想と合致したというのに。

われわれの理想は、三体文明に人類文明を矯正してもらうこと――人類の狂乱と邪悪に枷をはめ、ふたたびこの地球を、調和のとれた、罪のない、豊かな世界に戻してもらうことです。

三体協会がこの綱領のままだったら、文潔はまだ救われたかもしれない。だが実際は、人類を憎んで滅ぼそうとするエヴァンズに率いられた降臨派が台頭してしまった。そして彼女にはもうコントロールできなくなっていた。

しかし、火を熾したのは、他でもない、文潔だ。彼女には責任がある。

さて、三つ目の謎だ。責任を果たしたとは何か?

この責任とは、三体文明を迎え入れたこと、そして、三体協会の火を熾したことだ。彼女の人生において、これ以上の責任はない。それを果たしたとはどういうことか。

三体Ⅱのプロローグ時点で、文潔は自分が捕まることも、最後の集会になることも予期していたのだと思う。最後の集会で彼女はこう言っている。

エヴァンズやあなたのような人間は、もはや見過ごせません。地球三体協会の綱領と理想を守るため、われわれは降臨派の問題を完全に解決しなければならない。

そして、こうも言う。

比類なき力を持つわれらが主に比べれば、わたしたちがすることはすべて無意味。だからわたしたちは、やれることをやるだけよ。

この後、集会は警察に占拠され、葉文潔は捕まり、尋問を受けることになる。

このやれること、とは、降臨派の問題を解決することだろう。そしてそれはもはや彼女の手には負えない。警察に三体協会を崩壊させることだけが、彼女がやれることだったのだ。

だから彼女は汪淼に申玉菲と対話させたり、ゲームの三体をプレイさせたりした。汪淼に自身の過去を話したのもその一環だろう。

カウントダウンや宇宙の輝きは三体文明から汪淼への攻撃であり、それを利用し、逆手にとって三体文明とエヴァンズ率いる降臨派に立ち向かったのだ。

汪淼じゃなくても良かったのかもしれない。なんなら、娘の楊冬が担ってくれたら良かったのかもしれない。そう思って読むと、楊冬の教育は失敗だったと語るシーンが悲しすぎる。みんなも悲しみに浸ってほしいので引用する。

「お嬢さんに、すばらしい教育を施されたんですね」汪淼は感慨深く言った。

「いいえ、失敗だったわ。あの子の世界は単純すぎた。あの子が持っていたのは、空気のような理論だけ。それが崩壊したとたん、生きていくための支えがなにもなくなってしまった」

「葉先生、それには同意できません。いま、私たちの想像を超えた事象が起きているんです。人間が世界を理解するための理論が、前例のない災厄に見舞われている。同じ運命に転がり落ちた科学者は、彼女ひとりではありません」

「でも、あの子は女だった。女は、流れる水のように、どんな障害にぶつかっても、融通無碍にその上を乗り越え、まわりを迂回して流れていくべきなのに」

切なすぎやしないか。葉文潔自身が、障害を乗り越え、流れるように生きようとしている。保身に走った母もそうだった。紅衛兵の女たちもそうだった。しかし娘の楊冬は、自殺を選んでしまった。

これは性差別の場面なんかじゃない。彼女が出会ってきたおぞましい女たちの、しかし唯一の美点を、娘は持っていなかった。あまりにつらく、悲しい場面だと思う。

何はともあれ、彼女は三体協会に火を熾した責任を果たした。

そしてもう一つ、三体文明を招いた責任のほうはどうか?

これが、人生のほとんどを捧げた宇宙社会学についてだ。三体文明を脅威に晒す学問を大成させ、誰かに伝える……。二つ目の謎がここで解決する。一つ目もほぼ解決かと思う。彼女は責任を果たしたかったし、理想から外れた三体文明に立ち向かおうとしていたということだ。

 

さて、謎はほぼ解決した。結構根拠を持って葉文潔の行動の動機を書けたんじゃないかなと思う。何度も言うけどこれを機に葉文潔の魅力に気が付いてもらえたらとても嬉しい。葉文潔は地球滅ぼしたかったと単純に思っているひとはもう一回読んでくれ頼む。

ちなみに私も自分で書きながら、見落としがちな彼女の行動や言動に気づけて楽しかった。相当頑張って丁寧に読んだ。普段はこんなことやらないので葉文潔はすごい。劉慈欣もすごい。

でも実は、一番話したいのは一つ目の謎について。もう少し掘り下げて、私の妄想解釈を語っていきたいんだけど、ちょっと長くなり過ぎたのでいったん切りたいと思います。

少しでも葉文潔に興味を持ってくれた方がいたら、次回も見ていただけると嬉しい。次回は葉文潔の人生の根幹にかかわる、あの二つの殺人について語りたい。この話をしないと葉文潔について語ったことにならないと思うので。